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55話 幻(前編)

クリスの家を早い時間に出たリルだったが、リルを乗せた空竜は、家とはまったく逆の方角へと移動を始めた。


(……寄り道、でしょうか?)

物陰からリルを覗き見ていたヒバナは、指先で顎を撫でると、几帳面な仕草で首を傾げる。


(リル様も私の玖斬様の御子ともあれば、玖斬様譲りの奔放さを受け継がれていて当然という事ですね!! 鬼にとって自由な心は尊重されてしかるべき物!! これは大変歓迎すべき事です!! この火端、どこまでもお供いたしましょうとも!!)

内心騒がしく、しかし実際にはほんの僅かな音しか立てずに、ヒバナは空竜の後を、目にも止まらぬ速度で疾っていた。




リルの辿り着いた城は、初めて訪れた時と同様、シンと静まり返っていた。


リルは耳をよくよく澄ませて、ようやく二つの呼吸の音を拾う。

「地図は持って来たんだけどー……」

カロッサの描いた内部の見取り図。リルは、丸めたそれを口元に当てて、可愛らしく、くりっと首を傾げた。

どうやら、地図があっても正しく使えないらしい。

「まあいっか。何とかなるよね!」

ニコッと微笑んで、リルは城の門へと足を進める。

「キュイ」

と、同意した空竜は、ミニサイズに縮んでその腕に抱かれている。

「うん、そうだよね。行ってみよーっ」


結界に触れると、遠くでチリチリンと甲高い鈴のような音が鳴った。

(侵入者だよーっていう、お知らせなのかな?)


キョロキョロと辺りを見回しながら、リルが外庭を抜ける頃には、奥から誰かの駆けてくる足音が近付いてきた。


「あ……」

サラは、リルの姿に気付くと足を緩め、纏っていた殺気のようなものを収めた。

「こんにちは。あ。お邪魔してます。かな?」

今まで使った事のなかった単語を、リルが頭の隅っこからなんとか引っ張り出してくる。


サラが、おずおずとリルの顔を……と言っても目を合わせるのは恥ずかしいのか、口元あたりを見る。

「……」

「ありがとう」

リルがふわりと微笑む。


「…………」

「レイは……元気には、なったよ。その後は天界に連れて行かれちゃって、分かんないんだ。ごめんね」


「!……」

「ボクも、ちょっと心配だけど……でも、きっと、何とかなるよ」

悲しそうな顔をしていたリルが、それでも、ニコッと笑った。


サラは、ずっと昔にこんな表情を向けられた事があった。

サラがリルくらいの頃、翼の生えてきたサラを孤児院から逃してくれた人が、最後にこんな顔をしていた。

当時はまだ、それがどんな気持ちで向けられた表情だったのか、分からなかった。

けれど、あの人は、私の未来が少しでも良くあるように願ってくれていたんだ……。


リルの顔を見つめたまま、ふにゃっと泣き出しそうな顔になってしまったサラ。

それを見てリルは、レイの事心配してるのかな、と思う。


「……また、貴方ですか」

「ぅわぁ!?」

背中からかけられた声に、リルが慌てて振り返る。

(やっぱりこの人、音がしない……?)


こうやって聞けば、確かに、心臓の音も呼吸の音も聞こえてるのに。

近くに来るまで、全く気付けない。


バクバクの心臓を手で押さえながら、リルは(耳だけじゃなくて、もっと色んな感覚を磨かないと……)と冷や汗をかいた。


「ええと……、久居のお父さん」

「……クオンです」

「あ、そうだった。クオン!」

ポンと手を叩いてリルが言う。

「はい」

ぎこちない笑顔で返事をしながら、クオンはまた名前を忘れられていた事にそっと傷付いた。

「えっとね。久居がね、クオンともっとお話ししたいみたいだったよ」

「そう……ですか……」

クオンが俯くと、顔は前髪にほぼ全部隠れてしまった。

けれど、チラリと見えている耳が両方真っ赤なので、多分顔も真っ赤なんだろうなとリルは思う。

「でも、久居はコモノサマの側を離れたがらないから、こっちにはまず来ないと思うんだ」

「…………そうです、か……」

先ほどと同じ言葉ではあったけど、今度は明らかにガッカリした声色で呟かれる。

(コモノサマというのは、一体……?)

クオンが、それを聞いても良いものかと考えあぐねている間に、リルが続ける。

「だからね、クオンが遊びに来て?」

「…………え?」

キョトンとした、間の抜けた声が聞こえた。

「わ……私が……会いに、行っても……良いんですか?」

クオンがふるふると震えているのは、喜びからか、戸惑いからか。

「うん、いいよ!」

リルがにっこりと、花のように微笑んだ。


ほわわ。とクオンの周りにも小さな花が飛ぶのが、リルには見えた気がする。

喜んでくれた事にホッとしつつ、リルは一歩近付いた。

「クオンは、ボクの居場所が分かるような印が付けられる?」

「え、あ、はい。簡単なものでしたら……」

「じゃあ、それをボクに付けてくれる? ボク、場所とか説明できないし、地図とかも良く分かんないんだよね」

と、リルが自身の無能さに照れ笑いのようなものを浮かべつつ「ボクは、大体いつも久居と一緒にいるから」と言う。


さらに一歩近付くリルに、クオンが思わず一歩下がる。

距離をとられて、リルが笑顔にじわりと汗を浮かべつつ

「あと、ボク達結界の中にいる事があるから、クオンが中に入れるようにしとこうかなって、思うんだけど……」

と、もう一歩近付くと、クオンは二歩下がってしまった。


リルが困った顔でサラを見ると、サラはほんの少しだけこちらに手を伸ばし、クオンに悪気がない事を説明する。

「……、…………」

「それって、照れ屋さんって事?」

「…………」

「そっか……」

(ずっと怖い目に遭ってたから、怖がりさんになっちゃったのかな……)

リルがしょんぼりと目を伏せる。

そんなリルに、クオンがおずおずと尋ねた。

「あの……サラと、話しができるのですか?」

「うん? クオンはできないの?」

リルに聞き返されて、クオンは「いえ、声に出してもらえれば、出来ますが……」と答える。

しかし、サラはいつも声には出していた。

とてもとても、小さいだけで。

「あ、確かに、声がとってもちっちゃいもんね。聞こえないんだね」

とリルが言うのを聞いて、クオンはその事実を知った。


突然、ゆらり。と地面の揺らぐ音を聞いて、リルは耳をそちらへ向ける。

少し先の中庭へ、地中から誰かが来る。

(なんて名前だったっけ。赤い髪の……)

リルが人差し指を顎に当てて首を傾げた。

クオンは、びくりと体を強張らせると、ささっとサラの影に隠れる。

乱暴に足音を立てながら、ラスは姿を現した。


「……なんでお前がここにいんだよ」

開口一番、ラスはリルをジロリと睨んで言う。

「ボクは、クオンに話しを……」

答えるリルを遮って、ラスは続けた。

「まあいい。今は時間がない。空竜、手伝ってくれるか?」

「キュイ」

空竜は、リルの腕の中からするりと出ると、ラスの頬に擦り寄る。

ラスはそんな空竜の鼻筋を優しく撫で

「甘えんのは後な、すぐにこいつらを妖精の里まで運んでやってくれ」

と意外なほど優しい声で囁いた。


ハッと、視線を感じてラスが顔を上げる。


サラは、いかにも面白いものを見たという顔で……と言っても目はいつもの半眼だったが、ニヤリと口端を上げていた。

その後ろでは、いつもラスの態度に怯えてほとんど顔を見せないクオンも、意外なものを見たという顔をしている。


リルは、空竜の甘えっぷりにちょっとだけムッとした顔をしたが、それよりも何があったのかが気になった。


「何があったの?」

「久居が死にかけてる」


ラスの短い答えに、リルとクオンは顔色を変えた。


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