レイは、キルトールの研究所に居た。
ここが通称記憶処理室と呼ばれている事を、レイは知っていた。
(……きっと、サンドランは知らないだろうな……)
こちらからは実験室の中が見えるが、向こうからは見えないよう術の施された部屋から、レイは親友の姿を見守っていた。
大仰な装置に囲まれた寝台に寝かされた親友に、義兄が次々とケーブルを固定しながら何事か説明をしている。
ここからでは声までは聞こえなかったが、義兄の言葉に納得したのか、サンドランはオレンジ色の小さな瞳を閉じた。
それを見て義兄が両手をサンドランの頭と装置にそれぞれ翳し、目を伏せる。
義兄の紫がかった青い瞳が、銀色の睫毛によって隠される。
神経を研ぎ澄まし、集中を高める様子がここからでも分かった。
装置を動かすための術は随分と複雑なのだろう。
(まあ、確かに、こんな事が誰にでも出来るようでは困るだろうが……)
レイは、何とも言えない複雑な気持ちでその光景を見届けていた。
部屋を包む淡い紫の光。
術が終わり、サンドランは目を開くと、不思議そうに首を傾げた。
それを、側に待機していた助手が手早く精神攻撃の小鳥を放って昏倒させる。
助手は、そのままサンドランを担いで部屋を後にする。
隣の部屋には担架と医療班が待機していた。
サンドランはそのまま、医務室に運ばれるのだろう。
義兄は、サンドランの記憶を封じた。
サンドランはレイを庇ったせいで命令違反により罰を受けるはずだった。
しかし、キルトールの処理により、そもそもレイが天使達の指示に従わなかった部分から全て忘れさせられたため、今回の違反も無かった事とされた。
そして、レイはこれから、サラの事を忘れる事になっている。
レイは、サラに会わなかった。
サラのことも、思い出さなかった。
(……だから、俺は命を受ける事もなく、サンドランが俺を庇う事も無かった。と、そういう話らしい……)
レイは、義兄の話した内容を思い返しながら、緑色の髪を揺らすサンドランの姿を、精一杯、目に焼き付けた。
もしかしたら、彼に会う事はもうないかも知れない。
レイは、義兄の指示を、まだ受け入れられそうになかった。
カチャ、と軽い音がして、レイの居る待機室の扉が開かれる。
「レイザーラ、次はお前の番だ」
キルトールは、静かにそう告げて、踵を返す。
レイはその後を追うように、実験室へと足を踏み入れた。
壁越しに見ていた時と違って、その部屋にはどこか息苦しく胸の詰まるような、独特の空気が満ちていた。
「……義兄さんは、今までずっと、こんな仕事をしてたのか……?」
レイが尋ねる。
「……」
キルトールは何も答えなかった。
ただ、僅かにその紫がかった青い瞳を伏せる。
レイは今にも泣き出しそうな顔で、キルトールを見上げて問う。
「……俺の記憶も……ここで、封じたのか……?」
「な……にを……」
キルトールの声は掠れていた。
ふらり、とよろけたキルトールが、傍の机に手を付く。
透き通るような銀髪が、さらさらと背から零れ落ちて腕にかかった。
キルトールは、衝撃を受けながらも、どこかで(やはり……)と感じていた。
レイザーラが家を出る時、あの出撃の際から、そんな素振りはあった。
けれどそれは、私がレイザーラの仲間を攻撃したからだと。
もしくは、レイザーラが想い人を失った悲しみからだと、思っていた。
……いや、思い込もうとしていた。
キルトールは、今にも震え出しそうな身体を押さえ込むように両腕を組んで、精一杯背筋を伸ばして、問い返す。
「……何故、私の術に気付いた?」
気付くとすれば、あの、時の魔術師だろうか。
けれど、レイザーラの記憶にそれを告げられるようなシーンはなかったはずだ。
では、なぜ……?
分からない事がある。その事実が、酷く恐ろしい。
義弟の事で、私が分からない事など、何ひとつなかったはずなのに。
「カロッサさんが……教えてくれた……」
レイザーラが、ぽつりと言葉を零す。
その言葉は、まるで涙のように実験室の無機質な床に染み込んだ。
私やクオンが、ここで零した沢山の涙のように……。
キルトールは一瞬よぎった昔の記憶が溢れないように、キツくそこを封じて、義弟に向き直る。
死の間際にだろうか。
確かに、あの時俺はあの魔術師から視線を外していた瞬間もあった。
けれど、何も伝えられぬよう、彼女の喉は裂いておいたのに。
だが、それならば、まだ大丈夫だ。
レイザーラは気付いただけだ。
自分にプロテクトがかけられている事が分かっても、それを外すことは義弟には出来ない。
あれは、レイザーラごときの腕では到底外すことのできないよう、繰り返し繰り返し、厳重に術を重ねてある。
「義兄さん、教えてくれ……」
涙に震えるような、義弟の声。
「……カロッサさんを、殺したのは……」
俯いていたレイザーラが、ゆっくり顔を上げる。
「義兄さん……なのか……?」
義弟はキルトールが目にした事のない顔をしていた。
何もかも失ってしまったような、そんな空虚な瞳に、虚ろに見上げられる。
「な……何を根拠に……」
何とか絞り出した自分の声は、義弟と同じくらい震えていた。
「義兄さんは、物質転移が出来るだろ」
思わぬ言葉に、キルトールは大きく目を見開いてレイザーラを見る。
どういう事だ。
これを知っているのは、もうあの女神だけのはずなのに。
「……知っていたのか」
キルトールの言葉に、レイザーラはぽつりと答えた。
「思い出したんだ……」
(思い……出した……、だと……?)
キルトールの全身から血の気が引いてゆく。
「でも……もしこれから俺が死ぬなら、俺がやった事にしてくれて、いい」
そう言ってレイザーラは悲しく笑った。