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第4話

「秘書官のひとりでも置いたらどうだ? 右腕がいるといないとでは、仕事の進みが違うぞ」

 サルセド公爵のもっともな提案に、ベロニカは目をしばたいた。

 日頃、衝突ばかりしている相手からの親切に、戸惑ったせいだ。

 しかしサルセド公爵はそんなベロニカの態度を、もの知らずなせいだと思ったのだろう。

 秘書官について、ペラペラとしゃべりだした。

 王族直属の秘書官になるのは、多くの文官の憧れであり、難関の試験をくぐり抜けた者の誉だとか何とか。

「このところ、ベロニカの仕事はよく滞ると聞く。他の者たちの迷惑になる前に、賢い選択をするのがよかろう」

 なぜか威張ってそう言うと、満足したのかベロニカの執務室を出て行った。

 今日は協議することがないので、サルセド公爵はわざわざベロニカにこれを言うために、執務室へ足を運んだようだ。

 秘書官の存在は、以前からベロニカも知っていた。

 サルセド公爵は、それこそ何人もの秘書官を雇っていると聞く。

 ベロニカも政務を始めた当初、秘書官をつけるかどうかエンリケに尋ねられたが、まずは自分がたくさんの仕事に触れて覚えたかったのもあり、断っていたのだ。

 だが、あらかたの仕事の内容を把握した今ならば、効率を求めて秘書官を置くのはやぶさかではない。

 エンリケが領地から戻ってきたら、さっそく相談してみようとベロニカは決めた。

 ◇◆◇

 新暦869年――多くの文官たちが挑んだ女王専属秘書官選抜試験を、最高得点で突破したのは、弱冠21歳の平民だった。

 平民を女王の側に置くのはあまり良くないのではないか、という意見もちらほらあったが、これに反対したのは意外にもサルセド公爵だった。

「平民だからと弾くのならば、試験を受けさせる前に弾くべきだった。それをしなかったのだから、今さら文句を言うのはおかしい!」

 サルセド公爵に逆らえる者など、ベロニカ以外にはいない。

 ベロニカにとっては、秘書官が平民であろうと貴族であろうと、優秀であれば問題はなかった。

 こうして少しの悶着はあったものの、新たにベロニカの執務室へ通うようになったのが、新人秘書官ラミロだ。

 ラミロは童顔で、ぱっと見は子どもと間違うほどだった。

 成人男性にしては低い身長、茶色の柔らかそうな髪、青空みたいに澄んだ瞳。

 そばかすが浮かぶ丸みを帯びた顔は、愛嬌があり、人懐こい性格でベロニカともすぐに打ち解けた。

 王城に通勤するラミロのために、エンリケが文官用の制服を手配したが、ズボンの長さがかなり余ってしまうので、衣装係が思い切って裾を詰めて七分丈にしてしまった。

 これをサスペンダーで吊って履くと、ラミロは完全に少年にしか見えなくなる。

 ベロニカとエンリケは「これってどうなの?」という顔でお互いを見合ったが、ラミロ本人は動きやすいこの格好をいたく気に入ったようだった。

「貴族みたいにかしこまった制服よりも、うんと僕に似合ってると思います」

 しかし文官の制服を着た少年にしか見えないラミロが意気揚々と通勤すると、最初の数日だけは驚いた門番に止められたらしい。

 ◇◆◇

 ラミロは多くの文官と同じく、朝からベロニカの執務室を訪れる。

 ただし他の文官とは違って、室内に設置してあるラミロ専用の机で、政務をこなすベロニカやエンリケと一緒に仕事をするのだ。

 文字の読み書きができる平民は多いが、専門的な知識を持つ平民は少ない。

 ラミロはやたらと法律に詳しいので、ベロニカとエンリケはそれらに関する書類の精査を頼んでいた。

「ラミロはどこで法律を学んだの? 選抜試験の結果が、とても良かったと聞いたわ」

「僕、なんでも記憶できちゃうんです。過去の試験が、主に法律関係から出題されたと聞いたので、ロサ王国の法律書を図書館で借りて、全部この頭に入れてきました。そうしたら合格したんです」

 なんでもないことのようにラミロは言うが、ロサ王国の法律の煩雑さを知っているベロニカは、真顔になる。

 エンリケが備え付けの書棚に近づき、そこからもっとも分厚い本を抜き出す。

「これを全部、覚えているのですか?」

 ロサ王国の法律書は、男性の中でも背が高いエンリケが、その大きな手のひらをいっぱいに広げないとつかめないほど、本の幅があるのだ。

 ラミロは表紙や背表紙を見て、間違いないというようにコクリと頷いた。

 エンリケが重たそうに持ってきた法律書を、ベロニカはめくってみる。

 細かな字がびっしりと並び、難解な専門用語も多くて、眺めていると眩暈がしそうだった。

 主要な法律については、ベロニカも女王として覚えているが、枝葉末節にあたる部分は、専門の文官に任せている。

「選抜試験のために覚えたということは、秘書官になる前に、法律関係の仕事をしていたわけではないのね?」

 ベロニカが前職に言及すると、途端にラミロは慌てた。

「以前の仕事は、記憶力が物を言う職場で、楽しかったしやりがいもあったけど、収入が不安定だったんです。僕、母が病気で入院しているから、治療費が必要で……ここの給金の良さに惹かれて、試験を受けました」

 秘書官は、平民の文官が駆け上がれる出世街道としては頂点に近い。

 しかもそれが女王専属となれば、より一層の高嶺の花だし、給金の額は一般的な文官とは桁違いだ。

 ラミロが前にどんな仕事へ従事していたか分からないが、法律書を頭に入れられる逸材を逃して、先方は悔しがっているのではないか。

 ベロニカはそんな心配をした。

 エンリケは法律書を開きながらいくつかラミロに質問をし、答えが正しいと分かると、嬉しそうに書棚から別の本を引き抜いてきた。

「ラミロには、この本の内容も覚えてもらいましょう。きっと役に立ちます」

 エンリケの手にあったのは、マドリガル王国の法律書だった。

 ロサ王国のものほど分厚くはないが、それでも一般的には分厚いうちに入る。

「ロサ王国の主な交渉相手は、マドリガル王国です。ふたつの大国の法律に精通した者がいれば、書類処理の速度が格段に上がります。これを覚えるのに、どれくらいの期間がかかりそうですか?」

 エンリケがラミロに、マドリガル王国の法律書を差し出しながら尋ねる。

 ラミロは最初から最後まで流すようにパラパラと頁をめくって、書かれている内容をざっくり確認すると顔を上げた。

「ロサ王国の法律書は、全てを記憶するのに一か月かかりました。それよりは短くて済むと思います」

 それを聞いて、エンリケが感嘆したように声をもらす。

「聞きましたか、陛下。ラミロはこの若さで、生き字引になる素質があります。私たちはとんだ原石を見つけてしまったようですね」

「一年間かけて主要な法律しか覚えきれなかった自分を、不甲斐なく思うわ」

 ベロニカはラミロの隠されていた才能に微笑んでみせた。

 エンリケにも手放しに褒められて、照れていたラミロだったが、これからエンリケによる詰め込み教育が始まると、この人は鬼だと思うようになるのだった。

 ◇◆◇

 日の当たらない病院のベンチに、腰かけている男がふたりいた。

 ぼそぼそと周りに聞こえないような声で、何かを話している。

「僕が得意なのは諜報活動なんです。工作員みたいな真似は、したことがないんですけど……」

「潜り込むのは成功したんだろう? だったら、もう一息、お母さんのために頑張れよ」

「もし失敗したら、どうなるんですか?」

「……俺もお前も、この国から逃げるしかない」

 いつも仕事を斡旋してくれる親方の、顔色は優れない。

 大金を積んで依頼された大口の仕事だが、本当は断りたかったのだろう。

 それくらいには危険な仕事なのだ。

「とにかく、命までは取らなくていいんだ。なんとか工夫してみてくれ」

「……いつも背後に、ものすごく怖い顔の騎士がいて、狙う隙なんてないんだけどな」

 俯いて溜め息をついた先に、短く詰められた七分丈の裾が見えた。

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