新暦872年――ベロニカは、手足を長い鎖で繋がれ、牢に収容されていた。
裁判が行われると聞いていたが、そんな様子はどこにもないまま、数か月が過ぎる。
在りし日の美麗な姿は見る影もなく、ベロニカの着ていた服は薄汚れ、艶やかだった髪は絡まり、粗食のせいで頬がこけていた。
このまま、この薄暗い場所で、飼い殺しにされるのだろうか。
こつん、こつん、こつん。
小さな足音が、石の壁に反響する。
誰かがこの牢へ近づいているようだが、いつもの牢番ではない。
年老いた牢番の足音には、もっと擦れる砂音が混じる。
悪くしている右足を、やや引きずっているからだ。
(誰かしら? この古い牢には、私しかいないのに)
ベロニカは顔を上げ、天井近くにある通気口を眺める。
この牢の中から窺える、唯一の外界がそこからの青空だった。
捕えられた日からずっと、ベロニカは流れる雲に問いかけていた。
どうすれば良かったのかと。
こつん。
ベロニカの牢の前で、足音が止まった。
そこで初めてベロニカは、視線をそちらへ向ける。
鉄格子越しに、懐かしい顔を見つけて、ベロニカは微笑んだ。
「久しぶりね、ラミロ。元気にしてた?」
誰とも話す機会がなかったので、ベロニカの声はしゃがれていた。
一瞬、ラミロが唇を歪めたが、そこから漏れる嗚咽を、なんとか噛み殺した。
自分には、ベロニカの今を、嘆く権利などない。
ラミロはここへ、懺悔をしに来たのだった。
◇◆◇
ベロニカが投獄された日、ラミロは執務室で、宰相のサルセド公爵と一緒だった。
ティトとのお茶会のため、奥庭へ向かったベロニカに代わり、ラミロが残って政策の肉付けをしていた。
これまでの政策の事例がすべて頭の中にあるラミロにとって、こうした仕事はお手の物だった。
簡単な作業で桁違いの給金をもらえて、ラミロは秘書官に選ばれた幸運に感謝していた。
諜報員の活動は危険もあるし、仕事に区切りがつくまでは、入院している母の様子を見に行けない。
秘書官になってからは、毎日病院へ立ち寄って、元気なラミロの顔を見せて、母を安心させられた。
鬼教官だったエンリケに仕込まれて、当初こそ大変だったが、今ならばそれが、最短で秘書官の仕事に慣れる道だったと分かる。
そして美しくて優しいベロニカに、右腕として頼りにされる生活は、闇の中で働いてきたラミロに光を当てた。
ベロニカを政治の世界から引きずり降ろすために、金を積まれて工作員として雇われたラミロだったが、攻撃対象だったベロニカの、真摯に国と民を思う政策を支えるうちに、自分は間違っていると気づいた。
本当に政治の世界から排除すべきは、国や民を我が物のように扱う、サルセド公爵や新参貴族だ。
だが、それが分かったとして、ラミロは手のひらを反すわけにはいかなかった。
仕事の契約を翻意にすれば、斡旋屋の親方の面子を潰してしまうし、潜り込んだ秘書官の仕事からも、離れなくてはならない。
そうなれば、ラミロは病気の母を抱えて、路頭に迷うことになる。
ベロニカの退場を狙って数回、試みた作戦が失敗したのは本当だが、その後も、ベロニカを護る騎士が邪魔で作戦の失敗が続いている、という偽りの報告をラミロは上げ続けた。
そのうちにサルセド公爵が、ベロニカを狙うのを諦めてくれないか、と願っての行動だった。
しかし、サルセド公爵の王位への執着心は翳らない。
失敗続きのラミロを切り捨てもせず、ティトの加勢に回るよう指示をしてきた。
サルセド公爵に命じられ、色仕掛けを試みるティトは、貴族の中でもとりわけ顔の良い男だった。
女の扱いに慣れていそうなティトに、ラミロの不安は高まる。
そして、ベロニカが恋愛結婚に憧れているという情報をしぶしぶ流し、ティトがうまくそれを利用した。
初心だったベロニカは、巧言令色なティトに絡めとられ、やがて恋に落ちていく。
ちょうど、切れ者のエンリケが留守だったことも、サルセド公爵に味方した。
ラミロはせめて、ベロニカがいない間、政務を滞らせないように、必死に働いた。
その手腕は目を見張るものがあったが、サルセド公爵がまたしても邪魔をする。
せっかくベロニカが国と民を思って打ち立てた政策を、改悪していくのだ。
早くエンリケが帰ってきてくれないか、ラミロはそればかり願うようになる。
ベロニカ本人については、恐ろしい騎士のセベリノが目を光らせている。
ティトに無理やり、貞操をどうにかされる事態は、避けられるだろうと思っていた。
そしてエンリケが領地から戻り、これで全てが元に戻ると安心したラミロを、さらなる悲運が襲う。 ベロニカに、ティトとの付き合い方を考え直すよう説いていたエンリケが、馘首に追いやられたのだ。
サルセド公爵に、唯一対抗できそうなエンリケの退場は、ラミロにとって痛かった。
そして宰相の座についたサルセド公爵は、やりたい放題の政務を始めた。
ベロニカから預かった印璽を使って、己や新参貴族に都合のいい政策を通してしまう。
おかげで、ベロニカは恋に現を抜かし執務を蔑ろにする悪の女王として、民の間で軽蔑され始めた。
(どうしよう……このままでは、ベロニカさまも国も、とんでもないことになる)
ベロニカを支援していたはずの古参貴族からは、このところ距離を置かれているのを感じる。
おそらく、役立たずになったベロニカを、見限ったのだろう。
ということは、ベロニカに何か起きたとき、もう頼りになる存在がセベリノしかいない。
ラミロは己の無力を嘆く。
せめて、もうサルセド公爵に加担したくないと決心したラミロは、母をつれてマドリガル王国へ逃げる準備をする。
ちょうどマドリガル王国では、革命の機運が高まっていて、そのどさくさに紛れたら、また諜報員として活動が出来るかもしれない。
しかし、運命の足音は、すぐそこまで迫っていたのだった。
お茶会に行っていたはずのティトが、クララを抱きかかえて、執務室に飛び込んできた。
そして、サルセド公爵の謀を、自分の失態でベロニカに知られてしまったと白状した。
憤慨したサルセド公爵は、宰相の机にあった大きな文鎮を、ティトの顔に目がけて投げつける。
「この役立たずが! もう少しで、ベロニカを退位させられたのに!」
文鎮が当たったティトの青白い額から、真っ赤な血が流れた。
それを見てクララが悲鳴を上げる。
「ひどいわ、お父さま! どうしてティティに、こんなことをするの!」
「そいつが能無しだからだ! クララと結婚など、絶対にさせるものか!」
いまだ、ティトへの怒りが収まらないサルセド公爵は、もっと投げつけられる物がないかと、辺りを見渡す。
クララがティトを背にかばい、サルセド公爵へ恨み言を言う。
「悪いのはベロニカだわ! ティティは何も悪くない!」
「そのベロニカを退けるための計画を、そいつがめちゃくちゃにしたんだ!」
「ティティがやりたくないことを、無理やりさせたのはお父さまじゃない! ベロニカをどうにかしたいなら、直接ベロニカを攻撃すればいいのよ!」
「それが出来ていれば苦労しない。あの騎士の護りが強固で、手出しが出来んのだ!」
そしてサルセド公爵は、ラミロを指さす。
「こいつは腕利きの工作員と聞いたが、何度もベロニカを狙って失敗している」
急にこちらに矛先が向けられた。
ラミロは集まる視線から逃げるように、やや俯く。
もう関わりたくない。
そんな気持ちが顔に出ていないことを祈る。
「ふうん、子どもみたいな見た目ね。本当に腕利きなの?」
自分もリボンだらけの幼いドレスを着ているクララが、ラミロをそう評価する。
黙ったままのラミロに、何を思ったのか、クララがニヤリと笑った。
その顔がサルセド公爵にそっくりで、ラミロは背筋がぞくりとした。
「そうだわ、いいことを思いついちゃった! これ、ベロニカの寝室にでも、置いてきてくれない? 工作員なら、使用人たちの眼をかい潜って、それくらいするのは簡単よねえ?」
そうして見せられた不思議な形の瓶が、ベロニカの将来を決定づけたのだった。