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第14話

 新暦872年――ベロニカは、手足を長い鎖で繋がれ、牢に収容されていた。

 裁判が行われると聞いていたが、そんな様子はどこにもないまま、数か月が過ぎる。

 在りし日の美麗な姿は見る影もなく、ベロニカの着ていた服は薄汚れ、艶やかだった髪は絡まり、粗食のせいで頬がこけていた。

 このまま、この薄暗い場所で、飼い殺しにされるのだろうか。

 こつん、こつん、こつん。

 小さな足音が、石の壁に反響する。

 誰かがこの牢へ近づいているようだが、いつもの牢番ではない。

 年老いた牢番の足音には、もっと擦れる砂音が混じる。

 悪くしている右足を、やや引きずっているからだ。

(誰かしら? この古い牢には、私しかいないのに)

 ベロニカは顔を上げ、天井近くにある通気口を眺める。

 この牢の中から窺える、唯一の外界がそこからの青空だった。

 捕えられた日からずっと、ベロニカは流れる雲に問いかけていた。

 どうすれば良かったのかと。

 こつん。

 ベロニカの牢の前で、足音が止まった。

 そこで初めてベロニカは、視線をそちらへ向ける。

 鉄格子越しに、懐かしい顔を見つけて、ベロニカは微笑んだ。

「久しぶりね、ラミロ。元気にしてた?」

 誰とも話す機会がなかったので、ベロニカの声はしゃがれていた。

 一瞬、ラミロが唇を歪めたが、そこから漏れる嗚咽を、なんとか噛み殺した。

 自分には、ベロニカの今を、嘆く権利などない。

 ラミロはここへ、懺悔をしに来たのだった。

 ◇◆◇

 ベロニカが投獄された日、ラミロは執務室で、宰相のサルセド公爵と一緒だった。

 ティトとのお茶会のため、奥庭へ向かったベロニカに代わり、ラミロが残って政策の肉付けをしていた。

 これまでの政策の事例がすべて頭の中にあるラミロにとって、こうした仕事はお手の物だった。

 簡単な作業で桁違いの給金をもらえて、ラミロは秘書官に選ばれた幸運に感謝していた。

 諜報員の活動は危険もあるし、仕事に区切りがつくまでは、入院している母の様子を見に行けない。

 秘書官になってからは、毎日病院へ立ち寄って、元気なラミロの顔を見せて、母を安心させられた。

 鬼教官だったエンリケに仕込まれて、当初こそ大変だったが、今ならばそれが、最短で秘書官の仕事に慣れる道だったと分かる。

 そして美しくて優しいベロニカに、右腕として頼りにされる生活は、闇の中で働いてきたラミロに光を当てた。

 ベロニカを政治の世界から引きずり降ろすために、金を積まれて工作員として雇われたラミロだったが、攻撃対象だったベロニカの、真摯に国と民を思う政策を支えるうちに、自分は間違っていると気づいた。

 本当に政治の世界から排除すべきは、国や民を我が物のように扱う、サルセド公爵や新参貴族だ。

 だが、それが分かったとして、ラミロは手のひらを反すわけにはいかなかった。

 仕事の契約を翻意にすれば、斡旋屋の親方の面子を潰してしまうし、潜り込んだ秘書官の仕事からも、離れなくてはならない。

 そうなれば、ラミロは病気の母を抱えて、路頭に迷うことになる。

 ベロニカの退場を狙って数回、試みた作戦が失敗したのは本当だが、その後も、ベロニカを護る騎士が邪魔で作戦の失敗が続いている、という偽りの報告をラミロは上げ続けた。

 そのうちにサルセド公爵が、ベロニカを狙うのを諦めてくれないか、と願っての行動だった。

 しかし、サルセド公爵の王位への執着心は翳らない。

 失敗続きのラミロを切り捨てもせず、ティトの加勢に回るよう指示をしてきた。

 サルセド公爵に命じられ、色仕掛けを試みるティトは、貴族の中でもとりわけ顔の良い男だった。

 女の扱いに慣れていそうなティトに、ラミロの不安は高まる。

 そして、ベロニカが恋愛結婚に憧れているという情報をしぶしぶ流し、ティトがうまくそれを利用した。

 初心だったベロニカは、巧言令色なティトに絡めとられ、やがて恋に落ちていく。

 ちょうど、切れ者のエンリケが留守だったことも、サルセド公爵に味方した。

 ラミロはせめて、ベロニカがいない間、政務を滞らせないように、必死に働いた。

 その手腕は目を見張るものがあったが、サルセド公爵がまたしても邪魔をする。

 せっかくベロニカが国と民を思って打ち立てた政策を、改悪していくのだ。

 早くエンリケが帰ってきてくれないか、ラミロはそればかり願うようになる。

 ベロニカ本人については、恐ろしい騎士のセベリノが目を光らせている。

 ティトに無理やり、貞操をどうにかされる事態は、避けられるだろうと思っていた。

 そしてエンリケが領地から戻り、これで全てが元に戻ると安心したラミロを、さらなる悲運が襲う。 ベロニカに、ティトとの付き合い方を考え直すよう説いていたエンリケが、馘首に追いやられたのだ。

 サルセド公爵に、唯一対抗できそうなエンリケの退場は、ラミロにとって痛かった。

 そして宰相の座についたサルセド公爵は、やりたい放題の政務を始めた。

 ベロニカから預かった印璽を使って、己や新参貴族に都合のいい政策を通してしまう。

 おかげで、ベロニカは恋に現を抜かし執務を蔑ろにする悪の女王として、民の間で軽蔑され始めた。

(どうしよう……このままでは、ベロニカさまも国も、とんでもないことになる)

 ベロニカを支援していたはずの古参貴族からは、このところ距離を置かれているのを感じる。

 おそらく、役立たずになったベロニカを、見限ったのだろう。

 ということは、ベロニカに何か起きたとき、もう頼りになる存在がセベリノしかいない。

 ラミロは己の無力を嘆く。

 せめて、もうサルセド公爵に加担したくないと決心したラミロは、母をつれてマドリガル王国へ逃げる準備をする。

 ちょうどマドリガル王国では、革命の機運が高まっていて、そのどさくさに紛れたら、また諜報員として活動が出来るかもしれない。

 しかし、運命の足音は、すぐそこまで迫っていたのだった。

 お茶会に行っていたはずのティトが、クララを抱きかかえて、執務室に飛び込んできた。

 そして、サルセド公爵の謀を、自分の失態でベロニカに知られてしまったと白状した。

 憤慨したサルセド公爵は、宰相の机にあった大きな文鎮を、ティトの顔に目がけて投げつける。

「この役立たずが! もう少しで、ベロニカを退位させられたのに!」

 文鎮が当たったティトの青白い額から、真っ赤な血が流れた。

 それを見てクララが悲鳴を上げる。

「ひどいわ、お父さま! どうしてティティに、こんなことをするの!」

「そいつが能無しだからだ! クララと結婚など、絶対にさせるものか!」

 いまだ、ティトへの怒りが収まらないサルセド公爵は、もっと投げつけられる物がないかと、辺りを見渡す。

 クララがティトを背にかばい、サルセド公爵へ恨み言を言う。

「悪いのはベロニカだわ! ティティは何も悪くない!」

「そのベロニカを退けるための計画を、そいつがめちゃくちゃにしたんだ!」

「ティティがやりたくないことを、無理やりさせたのはお父さまじゃない! ベロニカをどうにかしたいなら、直接ベロニカを攻撃すればいいのよ!」

「それが出来ていれば苦労しない。あの騎士の護りが強固で、手出しが出来んのだ!」

 そしてサルセド公爵は、ラミロを指さす。

「こいつは腕利きの工作員と聞いたが、何度もベロニカを狙って失敗している」

 急にこちらに矛先が向けられた。

 ラミロは集まる視線から逃げるように、やや俯く。

 もう関わりたくない。

 そんな気持ちが顔に出ていないことを祈る。

「ふうん、子どもみたいな見た目ね。本当に腕利きなの?」

 自分もリボンだらけの幼いドレスを着ているクララが、ラミロをそう評価する。

 黙ったままのラミロに、何を思ったのか、クララがニヤリと笑った。

 その顔がサルセド公爵にそっくりで、ラミロは背筋がぞくりとした。

「そうだわ、いいことを思いついちゃった! これ、ベロニカの寝室にでも、置いてきてくれない? 工作員なら、使用人たちの眼をかい潜って、それくらいするのは簡単よねえ?」

 そうして見せられた不思議な形の瓶が、ベロニカの将来を決定づけたのだった。

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