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55話 幻(後編)

扉の前で一行は立ち止まる。

術師の一人が取手を冷やし、レイと髭の男が扉が外れないよう障壁で押さえつつ開けた。

何せ室温が高すぎる。

ここへ来るまでにどれだけの物が溶け崩れ、本来の姿を失っていたか分からない。

研究室の計器類への被害も、さぞ甚大だろうとレイは思う。


重い扉の向こう。

そこには確かに、環が二本、安置してあった。


レイは心臓がグッと詰まりそうになるのを堪える。

本当は今すぐ駆け出して、その術を止めたかった。

早くしないと……、早くしないと久居が危ないかも知れない。

そんな思いばかりが溢れて頭を埋め尽くしそうになる。


しかし、まずは研究者達に見てもらう必要があった。

レイは手紙の文字を何度も何度も頭の中に浮かべながらじっと耐えた。

冷や汗だかなんだか分からない汗が、ポタポタと顎を伝って床に落ちる。

足元まで包まれている結界の中でもなお、落ちた滴は床で蒸発してしまった。


「なぜ、こんな事になってしまったんだろうな」

髭の男の声に、内心ギクリとなり、煮えそうになっていたレイの頭が冷える。


そうだ。冷静に、間違えずにやらなければ。

久居が命がけで作ってくれたチャンスだ。

無駄にするわけにはいかない。


『陽』の入ったケースの周りで研究者達が解析用の術式を展開するのを確認しながら、レイはさりげなく返事をする。

「闇の者が、環を我々に取り戻された時のために、何か仕掛けておいたのでしょうか」

「ああ、そうだろうな。だが、この大神殿の研究者にも気付かれないような術など……」

そこでレイは、作業の邪魔にならないよう『雪』の方へ下がった体で、初めて気付いたような顔をして『雪』の環を見る。

少し考えるようなフリをしてから、皆に聞こえるように、でも大きすぎない声で言った。

「……こちら側の方が、暑く感じませんか?」


その一言に『陽』の環に集まっていた研究者達がバッと『雪』を見た。

「まさか」

「そんな」

「もしかして……」

と口々に呟きながら、研究者達が『雪』にかけられた多重結界を次々に解いてゆく。

結界が解けるごとに熱気はその強烈さを増し、何十倍にも膨れ上がる。


術師達が必死の形相で、多重に熱遮断をかけてはいるが、研究者達は、ジリジリと環から距離を取らざるを得なくなっていた。

離れて見守るレイからも、髭の男からも、汗がふき出る。

それでも何とか解析が入り、『雪』に幻術がかかっている事が分かると、研究者達は顔を見合わせた。


「誰か、幻術の解除ができる方は……」

研究者の焦ったような声に、レイは手を挙げた。


幻術は元から苦手ではなかったが、この数年は人里で暮らすために掛けっぱなしで過ごす事もあり、相当鍛えられた。

今なら解除だって楽にこなせるだろう。


幸い、ついてきた術師二人はあまり得意でないらしく、レイがそれを解く事に誰も異存はなかった。

元々、幻術が使える者は天使の中ではそう多くない。

天使は、人の中で隠れ暮らすような必要がないからだろうか。


環へ近付くにつれ、目を開けている事すら難しくなる。

そんな環へ、じりじりとレイが両手を翳す。

熱気が肌を直に焼いていく痛みに、眉を顰める。

ぽた。と顎から落ちた雫は、あっという間に蒸発した。

術師達が、ありったけの力を振り絞って熱遮断をかけた上でこれでは、もう仕方がない。

レイは痛みを忘れるべく、集中し、慎重にそれを解く。


ふわりと、淡い光が空気に溶け消えると『雪』に見えていたそれは『陽』の姿に戻っていた。


同時に、熱気の放出がピタリと収まる。


レイは、ホッとし過ぎてか、連日の疲れからか膝が笑ってしまう。


熱気に押され下がっていた研究者達が、ワッと環へ駆け寄る。

それを避け損ねて、レイはガクンと膝から崩れた。


床は、とんでもない高温のはずだ。

靴の裏は、全員術で耐熱強化されていたが、膝を付いてしまうとマズい。


レイが、膝を捨てるか既に火傷した両手を捨てるか迷った一瞬で、ぐいと上へ引っ張り上げられた。

「っ、いてて……」

一つに括った髪を掴み上げられて、レイが小さく呻く。

「失礼。生憎ここしか届かなくてな」

頭を押さえて振り返ったレイに、髭の男が申し訳なさそうに苦笑して答える。

「いや、助かりました。ありがとうございました」

レイが頭を下げると、髭の男は快活に笑った。

「こちらこそ。国を救った勇敢な天使を守れたのなら、護衛として良い仕事をさせてもらった」

よく響く男の言葉に、部屋の全員がレイを見た。


やっと助かったという事実に、役割が果たせてホッと胸を撫で下ろしていた術師の二人が顔を見合わせている。

どうやら、二人は男の言葉にレイを救世主だと認識したらしい。

その目に、じわりと憧れや尊敬の色を浮かべてレイを見た。


確かに、外から見れば、レイは近付くだけで火傷するほどの環に、一人立ち向かった。

その両手と腕は、派手に痛々しい色に変わっており、彼の痛みを物語っている。


研究者達も、見抜けなかった自分達への苛立ちや不甲斐なさで難しい顔にはなっていたが、口々に礼や称賛の言葉を述べてきた。


勇気だとかを称えられて、レイは内心複雑な気持ちになった。

実際のところは、レイの頭の中は久居を失う事への恐怖で既にいっぱいで、火傷する事への恐怖だとかは入りきらなかっただけだった。


身を削ってまで天界のために。というよりは、久居に言われるがままに動いたら、気付いた時には身が削れていただけな気がする。


火傷の痛みがようやく両腕に響いてきて、苦痛にレイが顔を歪めた時には、術師の一人が「少しでしたら治癒ができます」と駆け寄ってくれた。


両手を翳して治癒をする男の姿に、レイは久居をそっと重ねる。

(どうか、間に合っていてくれ……)

目を閉じて、先ほどの感覚を思い出す。

術は、解除のその瞬間まで力を失っていなかったはずだ。

まだ、あの段階では、彼の命は失われていなかったはずだ。


レイは、心の中で、大神へ全霊を込めて祈りを捧げる。

(どうかどうか……、久居をお守りください……)


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