真っ白な空間で、拳を赤く染めて床を殴り続ける久居に、声が届いていた。
淋しがるリルの泣き声に、胸が締め付けられる。
置き去りにするつもりなど無かったのに、結果的にそうなってしまった。
リルがこうなら、やはり菰野もそう感じているだろう。
『俺の元に、帰ってきてくれて、ありがとう』と言った、菰野の嬉しそうな顔が鮮やかに浮かび、滲む。
主人を、また待たせてしまっている。しかも、今度は何の予告もなしに。
菰野は、不安がっているかも知れない。
自分への怒りを抑え切れず、思わず利き手で力任せに殴った床に、一筋、亀裂が入った。
レイの声による報告に、ここがやはりただの夢の中ではない事を確信する。
レイの言葉は、相変わらず本人の要望で締められていたが、分かりやすく真っ直ぐな性格は嫌いではなかった。
ちょっとした異変のつもりが、罪人だった彼を英雄にしてしまう程とは。
四環はやはり、制御の難しいものだった、という事か。
つまりは、ちっとも計画通りではなかったのだ。
口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
久居は、自身の短慮を激しく責めながら、赤く染まった両手を組んで、力いっぱい亀裂を殴った。
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「いつまでも遠慮してんじゃねーよ」
クザンが、なかなかこちらへ来ないクオンを待ちきれず、その腕を掴んで引っ張る。
ギラリと背後からサラの殺気が刺さる。
「お前も気安く殺気を飛ばすな! 俺ぁ親切してんだよ!!」
叫ぶクザンに「そーゆーのは親切じゃなくてお節介ってんだよ」とラスの突っ込みが入った。
見上げれば、ラスは木の上に腰掛けている。
「あ! 赤い人も一緒に食べよーっ!」
リルがラスを見つけてぶんぶんと手を振っている。
フリーが持ってきたお菓子は、広い机の上で人数分に分けられていた。
「……名前、もっかい教えたよな?」
ラスがほんの少し動揺している。
意図的にそう呼ばれているのか、という心配だろうか。
「リルは一度じゃ名前覚えないからなぁ……」
と、散々繰り返させられた事のあるレイが、感慨深げに呟くと、
「私も、何度も聞かれました……」とクオンも呟いた。
そんなクオンの手をぐいぐいと引っ張ってきたクザンが、それをポンとリリーの手に乗せる。
「いいか。俺がよその男にリリーの手を握らせてやるなんて、まず無い事なんだからな。有り難く思えよ!」
ギロリと睨みつけられて、クオンが「は、はい……」と縮こまる。
「あらあら……、恐がらせてどうするのかしら?」
リリーに言われて、クザンは慌ててフォローする。
「ほら、その、あれだ。ずっと離れてたんだろ? 口で言いにくい事とかも、この機に伝えてやれよ。ごめんとか、愛してるとか、な?」
「で、ですが、その……。私のした事は……、謝って、許されることでは、ありませんし……」
クザンは、殺気が飛んでこない事に、ちらと後ろを振り返る。
サラもラスも、食卓の方へ集まっていた。
久居のそばには、じっと静かに久居を見つめている菰野と、じっとしていられないのか、心配そうな顔で周りをうろうろしているレイの二人が残るのみになっていた。
「なんだ、リルは薄情だな」クザンの呟きに
「あなたの言葉が、あの子には聞こえたのよ」とリリーが笑う。
リリーの手の上に手を乗せたままの男は、まだ俯いて葛藤を続けていた。
「けれど、私には、久居に何かを伝えられるような、そんな資格は……」
煮え切らないクオンに、ぷつり。とクザンの極短い堪忍袋の緒が途切れる。
「ぁあ゛もうごちゃごちゃうるっせぇな!!」
クザンは叫ぶと、リリーの手を取ったまま葛藤を続けていたクオンの後頭部を片手でがっしり掴むと、一回グイッと後ろに引いた。
「いいから行ってこい!!」
クザンは、叫びと共にクオンの手が離れて空いたリリーの手を目掛けて、クオンの額を突っ込んだ。
クオンは、膝立ちと四つ這いの間の状態で、ほのかに光る手に額を乗せたまま、気を失う。
「あらあら、乱暴は良くないわよ?」
言われてクザンが、
「あ゛ー……。つい……悪ぃな」とリリーに詫びながら、肌に刺さる殺気を発しているサラの方へ向き直った。
サラの初撃を止めたのはラスだった。
「馬鹿! 落ち着け!!」
「邪魔しないで!」
なおも攻撃を続けるサラに、レイも慌てて駆け寄る。
「サラ! あれは大丈夫だ。精神を繋げただけで……」
「お兄ちゃんは黙ってて!」
叱られて、しゅんとなるレイ。
「しょげてる場合かよ! 兄貴ならしっかりしろ! サラが暴れたら大惨事だぞ!」
ラスが焦りを浮かべてレイを怒鳴る。
「あ゛ー。なんだ。その、手荒な事して悪かったな」
クザンが頭を掻きながら謝りにくると、サラはゴウっと闇を揺らし全身で威嚇した。
「クザン兄、サラは風を使う、気を付けろよ!」
ラスが助言しつつ道を譲る。「おうよ、ありがとな」とクザンは通りすがりにラスの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「チッ、子ども扱いすんなよな!!」
ラスが苛々と叫んだ。
リルとフリーは机の向こうで
「フリー、お菓子一回片付ける?」
「えー、せっかく分けたのに」
「吹き飛んだら無くなっちゃうよー」
「……そこまで吹き飛ぶの?」
と会話している。
「いやいや、サラ、ちょっと落ち着け!!」
全身に闇を纏ったサラに触れきれず、レイがサラの前へ強引に割り込む。
「おい、危ないぞ、下がってろ」クザンの忠告。
闇の攻撃は、天使にはよく効く。
サラが振りかぶった腕は、既に振り下ろされようとしていた。
「う、わ。あっ」
勢い余って、レイが転んだ。
べちんっと派手な音を立てて、顔から地面に激突する。
よく見れば、どうやら自分の尾羽を踏んだらしい。
サラが慌てて引っ込めようとした闇は、結局半分以上は放たれたが、その全てをクザンの炎が焼いた。
皆の視線が、地べたに這いつくばるレイに注がれる。
この数日を、精神的にも肉体的にも追い詰められたまま、休まず動いていたレイは、もう限界に近い。
夜の来ない天界で、中間界でいうところの夜通し働いて、こちらの早朝に合わせて降りてきたところだった。
それを分かっている者は、憐憫の目で。
しかし、そこまで理解していない者は、うっかり者を見る目で。
皆がレイを見ていた。
「っ……いてて……」
目の端にちょっぴり涙を滲ませて、レイが顔を上げる。
そして、皆の視線に気付くと、耳まで真っ赤にして叫んだ。
「う……み、見るなぁぁぁぁぁっ!!」