「エンリケの妹が? マドリガル王国の第二王子に嫁いでいるのね?」
「マドリガル王国では、いまだ王太子の座が空いたままで、このままでは三人いる王子による、激しい争奪戦が始まるのではないかと、もっぱらの噂です。宰相さまは、そんな微妙な立場にあるデルフィナさまを護るために、奮闘しているようですね」
デルフィナというのが、エンリケの妹の名前だ。
過去では、マドリガル王国の話題と共に、何度かエンリケの妹の存在が出かかったが、詳らかになる前に話が流れていったように思う。
そして現在、争奪戦は噂の段階だが、ベロニカは未来で、それが事実となるのを知っている。
(過去のエンリケが、奔走していたのも頷けるわ)
デルフィナの夫の第二王子は、正妃が生んだ王子だ。
第一王子と第三王子がそれぞれ別の側妃から生まれているため、第二王子は王太子の座に一番近いと目されている。
この争奪戦の大本命なのだが、しかし――。
「私の知識で、エンリケを助けてあげられそうよ。ラミロ、ご苦労様だったわね。これであなたは、れっきとした私の右腕よ。すぐに文官の制服を取り寄せなくてはね」
そして届いた制服の長い裾を、またしても七分丈にしてもらっているラミロに、あれは本当にラミロの好みだったのだと納得したベロニカだった。
◇◆◇
「聞きましたか、陛下。ラミロはこの若さで、生き字引になる素質があります。とんだ原石を見つけてきましたね」
女王専属秘書官として雇ったラミロと、エンリケの顔合わせが終わると、ベロニカはラミロにロサ王国の法律書を渡した。
そしてラミロ本人に内容を確認させて、どれくらいの期間で全文を暗記できるか聞いた。
その答えが一か月だったので、エンリケが仰天しているところだ。
ベロニカはすでに知っているので、相変わらずのラミロの超人ぶりに満足そうに微笑む。
実際にラミロが一か月で法律書を覚えてみせれば、評価は鰻上りになるはずだ。
過去ではエンリケの役目だった鬼教官を、二度目ではベロニカが引き受けることにした。
ベロニカに称賛してもらうのが最高のご褒美だと思っている節があるラミロは、薦められるまま片っ端から書棚の本を暗記していくのだった。
そしてラミロが知識を頭に叩き込んでいる間に、ベロニカはエンリケと二人きりで話し合う場を持った。
セベリノには、声が聞こえない位置まで遠ざかってもらっている。
ベロニカは今から、自分でもうまく説明できない出来事も含めて、味方になってもらいたいエンリケに、全てを打ち明けるつもりだ。
その中にはセベリノの死に様もある。
ベロニカはそれを、セベリノに聞かせたくないと思った。
ベロニカを護れずに死んだ己を、きっとセベリノは責めるだろうから。
「改めて、どうしたのですか? 何か私に、相談があるとか?」
今はまだ、何も知らないエンリケの顔を見て、ベロニカは覚悟を決める。
国のため、民のため、身を粉にした過去のベロニカでは、駄目だった。
むしろ自分は悪の女王だと割り切って、利用できるものは何でも利用するくらいの狡猾さがないと、生き残れないのだ。
ベロニカはエンリケに、気がふれたと思われても仕方がない、奇妙な体験を語り始める。
「私は今、二度目の人生を生きています。新暦872年、サルセド公爵が即位するのに合わせて、一度目のベロニカは死んでいるのです。そしてなぜか、過去に舞い戻り、こうしてまた女王となりました」
「……続きをどうぞ」
とにかく最後まで話を聞こうと思ったのだろう、エンリケはベロニカを促した。
「一度目の人生で、愚かで未熟な私は、戴冠してからほんの数年の間に、多くの過ちを犯します。そのせいで、悪の女王と呼ばれ、エンリケは馘首され、セベリノは戦死し、ラミロは悲しい思いをするのです」
「今の陛下から、その未来は想像もつきませんが……」
「敵は分かっています。全ての黒幕は、王位簒奪を狙うサルセド公爵です。私は一度目の人生で、怨霊になってでも復讐をすると誓いました。そこで――」
ベロニカは姿勢を正す。
エンリケは、燃えるようなベロニカの深緑色の瞳に、自分が映っていることに何故か震えた。
「エンリケにも、その復讐を手伝ってもらいたいのです。代わりに、これからマドリガル王国で起きる内紛について、私が知る限りの情報を教えます。きっと第二王子に嫁いだ妹を救う、手立てになるでしょう」
妹と聞いて、エンリケが肩を揺らして反応した。
「私の妹の身に、何か起きるのですか?」
「詳しくは分かりませんが、これから数年の内に、エンリケは領地から離れられないほど、かかりきりになる問題に巻き込まれます。その原因が、マドリガル王国の王太子問題だと思うのです」
「やはり、順当には決まらないのですね?」
エンリケも危惧していたのだろう。
すんなりと、第二王子が王太子には決まらないと。
ベロニカの戴冠式に招待したのも、第二王子ではなく第一王子だった。
それの意味するところは――。
「妹からも、第一王子がとても優秀であるのは、聞き及んでいます。だからこそ、王太子を誰にするのかはっきり決められず、これまで先延ばしにされてきたのだと」
「どうしますか? 先の話を聞きますか?」
ベロニカは、エンリケに選択を迫った。
もしここで協力が得られなくても、何らかの形で先の情報は流そうとは思っている。
だが、ベロニカは味方が欲しい。
必ずサルセド公爵を打ち負かすには、エンリケの頭脳が必要だ。
だからここで、エンリケ自身の言葉で、誓ってもらいたいのだ。
「陛下の復讐の手伝いをします。そもそも、不当にサルセド公爵が王位簒奪するのを、黙って見てはいられません。私は陛下に、忠誠を誓います」
真っすぐなエンリケの言葉に、ホッと胸をなでおろす。
「ありがとうございます。エンリケが側にいてくれれば、それだけで百人力です」
「それほど頼りにしてもらえるのは、宰相冥利につきますよ」
お互いに、ふふっと笑い合う。
数か月を待たず、エンリケとの間に、絆が結ばれた。
「エンリケが最も心配しているマドリガル王国の王太子の座は、私が死ぬ直前まで決まりませんでした」
「三人の王子の間で、勢力が拮抗したのですか?」
「いいえ。早々に第一王子が第三王子の勢力を飲み込み、第二王子の勢力に並んだのです。おかげでマドリガル王国は真っ二つに分かれ、これまでになく政治が混迷します。おかげでロサ王国との交渉事は、全て棚上げにされてしまいました」
ふう、とベロニカは溜め息をついた。
過去の進まなかった仕事を、思い出したのだ。
しかし、ここは二度目だ。
「エンリケに提案します。第一王子よりも先に、第三王子の勢力を飲み込んでしまうのです。そうすれば確実に、王太子の座は第二王子のものとなります。あとから第一王子が足掻こうと、もはや覆せないでしょう」
「横取りしてしまう訳ですね?」
「現時点では、第三王子は誰のものでもありません。早い者勝ちですわ」
そう言って笑うベロニカは、艶冶だった。
エンリケも一瞬、これが悪の女王か、と思ったほどだ。
「ラミロがマドリガル王国の法律も覚えてしまったら、諜報員として活動させます。うまく第三王子と連絡を取り合って、丸め込んでください。そこはエンリケの腕前にかかっていますよ」
「頑張ります。妹のためにも、ロサ王国のためにも」
「大国マドリガル王国に政変が起きれば、必ずその影響は遅れてロサ王国にもやってきますからね。争いは、起きる前に鎮めるのが最も容易いのは、自明の理です」
エンリケは、才気あるベロニカを前にして首をかしげる。
「陛下は過去に、どんな過ちを犯したのですか? 私の目の前にいる陛下は、立派な為政者にしか見えませんが」
突っ込まれたベロニカは、視線を泳がせる。
言うべきか、言わざるべきか。
しばらく迷って、言う選択をした。
エンリケには隠し事をしないと、ベロニカは決めた。
「……恋に溺れたのです。女王であることを忘れ、初心な少女のようになってしまいました」