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58話 涙(前編)

 「ぅ。……ここは……」

クオンが目を開くと、そこは全てが真っ白な空間だった。

久々に訪れた懐かしい場所に、クオンは何とも言えない表情で暗い色の目を細めた。


「父さん?」

声をかけられて、振り返る。

そこには両手からぼたぼたと鮮血を滴らせながらも、驚いた顔でこちらを見る久居がいた。


「ひ、久居っ、手が……!」

あわあわと慌てふためき、右往左往するクオン。

「実際の怪我ではありませんから、おそらく大丈夫ですよ」

痛みは十二分にあったが、久居にとっては些細な事だった。

それでも、クオンが泣き出しそうな顔をするので、久居は首巻きで包んで怪我を隠す。

「私に力を分けてくれたのは、父さんだったのですか?」

問われて、クオンがおずおずと頷く。

「す、すみません。精一杯同調させてみたつもりですが、やはり、少し違和感があったのではと、思います……」


あの痺れる感覚の事か、と久居が納得しながら

「いえ、とても有り難かったです。本当にありがとうございます」

と頭を下げ、バッとまた上げた。

「あの、父さんは菰野様をご存知ですか?」

久居の、焦ったような表情に、クオンは緊張しながらコクコクと頷く。

「そ、その方は、近くで久居を見守っていましたよ……?」

「体調はいかがでしたか? ちゃんとお休みになっていたのでしょうか?」

じりじりと久居に詰め寄られ、クオンが嬉しいような困ったような、引き攣った顔になる。

「え、ええと、私がいる間は、休まれていたようでした、よ……?」

「……そうですか。少し安心しました」

ホッと久居が息をついたのを見て、クオンもホッと胸を撫で下ろす。

「あの方と久居は、どういった関係なのでしょうか……」

「菰野様は私の主です」ときっぱり答えてから、久居は怪訝な顔をする。

あの、菰野が、初対面の者に対して挨拶をしないなどあるだろうか。

「……菰野様は父さんに何とおっしゃったのですか?」

「ええと……小さい頃から世話になっているという風に言われました」

「…………そう、ですか……」


確かに、今の菰野には何の立場もない。

それでも、久居は常に彼の臣下であるつもりだったし、彼もそう思ってくれていると信じていた。

しかし、それはもう、菰野の中では、人に言えるほどの関係では無くなっていたのだろうか。


……いや、思慮深い菰野の事だ。

もしかしたら、久居の父という立場に遠慮したのかも知れない。

ひとまずはそういう事にして、久居は顔を上げる。


(とにかく、ここから出て、ことの次第を菰野様に直接確認しなくては!!)


息巻いて、腕に巻いていた布を勢いよく剥がすと、床に向かって拳を振り上げる久居に、クオンが慌てる。


「ま、待ってくださいっっ!」

「……何でしょう」

少しだけ不服そうな顔で、久居が振り返る。


「せめて、その手を何とかさせてください」

クオンが、自身の両手で無残な姿となりつつある久居の手を包み込む。

「治癒はできないようでしたが……」

言いかけて、久居が息を呑む。

久居の手は、すっかり治っていた。

「あ、ありがとうございます」


「ここは精神世界なんです。術は意味を成しませんが、想像する事で、様々な事が出来ますよ」

言いながら、クオンは何もない空間に椅子を一つ出すと、座ってみせた。


「よく、ご存知なんですね」

目を開いて、感嘆した様子の久居に、クオンが悲しい色の目を伏せた。

「ここへは、よく来ていましたから……」


その言葉の背景については、今は考えない事にして、久居はクオンへと姿勢を正し、尋ねた。

「私に、ここを出る方法を教えてください」


----------


クオンがもう一度目を覚ます。

顔を上げると「父さん!」とサラが抱き付いてきた。

リリーがひょいと後ろに退けている。


「サラ……。すみません。心配をかけてしまいましたね」

小さく震えるサラの頭を、クオンが優しく撫でる。


「どうだ? 久居になんでも言えたか?」

クザンに声をかけられて、クオンは少し困った顔で

「ええと……出る方法は伝えたので、そのうち目を覚ますと思います」

と答えた。


「ん? ああ、そんなら俺はもういいな」

クザンはリリーの手を取ろうとしていた手をヒョイと上げ、ついでにリリーの目元へ指を這わせると、横髪をすくって、そっと口付ける。


どうやら、クザンは久居に、出る方法についてのアドバイスをするつもりだったようだ。


「積もる話は出来たのか?」

クザンにもう一度尋ねられて、クオンはサラを撫でながら答える。

「いえ、その……菰野様の様子ばかり聞かれました」

ブハッとクザンが盛大にふき出す。

菰野が「すみません……」と恐縮しきりに俯く。

「ははっ、親も親なら子も子だな。まあ、そりゃそうか。久居らしいな」

クザンはひとしきり笑うと、

「んじゃあ、最後に菰野、声かけて来いよ」

と菰野に視線を合わせて、気安くウインクを投げた。

それを受けて、菰野が遠慮を見せる。

「いえ、私は。久居が目を覚ますのなら、このままで構いません」


ふわりと返されたその答えに、クザンがクオンを見る。

クオンも、遠慮がちにクザンの目を見て、小さく首を振った。


その様子に、菰野の愛想笑いが固まる。


「俺は五日かかったな」クザンの言葉に、

「私は、十日は起きなかったと聞きました……」とクオンが呟く。


「え」

小さく声を漏らした菰野の背に、クザンは片手を添える。

「だからお前が叩き起こして来い」

クザンは、言葉とともに菰野をリリーの方へ押し出した。

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