執務室へ入ってきたのは、クララだった。
病院ですれ違ったときは、目を赤くして泣いていたが、今の惨状はもっとひどい。
右目の周りがどす黒くうっ血し、腫れあがっていた。
明らかに、殴られたのだと分かった。
公爵令嬢のクララを殴れる人物など、限られている。
ベロニカはすぐにクララを椅子に座らせた。
気を利かせて、ラミロが布を冷たい水で濡らして、持ってくる。
それをクララの右目にあてがいながら、ベロニカはクララが話し始めるのを待った。
しばらく黙っていたクララだったが、ぽろりと涙を零すと、堰を切ったように訴えた。
「ベロニカ、あなたなら出来るでしょう? お父さまを捕まえて、牢に閉じ込めてちょうだい」
「クララを殴ったのは、叔父さまなのね?」
「殴られたのはどうでもいいの。それよりも、ティティを殺そうとしたのが許せない。ティティ……もう元に戻らないのかしら?」
クララがベロニカに寄り掛かるように縋りつく。
ひっ、ひっと、喉奥から嗚咽も漏れだした。
「私のこと、クララちゃんって呼ぶの。そう呼んでいたは、幼少期のときだけだったのに。ティティは、お父さまの金庫にあった大量の毒のせいでそうなったのよね? お父さまは自業自得だって言うけど、そんなのってないわ」
「あれが毒の瓶だと、知っていたの?」
「ううん、知ったのは後になってからよ。瓶を持ち出したのがお父さまに知られて、怒られたときに教えてもらったわ。あれは危ない品だったんだって。それから私、罰として部屋に閉じ込められていたの」
荒い呼吸で息継ぎをし、一生懸命に話すクララに、ベロニカは耳を傾ける。
執務室の一角で行われているやり取りに、ルーベンを始め男性陣も耳を澄ませていた。
「だけど、今日……ティティがばら撒かれた毒を吸い込んで、入院していると使用人が聞きつけてきて……私、部屋を抜け出したわ。入院しているのも、知らなかったのよ。とても心配して病室に向かったら、あんな……」
そこでクララは、大きくしゃくり上げた。
「病院から帰って、お父さまを問い詰めたわ。そしたら、ベロニカを殺すために毒をばら撒いて、ティティも巻き添えにしたと言うじゃない。毒の秘密を知られたからって、殺さなくてもいいでしょう? だって、ティティは、私の恋人なのに……」
わあわあと泣きだしたクララの背を、ベロニカは優しくさすってやった。
きっとベロニカの背後にいる男性陣の間では、クララを証人に立てられないかと、相談が始まっているはずだ。
「……幼くなったティティは、なぜかベロニカを崇拝しているわ。あなたのことを、女神のように褒め称えるのよ。だから、さっきは嫉妬して睨んでしまったけど……お父さまに勝てるのは、ベロニカしかいないって、そう思ったからここに来たの。ベロニカがティティの仇を取ってくれたら、私もベロニカを女神だって、褒め称えるわ」
クララは、ベロニカの腕の中から身を起こし、たくさんのリボンがついたドレスの隠しから、あるものを取り出した。
「これ、お父さまを捕まえるための、証拠にならない? お父さまに殴られて、倒れた先にあったの。たくさんあったから、私が数枚持ち出しても、お父さまは気づいてないはずよ」
くしゃりとシワのついた紙は、怪しい商会が発行した納品書だった。
それを見たラミロが、ガタリと席から立ち上がりクララに近づくと、「確認させてください」と断りを入れて紙のシワを伸ばし始める。
品名には砂時計と書いてあるが、毒の粉の瓶の形状を指しているのは明白だ。
納品書の宛名は『イサーク伯爵』となっていて、クララがサルセド公爵家から持ってきたことを考えると、間違いなくこれが取り引きで使われたサルセド公爵の偽名だろう。
「証拠として押収された受領書の中に、この名前があったのを憶えています」
ここでもラミロの記憶力が、遺憾なく発揮される。
それを受けて、エンリケが次の段階に入ったと明言した。
「これで前進します。クララ嬢という証人に加え、物的証拠も確保できました。もうサルセド公爵を捕えても、大丈夫でしょう」
「ロサ王国の法律だと、サルセド公爵はどんな刑に処されるんだ?」
ルーベンがラミロに問う。
ラミロは頭の中の法律書をめくり、その答えをすぐに見つけた。
「先代国王さまの暗殺容疑が固まれば、それだけで極刑です。もし、そちらが嫌疑不十分だとしても、女王さまを含めた不特定多数の殺人未遂罪が残ります。その場合も、やはり極刑です」
「どっちにしろ、サルセド公爵は終わりだな」
満足そうにルーベンが頷いた。
エンリケによって、サルセド公爵家への家宅捜索の指示が出される。
先代国王の死から始まった、ベロニカの長い波乱の日々に、ようやく終着点が見えた。
思わず肩から力が抜けたベロニカに、ルーベンがそっと寄り添う。
「長かっただろう。何にでも、終わりはくる。ベロニカの戦いも、あと少しだ」
「最後まで、気を抜いちゃ駄目ね」
「少しくらいはいいさ。その間は、俺が気を張っていよう。ベロニカの代わりに指揮を取れる存在が、王配だろう?」
「ふふふ、まだ結婚していないわ」
気の早いルーベンの回答に、思わずベロニカが笑う。
「だったら早く結婚しよう。これでも色々と我慢しているんだ。いっそのこと、ロサ王国の法律を変えて、マドリガル王国方式にしないか? 但し、恋愛結婚に限ると注釈をつけて」
顔を寄せてきたルーベンの瞳には、本気の想いしか見えなくて、ベロニカの胸がとくんと跳ねる。
「サルセド公爵をとっ捕まえたら、考えておいてくれ。もう俺たちは、十分にお互いを確かめ合ったはずだ。俺の相手はベロニカしかいない。ベロニカだって、そうだろう?」
ルーベンが、ベロニカの美しい黒髪を持ち上げ、そこに口づけを落とす。
これまで、そういう類の行為を受けたことがなかったベロニカは、どうしていいか分からず、ただ赤面する。
「初心で恋に不慣れな可愛いベロニカ、芯が強くて美しい女王然としたベロニカ――他にはどんなベロニカを隠してる? いつか全部、俺に見せて欲しい」
さらりとベロニカの髪から手を放し、ルーベンはいい笑顔を残して、指示を飛ばしているエンリケたちの方へ合流した。
取り残されたベロニカは、うまく働かない思考を叱咤していたので、隣にいたクララに凝視されているのに気がつかなかった。
「ベロニカ、あなた、恋のひとつもしたことがなかったのね。それなのに、あんな肉食獣みたいなのに目をつけられて、可哀想に……」
そしてボソリと呟かれ、クララに同情されるのだった。
◇◆◇
セベリノの父である騎士団長へ、『王城の庭園へ毒の粉をばら撒き、女王陛下を殺害しようとした容疑で、サルセド公爵を捕縛せよ』との命が届き、事態は大きく動き出した。
騎士団長が百人の兵を連れて向かったサルセド公爵家の邸では、突然始まった逮捕劇に、上を下への騒動が起きる。
取り引きにまつわる書類を暖炉で焼いていたサルセド公爵は、まもなく捕まえられた。
「私に触るんじゃない! 王族に対して不敬だぞ!」
散々わめきたてていたが、口先だけだ。
百人の兵を相手にいつまでも抵抗が続くわけもなく、サルセド公爵は渋々のていで連行された。
ベロニカはそんなサルセド公爵をいきなり牢に入れたりはせず、裁判が行われる日まで、軟禁できる貴賓室に閉じ込めた。
国中の関心を集めた『毒の粉ばら撒き事件』は、女王の叔父という直近の王族による犯行が疑われ、さらに世間の注目を浴びる。
裁判の日には、その判決結果をいち早く知ろうと、裁判が行われる王城を取り囲むように、群衆が集まる。
新参貴族と古参貴族の代表が列席して、いよいよ、サルセド公爵が公に裁かれる時が来た。