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58話 涙(中編)

『久居、聞こえるか?』


白い世界に響く菰野の声に、久居は瞳を輝かせた。

思わず「はい!」と返事をするも、それが菰野に伝わる事はない。


『俺の心配をしてくれるのは有り難いが、遠いところから遥々お前のために来てくれた父親とも、ちゃんと話をするんだぞ?』


早々に注意を受け、久居が苦笑する。

話には聞いていたが、菰野の元気な様子にホッとする。


『そのためにも、早くそこから出て来い』


「はい!」

決意を込めて久居は答える。

が、それが容易でない事は既に分かっていた。


この空間から出るための、状況を創造する事。

まだ久居は扉どころか、取っ手ひとつも容易に出せず、悪戦苦闘していた。


『……と言っても、久居は昔から絵が下手だからなぁ。困ってるんじゃないかと思うんだ』


苦笑しながら言う菰野は、久居とは対照的に、絵を描くのが上手かった。

久居も、図面等は引けたし、そのものを見ながら描く事なら一応は出来たので、想像力という点でこうも苦戦するとは思わなかった。


粘土をこねて形を作るような、力を成形する時の感覚とはまた違う。

想像だけで、何もないところに物を作り出すというのは、まるで雲を掴む様な話だった。


『そうだなぁ、新しいものを考えるのは難しいだろうから、久居の馴染みのある場所を思い出すっていうのはどうだ?』


菰野は、相変わらずの気負わない雰囲気で話しを続ける。

クザンからざっと聞いた説明を元に、彼なりに久居へ助言をしようとしているようだ。


『小屋でも、家でも……いや、やはり城がいいだろうな。

 俺もまだ、城で生活している頃の夢を見る事があるよ』


ふわりと揺蕩うような、柔らかい菰野の声が、耳に、心に、心地よい。

久居は目を閉じると、菰野の言う通りに、あの頃暮らしていた城の様子を思い浮かべる。

菰野と久居が十年を共に過ごしていた、あの城。

もう離れて五年になるが、部屋に使われていた木の匂い、床の軋む音、薄暗い廊下の奥までが鮮明に蘇ってくる。


『お前は、俺の部屋の前に立ってる。部屋の中には俺がいる。

 そうだな、元服式の朝っていうのはどうだ?

 俺は寝坊してる。早く起こさなきゃ、式には遅刻だ』


菰野の、どこか楽しそうな声。

それは想像ではなく、実際の出来事だった。


久居も、あの日をはっきりと思い出してきた。

式の当日は良い天気で、久居は馬車の様子を見てから、菰野の部屋へと向かった。

澄んだ朝の空気、足早に廊下を通る女官達。

もう十五歳にもなったのだから、当然起きているものと思っていたのに、戸を叩いても、菰野の返事は無かった。

じわり、と、当時の自身の焦りまでもが蘇る。


そうだ。道を急ぐあまり、菰野を初めて妖精の山に近付けてしまったのも、あの日だった。


『さあ、俺を起こしに来い、久居』


優しく響く菰野の声に久居が目を開くと、そこは住み慣れた城だった。

目の前に、菰野の部屋の戸がある。


久居は、迷いなくそれに手を伸ばし、慣れた様子で押し開いた。


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菰野は、リリーの手をそっと離し、丁寧に礼を述べる。

リリーは花のように微笑んで応えた。


いつの間にか、久居の周りには皆が集まっている。

菰野は、皆の期待に応えられる事を願いつつ、輪の外へ回った。


「よぉ、お疲れ」とクザンに頭をぐしゃぐしゃにされる。

菰野は「ありがとうございます」と答えてから、皆に覗き込まれている久居に目をやって

「そうすぐに目を覚ますでしょうか」と口にした。

「お前は起きろと言ったんだろ?」

「はい……」

「そんなら、起きるだろ」

ぽんぽんと励ますようにクザンに肩を叩かれて、菰野は、この身体的接触の多さは遺伝なのだろうかと、ぼんやり思う。


フリーも、最初の頃こそ控えめだったが、近頃は菰野からすればちょっと過剰なのではないかという程に、隙あらば接触しようと狙ってくる。

菰野が一時的に小屋に一人で暮らしていたというのも、またフリーをその気にさせたのかも知れない。


菰野としては、嫌だという事は無かったが、こうしてフリーの両親に色々と世話になっている身で、不義理な事はしたくなかった。


パチ。とフリーと目が合う。ニコニコと元気に手を振られて、菰野も軽く手を挙げて応える。

フリーは、サラを質問攻めにしていた。


「じゃあ、それまではずっとクオンさんと二人っきりだったの?」

「う、うん……」

「きゃーっ。もっと詳しく聞いてもいい? いいよね!?」

「え、え? えっと……」

フリーの勢いに、サラがじわじわと押されている。


失礼な事になる前に、止めに行った方が良いだろうか。と菰野が思った時、リルが叫んだ。


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