「クララ、その瓶をどうして持ち出したんだ。危ないと言っただろう!」
サルセド公爵が慌てている。
ティトは何のことか分かっていない顔だ。
「ティティが、ベロニカと一緒にお茶を飲むなんて言うから、これをベロニカに吸わせてやろうと思ったのよ。大丈夫、ほんの少しのつもりだったわ」
クララが振っている瓶は、砂時計のようにも見える香水瓶だった。
だが、中身が香水でないことは、サルセド公爵の顔色で分かる。
それにサラサラと音がしているから、入っているのは液体でもないようだ。
「しばらくベロニカの具合が悪くなればいいと思っていたけど、もう邪魔だから永久に退場させてしまいましょうよ。そして、代わりにお父さまが即位して、私はティティと結婚する。そのためなら、ちょっと苦しむくらい我慢するわ」
クララはおもむろに、瓶の蓋を開けようとする。
すると、サルセド公爵が腕で顔を覆った。
「大丈夫よ、お父さま。これが使われたと分かる程度にしか、吸い込まないわ。私が苦しみだしたら、侍医を呼んでちょうだい。そして、ベロニカに罪をなすりつけるのよ」
これからクララが体を張って、ベロニカを罠にかけるのを、黙って見てはいられなかった。
ラミロは止めようと、椅子から立ち上がる。
しかし、それを妨げるように、サルセド公爵がラミロに向かって怒鳴った。
「おい、小僧! この話を聞いたからには、もう逃げるのは許さんぞ! ベロニカの王冠を奪うまで、お前の母親は人質だ!」
いつの間に、ラミロの母の事情を知られていたのか。
立ち上がったまま動けなくなったラミロを、いい気味だとサルセド公爵は嘲笑する。
「どうやら、国を出る準備をしていたようだが、残念だったな? お前の秘書官としての腕は買ってやるから、今後も、私のために働き続けるんだ!」
高飛びの件までバレている。
ラミロはごくりと、唾を飲み込んだ。
「流れはこうだ。ティトとクララの仲の良さに嫉妬したベロニカが、お茶の席でクララに毒を盛った。ティトは苦しむクララを執務室まで連れてくる。そこで私が侍医を呼び、クララが診察されている間に、小僧が毒の瓶をベロニカの寝室に隠す」
サルセド公爵が、クララとティトに説明し、最後にラミロを睨んだ。
必ずやり遂げろという、強い圧を感じる。
ここで失敗すれば、母がどうなるか分からない。
ラミロは膝が震えるのを感じた。
ベロニカに恨みはないし、むしろ今まで良くしてもらった。
そんなベロニカを、これから罠にかける。
良心が痛まないはずがなかった。
「ベロニカさまは……どうなるんですか?」
ラミロの記憶力は、ロサ王国の法律を網羅している。
ロサ王国では、女王と言えど罪を犯したと判定されれば、刑を科せられる。
クララは致死量の毒を吸い込むわけではないから、おそらく傷害罪にあたるだろう。
その場合、王族ならば数年の蟄居が妥当なところだ。
しかし、このサルセド公爵が、それで済ませるだろうか。
ベロニカを完全に引退させるため、裏で手を回さないとも限らない。
「ふん、お前の知ったことではないわ! まあ私も、寝覚めが悪いからな、殺しはせんよ」
頼りない口約束ではあったが、ラミロはそれに縋るしかなかった。
執務室の中で決められた通りに、物語が進み始める。
クララは毒の粉を吸い込み、真っ赤な顔で喉を掻きむしって、呼吸困難を起こした。
本気で心配するティトが、泣き叫ばんばかりにクララに縋りつく。
サルセド公爵が侍医を呼びに行き、その隙にラミロがベロニカの寝室に忍び込んだ。
初めて侵入したベロニカの部屋は、真面目なベロニカらしく、落ち着いた色の家具で統一されていた。
ラミロは手の中の瓶を見つめ、どこにこれを隠そうかと考える。
自分が隠すなら、絶対に自分のテリトリーには隠さない。
見つかったときに、真っ先に容疑がかかるからだ。
だが、それとは反対のことを、今からしなくてはならない。
隠されているようで見つけやすい、そんな場所を探して歩く。
手の中の瓶からは、ラミロが動くたびにサラサラと音がする。
ただの細やかな黄色い粉に見えるが、ほんの少し吸い込んだクララが、ラミロの目の前で激しく咳き込んだ。
おそらく、サルセド公爵もクララも、毒の成分を知っているのだろう。
そしてどこかに解毒剤を持っているから、あんなに短絡的にこれを摂取できたのだ。
もしかしたら王族が使う特別な毒薬なのかもしれないと、ラミロはうすら寒い思いがした。
さんざん悩んだが、定番すぎる寝具の下に瓶を隠した。
これから、サルセド公爵へ報告に行かなくてはならない。
とぼとぼと歩くラミロの後ろ姿が、ベロニカの寝室から消えた。
侍医が毒だと判断を下す前に、サルセド公爵は城中の兵に招集をかける。
そして使用人に、ベロニカの現在地を探させた。
ベロニカは見つからなかったが、セベリノが奥庭に立っていたから、その近くにいるだろうとあたりをつけ、サルセド公爵は兵へベロニカ捕縛の命を下す。
ラミロは自分のしたことの恐ろしさに慄き、捕り物が終わるまで、ずっと執務室に籠っていた。
そして朝になって、セベリノの壮絶な死に様を知って、椅子から崩れ落ちたのだった。
◇◆◇
「僕はそれから、秘書官としてサルセド公爵のもとで働き続けました。いよいよ今日が戴冠式で、ようやくサルセド公爵の監視の目から外れられたので、ベロニカさまを訪ねることが出来たのです」
ラミロは懐から鍵を取り出す。
そして牢の中へそれを差し入れた。
「これは牢と鎖の鍵です。牢番から盗んできました。今日ならば、城中が大騒ぎしているので、ベロニカさまも逃げ出せるかもしれません。僕、これからサルセド公爵に人質にされた母を助けに行ってきます。チャンスは今日しかないと思うから」
ラミロは、ベロニカさまの逃走を手伝えなくて、ごめんなさいと頭を下げた。
ふわふわした茶色の髪を、ベロニカはじっと見つめた。
母を人質に取られ、脅されたラミロを、ベロニカは責めるつもりはなかった。
それよりも、ベロニカはセベリノのその後が気になった。
「セベリノは、ちゃんと葬ってもらえたのかしら? そのまま、野ざらしってことは……」
「セベリノさまは、他の多くの兵と共に共同墓地に入れられるところを、騎士団長さまが職を辞してもいいから、遺体をテラン伯爵家に返して欲しいと嘆願されて、聞き届けられました。だから、お墓はご実家にあります」
ラミロの答えに、ベロニカは頷いた。
そしてラミロが牢の中へ入れた鍵を手に取る。
「ありがとう、ラミロ。不甲斐ない女王で、私こそ謝らないとね」
「とんでもありません。僕は、最初からサルセド公爵の手先だったけど、ベロニカさまを応援していました。できることなら、国と民を思うベロニカさまの真摯な治世を、支えて行きたかった」
ラミロがそこで初めて、声を震わせる。
泣いてはいけないと、今までも我慢していたのだろう。
ぐいっと袖で流れそうだった涙を拭い、顔を上げる。
「サルセド公爵は、ベロニカさまの罪を問う裁判を行うと言っていたけど、その準備はまるで進んでいません。このままでは、ベロニカさまは死ぬまでずっと、牢に囚われ続けます。だからどうか、逃げてください」
「……分かったわ。私も頑張るから、ラミロも頑張るのよ」
ラミロは最後にもう一度だけ頭を下げると、さようならと告げて立ち去った。
その背中を見送り、足音が完全に離れてから、ベロニカはそっとスカートの裾をまくり上げた。
ラミロには見えなかっただろう。
鎖に繋がれたベロニカの両足はうっ血し、茶色に変色している。
触ってもすでに感覚がなく、鎖を外したところで、逃亡できるほど歩けるとは思えなかった。
心配してくれたラミロを安心させたくて、ベロニカは笑って優しい嘘をついたのだった。