「獄界には何もしない。クザン兄はしばらく地下に潜っててくれよ」
ラスの言葉に、クザンは一瞬の回想から引き戻される。
拳を交わしても、それでもラスはまだ、クザンに気を遣ってきた。
「……俺には、ここに置いてけねぇのがいるんだよ」
クザンはその気持ちを嬉しく思いながらも、苦く答える。
「……」
ラスは閉口し、開いてしまった拳をもう一度、強く握り込んだ。
クザンはそれが悲しくて、言葉を重ねる。
「四環は、お前には操れねぇだろ?」
「……」
「カロッサ覚えてっか? あいつ、先見になったんだよ」
ラスがびくりと肩を揺らす。
「……お、俺のせいで、家が……燃えてしまって……本当に……すまない……」
「あ? お前がやったのか?」
クザンは、そんな話は聞いていない。
「俺が、あの鬼に環を取られなければ、きっとああはならなかった……」
グッと悔しそうに拳を握り込むラスに、クザンが苦笑する。
「なんだ……驚いたじゃねぇか。火焔のやった事まで、お前が気にするこたぁねぇんだよ」
「……カロッサは元気にしてるか?」
クザンの温かい声に、つい零してしまったラスの言葉。
しかしその返事は短かった。
「……あいつは死んだ」
「え…………?」
(そんな、まさか……)
ラスの脳裏に、共に過ごした日々が蘇る。
ラスより外見ではひとつ年下だった十三歳のカロッサ。
ラスを、自分と同じ拾われ子だと思ったのか、俺を見かけるたびに「ラス君、ラス君」といちいち声をかけてきた。
きっと、俺が淋しい思いをしないよう、カロッサなりに精一杯気遣ってくれていたんだろう。
カロッサはよく泣く子だった。
うっかりもので、ミスが多い。それを本人が一番気にしていた。
周りは、それほど気にしていなかったのに。
よく自分を責めては泣いていた。
人らしい振る舞いができるようになったのは最近の事だと、カロッサは話していた。
今まで一体どこで、どんな暮らしをしていたのか。
聞くことはできなかったが、俺だけが辛い目に遭ってきたわけではないと思えた事は、あの頃の俺を確かに支えていた。
「嘘……だろ……?」
ラスは、狼狽を隠せなかった。
「だって……天使が……、護衛してたんじゃ、ねぇのかよ……」
目を泳がせていたラスが、ハッとした顔でクザンを見上げる。
「まさか……天使が……!?」
クザンはその視線を苦い顔で受け止めると、ゆっくりと諭すように話す。
「カロッサが教えてくれた事なんだ。命をかけて。四環をお前達が使えば、この世界が壊れてしまう、ってな」
「っ、クザン兄、教えてくれ! カロッサを殺したのは天使なのか!?」
縋るようなラスを、クザンが一喝する。
「お前らがこんなことするからだ!!!」
「……っ」
「分かったら、大人しく四環を……」
「だって、あいつらが悪いんだ!! たとえ俺達が何もしなくても、天界の連中は俺達を殺しに来る!! 他に方法なんかねぇんだよ!!!」
苛立ちを叩きつけるように叫ぶラスを、クザンはぶん殴った。
まだ会話をしていたつもりのラスが、殺意も無いそれの直撃を喰らう。
「分かってる。あの頃のお前が悪くなかった事は。……だが、もう今のお前は、たくさんの命を奪っちまっただろ?」
ラスは、部屋の端まで吹き飛んで、壁に激突する寸前、黒炎に包まれた。
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久居は焦っていた。
リルが戦闘に入った。
しかし、その相手がわからない。
ここにいるレイの妹も、クザンと戦っているらしい鬼も、どちらも強い。
リルの相手は、さらに強い者である可能性だってある。
(リルの元へ行かなくては……)
そのためには、自身の力だけでは足りなかった。
いつもはリルが炎を上乗せしてくれていたが、それが無くては、自身の力だけでは、全然足りない。
久居は、ここへきて自分の無力さを痛感する。
それでも、諦めるわけにはいかなかった。
一方でサラは、父の戦闘開始にホッとしていた。
サラの心配は、優しい父が何か不意を突かれたり、卑怯な手を使われないかという部分のみだった。
父が戦闘に入ったのなら、あの小さな子相手に心配はいらないだろうと思う。
何せ、父は強い。
戦う事は苦手のようだから、普段は城で留守番をしてもらっているが、父さんの闇はサラには計り知れない程に強大だった。
ラスよりも、もっと幼いさっきの少年に、なんとかなるような相手ではない。
それでも、まだ不安があるとすれば、あの子が幼すぎて、父がとどめを刺せないのではないかという程度だ。
あまり表情の動かないサラの口元に、じわり、と余裕が生まれる。
それだけの仕草で、久居は気付いてしまった。
彼女が、リルと戦う相手の、勝利を確信した事に。
瞬間、久居は覚悟を決める。そして心で強く誓う。
絶対に、菰野の元へ、リルと揃って生きて戻ると。
久居は、刀を握ったまま、きつく栓をしていた両手のそれを、そっと緩める。
闇はそこから、ずるりと溢れ出た。
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第四の闇の気配は、全員に衝撃を与えた。
特に、震えるほど強い衝撃を受けたのが、リルと対峙していた男だった。
男は力の気配が届く方角を、驚きと絶望の形相で見つめる。
男の攻撃がピタリと止んで、リルは瓦礫の中から這い出した。
肩で息をしながらも、体のどこも怪我をしていない事を確かめる。
大丈夫。僕の炎は、ちゃんと僕を守っている。
少しずつ呼吸を整えながら、リルは動揺する男を見上げて、立ち上がった。
「この……闇の力は……そんな……っ」
小さな小さな呟きは、まるで泣いているような声色だった。
とても人には届かないその声を、リルだけが聞く。
カタカタと小さく震える男が、頭を抱え込むようにしてかぶりを振る。
「そ、んな……まさか……――」
リルは、その気配に覚えがあった。
「ボクの仲間だよ。人間だけど、とっても強いんだからねっ!」
リルが無駄に自慢気に胸を張って答える。
男は少年の言葉に、両手で顔を覆い呟く。
「人間……。……にん、げん…………」
あの実験で取り出された力は、いくつかの種族に試されたらしかったが、天使は原則、人間に手を出さない。
「それは、……まさか、そん……な……」
あまりに激しい男の動揺に、リルが少し心配になってくる。
「えっと……おじさん、大丈夫……?」
ガタガタと全身の震える音が、早過ぎる鼓動が、血の流れすらが彼の動揺を伝えている。
「あ。その人、おじさんに似てるよ。喋り方とか、髪とか、眼とか」
思い出したことを、ただふわふわと気安く話すリルに、ぐりんと男が振り返る。
リルの顔をじっと見ながら、男は震える唇で尋ねた。
「まさか……ひ、久居という、名では……?」
「え。おじさん久居を知ってるの?」
くりっとリルが首を傾げる。
そして、やっと、さっきから感じていた男への既視感の正体がわかった。
「あ。そっか。おじさん、久居のお父さんなんだね」
リルは、狼狽している男を眺めながら、なるほど納得という風に大きく頷いた。