「このところ、立て続けに視察に出ていると聞きました。そろそろ、お休みになっても、よろしいのではないでしょうか。令嬢たちに人気の菓子店から、新作の菓子を取り寄せました。ぜひ、お茶の席に、私もご一緒させていただきたく」
ベロニカがルーベンを連れて、新たな視察地へ向かおうと、回廊を歩いているときだった。
柱の陰から一行の前に現れたティトが、お伺いを立てるように恭しくベロニカへ跪き、すらすらと誘い文句を紡いだのだ。
ティトは今にもベロニカの手を取り、口づけをしたい素振りを見せたが、セベリノが利き手を剣に添えたので諦める。
「私は今、執務中です。退きなさい」
きっぱりとベロニカが拒否をする。
すると紺色の瞳を潤ませ、憐れみを誘う顔つきで、なおもティトが縋ってきた。
「そう言われて退いていましたが、いつまで待っても、私にお声がかかりません。もうひとりの婚約者候補とは、毎日のように顔を合わせているのに……どうか、お願いします。私にも機会をください」
「エンリケは宰相なのだから、仕事上、私と顔を合わせるのは当たり前です。遊んでいる訳では、ないのですよ」
「では……ルーベン王子殿下は、どうなのですか? 最近、ご一緒している場面を、多く見かけます。もしかして、新たな婚約者候補としてお迎えになるのでは、と噂になっておりますが」
そこでティトは顔を上げ、ルーベンをキッと見た。
野性味のあるルーベンの相貌は、ティトとは違った意味で男前だ。
その顔が、ティトに睨まれて、不機嫌になる。
ベロニカでさえ、ルーベンの圧には負けるのに、ティトはそれを真正面から受けて、瞳を伏せもしない。
ティトにこんな胆力があったのだと、ベロニカは驚かされた。
「下衆な勘繰りは無礼だぞ。名を名乗れ」
「バレロス公爵家ティトと申します。僭越ながら、女王陛下の婚約者候補に、名を連ねております」
ドスの効いた低い声でルーベンに尋ねられても、狼狽えず堂々と答えてみせるティト。
どこか過去のティトとは違う様子に、ベロニカは胸騒ぎを覚えた。
「ティトよ、お前が相手にされないのは、お前が役立たずだからだ。エンリケや俺を妬む前に、もっと己を磨いたらどうだ? 顔だけの男ではないと、証明して見せろ」
さすがに手痛いところを突かれたのか、ティトの顔が歪んだ。
そしてベロニカにだけ頭を下げ、「御前を失礼いたします」と詫びて立ち去った。
白金色の髪を揺らして歩く後ろ姿までが優美なティトに、ルーベンがふんと鼻を鳴らす。
「あれが、政敵が送り込んできた婚約者候補か。予想以上だったぞ」
腕を組むルーベンの後ろで、カイザが興味津々の顔で、ティトとのやりとりを覗いていた。
「いやあ、国宝級でしたね、殿下。マドリガル王国でも、あれほど美麗な男はいませんよ」
「俺が言っているのは、顔の話ではない」
仲良い主従の話は続いていたが、ベロニカはティトに感じた不穏さが、ずんと胸に迫るようだった。
ベロニカがティトに応えないため、過去とはまるで違う状況にある今、ティトやサルセド公爵がどんな手を使ってくるのか分からない。
毒への警戒は怠っていないが、それ以外にも警戒をしていこうと、ベロニカは気を引き締めたのだった。
◇◆◇
「あの王子、邪魔だな。……もしかして、本当に婚約者候補になるつもりか?」
ティトはイライラした声で、ルーベンを罵る。
顔だけの男と言われるのは初めてではないが、ベロニカの前で主張されたのは腹が立った。
「せっかく、執務室から出てきた女王陛下に遭遇できたのに、あまり話せなかった」
最近のティトは、ベロニカにすげなくされるたび、胸が高鳴るのを自覚していた。
これは幼いクララに我が儘を言われたのが嬉しくて、そのまま恋人になった少年ティトの性癖を、ベロニカが刺激してしまったせいだった。
ベロニカの僕になりたい。
ベロニカに命令されたい。
ベロニカの手足となって、こき使われたい。
仕事を任されるエンリケや、忠犬のように従うセベリノ、ベロニカに仕えるラミロが、うらやましくて仕方がない。
ティトは、ベロニカを取り囲む輪に入れてもらいたくて、ベロニカの後を執拗につけまわした。
そうまでしても叶わなかったのに、ティトが望んでいた位置に、すんなりと入り込んだルーベンが憎かった。
「女王陛下と肩を並べて歩くなんて……本来、それが許されるのは、婚約者候補だけだろう?」
サルセド公爵に唆されて、ベロニカを恋に落とそうと企んだが、今ではその立場はひっくり返った。
ベロニカの瞳に映りたくて、ベロニカの声を聞きたくて。
ティトは胸を焦がし、ベロニカに恋い患っている。
ルーベンに馬鹿にされた言葉を思い出すと、ティトの頭に血が昇った。
「役に立てばいいんだろう。女王陛下の信頼を得るためなら、サルセド公爵だって欺いてやる」
ティトはルーベンへ闘志を燃やし、危険な道へ足を踏み出す。
サルセド公爵は決して甘くない。
今は大人しくしているが、すでに欲望のために、人の命を手にかけた男だ。
まだ若いティトが、ひとりで挑むには巨大すぎる相手だったが、ティトはそれを知らない。
「クララに聞いてみよう。サルセド公爵の秘密や弱みを、女王陛下に奏上すれば、きっと私を使える駒だと思ってくれるに違いない」
ベロニカの危惧した通り、ティトは思いもよらぬ方へ舵を切るのだった。
◇◆◇
「俺が王配になろう。結婚する気のない宰相と、あの優男しか婚約者候補がいないなんて、肝心な人材に恵まれないな」
憐みの言葉が付いていたが、ベロニカはルーベンから望んでいた返事をもらえた。
「ありがとうございます。これで、ロサ王国はますます繁栄するでしょう」
「手続きもあるし、俺は一旦、帰国する。こちらでも、必要な手続きがあれば、今のうちに済ませよう」
その言葉に、ラミロが書類を持ってくる。
あらかじめサインが必要なものを集めておいたのだ。
ラミロがルーベンにサインをする場所を指し示しながら、説明を加える。
「ロサ王国では、結婚前に一定期間を婚約者として過ごさないと、婚姻ができません。マドリガル王国と、少し法律が違うんですよ」
「へえ、オラシオがすぐに結婚をしたがったけど、恋人としての期間を置かないと嫌だとデルフィナ妃に跳ね除けられていたのは、そのせいか?」
ルーベンがエンリケを見やる。
エンリケの妹デルフィナは、学生時代にルーベンの異母弟オラシオに告白され、その日のうちに結婚しようと言われたらしい。
しかしデルフィナはロサ王国の出身だ。
思い立ったらすぐ結婚のマドリガル王国の慣習が、受け入れられなかったのかもしれない。
「デルフィナのように、相手との相性を見極めるために、その期間を設けたいと思う者もいますが、貴族にとっては身辺整理の期間でもあるのです。婚約期間中は、ほかに恋人がいたとしても大人しくして、結婚相手への印象を良くするのが通常ですね。そして両家の血を引く後継者を残し、役目を果たしたら、また恋人との仲を復活させる。ロサ王国の貴族はそういう結婚が多いですから」
「面倒だな。結婚をしたのなら、その相手を大切にすればいいのに。ロサ王国では、余程、嫌な相手と結婚させられるのか? マドリガル王国では、ある程度の選択の自由が与えられるし、一生を共にする相手を敬うものだがな」
ベロニカは、ルーベンの言葉に希望を見出す。
そして、そわそわする心を落ち着けさせながら、口を挟んでみた。
「マドリガル王国では、貴族でも、恋愛結婚をするのですか?」
「恋愛結婚もあるし、政略結婚もある。だが、政略結婚だとしても、お互いを尊重しながら添い遂げるものだ。他に恋人をつくるなど、非難の対象となる」
ルーベンは当たり前のように話すが、ロサ王国ではそうではない。
ベロニカは目の前が明るくなるのを感じた。