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44話 憎悪(後編)

「……この羽を、カロッサさんに見てもらおう」


レイは、悔しさに歯噛みしながらも、そう言った。

腕輪を守れず、持ち去られた事。

敵が天使だった事。

そして、自分は何の役にも立たなかった事。

そのどれもが、レイにとって許しがたい事だった。

それを、依頼主である彼女に、よりにもよって彼女に、報告しに行くのかと思うと、レイは自身の不甲斐なさに涙が出そうだ。


「……」

「……」


ふと、久居があまりに静か……というか、生気を発していないのに気付いて、レイがその顔を覗き込む。

確かに落ち込みたくなるような内容ではあったが、それにしたって様子がおかしいだろう。

朝日を浴びても、なお青白く冷え切ったような顔色。白い羽を持つ手は、その指先が小さく震えている。そして、この匂いは……潮の香りか?


「久居、お前……海にでも落ちたのか?」

久居がのろのろと羽を懐に戻しながら、小さく頷いた。

その後ろ髪が固まっているのを見て、レイは思わずその髪束に触れる。

「うわ、まだ濡れてるじゃないか! まさか、濡れたまま、一晩ここにいたのか!?」

久居は、虚ろな瞳で俯いたまま答える。

「……リルは着替えさせました」

「自分は!?」

「忘れていました……」


(なんだこれは!!!!???)

レイは心の中で叫んだ。

こんなポンコツな久居を見るのは初めてだ。


「え……、ど……」


落ち着け。俺が動揺してどうする。

レイは大袈裟に一つ深呼吸すると、久居に声をかけようとして、かぶりを振り、くるりと背を向けた。


「とりあえず荷物持ってくるから、先に着替えた方がいい。風邪をひくといけない」


レイは、すぐに居間から久居の荷物を取ってきた。

久居は荷物を手渡され、渋々といった様子で着替え始める。

レイはいつものように背を向けた。


この天使は、共に暮らすようになってもう二年ほども経つが、同性同士だろうとこういった配慮をする。

それが天使達の常識なのか、それともレイの性格的なものなのかは尋ねた事が無かったが、ともあれそのせいで久居はまだレイに肩の痣をはっきり見せたことがなかった。

背に怪我の痕がある事くらいは知っているかもしれないが、傷痕が幾重にも重なったその下の痣は、よくよく見なくては分からないだろう。


「リルはまだ起きそうになかったぞ」

とレイが伝えるが、久居の反応は薄い。

「……なあ、何か、あったんだろう……?」

レイが振り返ると、着替え終わった久居は、解いた髪を拭いていた。

「何があったんだ……?」

「……」

レイの言葉に、久居は躊躇う。

「…………俺には、話せないのか……」

悲しそうな声に、久居がちらとレイを見ると、大きな背中がしょんぼりと丸まっていた。

「いえ……、ただ少し……忘れていた事を思い出しただけです」

久居が小さく答える。

そこに感情は無かった。


「――っ、まさか、記憶が戻ったのか!?」

身を乗り出してきたレイに、至近距離でジッと返事を待たれて、久居が渋々答える。

「……はい」


「大丈夫か……?」

「大丈夫です。……少し、一人にしていただけますか」

心配そうなレイが煩わしいのか、久居が、これ以上触れてくれるなとやんわり告げる。


レイは迷った。

どうみても久居は大丈夫じゃなかったが、構うなと言っているのにこれ以上声をかけるのは迷惑だろう。


「じゃあ、落ち着いたら戻って……」

そこまで言いかけて、レイは思い出した。

こちらへ旅立つ前に、菰野に言われた言葉を。


『久居をよろしく頼む。なんでも一人でやろうとしてしまうから、辛そうな時には、そばに居てやってくれないか』

いつも笑顔の菰野が、珍しく真剣な顔をして、縋るように見上げてくるので、レイは『分かった、任せておいてくれ』と大きく頷いたのだった。

(……ダメじゃないか。これ、放っといたらダメなやつじゃないか!)

レイは、危なかった……と胸を撫で下ろしつつ、戻りかけていた足を止めると、久居の腰掛けている岩の反対側に腰を下ろした。


(うわ、冷てっ!)

岩は朝露に濡れ、冷たく冷え切っていた。

(羽根敷いて座るか……?)

レイがゴソゴソと座り直していると、背中合わせに座られた久居が怪訝そうに視線だけで振り返る。

「……何を、しているんですか」

「いや、菰野から、お前が凹んでる時、一人にするなって言われたのを思い出した……」

レイが、ちょっとバツの悪そうな顔で、正直に答えた。


「そうですか、菰野様が……」

久居の声から刺々しさが消える。


「だから、お前も観念して、話してくれないか」

レイの言葉に、久居は小さく首を振る。

「お話しした所で、過去は変わりませんよ」

「過去は変わらなくても、お前の心は軽くなるかも知れないだろう?」

「そう、でしょうか……」

「……お前、人に話して楽になった経験とか無いのか?」

不審そうにしている久居を、レイも不審そうに見る。

「私はありませんが……、以前リルの話を聞いた事はありますね」

(お前は無いのか……)

レイが内心頭を抱えながらも、促す。

「とにかく、胸の中でなんかグルグルしてるものがあるなら、話してみたらいい。

 話すだけで、気持ちも整理されたりするものなんだ」

「……そう、ですか……」

それから、しばらく沈黙が続いた。

レイは急かす事なく久居の次の言葉を待ちながら、ぼんやりと思う。

人に、愚痴を話したことがないなんて、久居は一体今までどれだけの悩みを一人で抱え込んできたんだろうか。

菰野なら、愚痴なんていくらでも聞いてくれるだろうに。

いや、まあ、立場があるからそれは無理だったのか……?


レイは、ますます明るくなってきた空を見上げる。

もうすぐ、目の前の雑木林より日差しが溢れてくるだろう。

リルはまだ寝ているだろうか。

クリスと言ったか、あの子は環を取られたと知ったらショックだろうな……。

そんな事を考えていたら、やっと、久居がぽつりぽつりと話し出した。


「私は……母を……殺してしまったんです……」


「!?」

予想外の言葉に、レイが戸惑う。


「それを……あろう事か……っ、忘れて、生きていたなんて……」

久居の声は酷く震えていた。

「久居……」

「母を……あのように……冷たく、暗い海の底に、置き去りにして……」

低く低く、唸るような声で、絞り出すように久居は話す。

「……そうまでして、助けた弟も……、守り切れず、私は……っっ」


レイは、最初久居が泣いているのかと思って、顔を見ないようにしていた。

しかし、背後にゆらりと怒気を感じ、思わず振り返ると、久居は、その瞳に激しい怒りを宿していた。


強い憎悪の気配が辺りに広がり、レイは思わず岩から飛び降りる。


こいつ! 泣くの堪えてたんじゃなかったのか!!

怒り狂いそうなのを、必死で堪えてたのか!!


ああそうか!

こんな冷たいとこで、身体の芯から冷え切って何してんのかと思ったが、分かった!

頭を冷やしてたんだな!!!


レイが自分の悪手をようやく理解した時、久居からズズズと真っ暗な闇が姿を現した。

その色に、気配に、レイは心の奥底から止めどなく恐怖を引き出される。

「リル! おいリル、起きろ!!」

レイはそれを打ち破るように声を上げ、背後の家に向かって呼びかけた。


闇は一気に膨れ上がると、久居目掛けて降り注ぐ。

「っ!」

久居は、ぐらりと姿勢を崩すも、なんとか踏みとどまった。


怒りや憎しみは、闇の力を強める。

久居の感情に、闇の力が応えたのだろうが、それにしても……。

レイは久居の姿をもう一度上から下まで眺めると、その異様な姿にごくりと喉を鳴らした。

久居はその全身を闇にきつく締め上げられ、痛々しい姿になっていた。

(相変わらず、お前の怒りの感情は自分だけに向かうんだな)

闇が周りを無差別に襲わない事は、レイにはありがたかったが、それにしたって、自分で自分を攻撃してるんじゃあんまりだと思う。


ギイッと窓が開いて顔を出したのは、リルではなくクリスだった。

「ど、どうしたの……!?」


「お嬢さん! すまないがリルを起こしてきてくれ!!」

「わ、分かった!」

クリスはバタバタと居間へ向かった。

これでひとまず炎は確保できるだろうが……。


「久居! 聞こえてるか!? お前、昨日の会話覚えてるよな!?」


レイは、空竜の上での会話を思い出す。



「なあ久居、お前、あれから闇の力の方は大丈夫なのか?」

少しだけ遠慮しながら、レイが問いかけると、久居が目だけで振り返った。

「そうですね。時々リルに焼いてもらっていますから、今のところ制御できていますよ」

「ここから先は菰野もいない。……もし、今度がお前暴走したら……。…………俺は……」

レイは思い悩むように、ぐっと握った拳を見つめて眉を寄せる。

久居を傷付けずに救う事は、自分には難しいかも知れない、とレイは思う。

だから、レイは何より、久居の闇の力の暴走を恐れていた。

「その心配は不要です。私はもう、あんな失態は犯しません」

久居がさらりと答える。

「……い、いやいやいや、何を根拠にそうもキッパリ言い切れるんだ?」

レイが肩透かしを喰らって、がくりと姿勢を崩し、そのまま座り込んだ。


「菰野様に、生きて戻れとの命をいただきましたから」

荷物を纏める久居は、まだレイに背を向けていたが、久居が笑ったのをレイは感じた。

「私を粛せばレイは天界に戻れるところでしたのに、残念でしたね」

久居が楽しそうに言う。

その余裕には恐れ入ったが、その言い様には苛立ちを感じる。

俺は、お前を傷付けたくないから、気を揉んでいるというのに。

「はぁ……。まったく。お前の冗談は、いつも笑えないんだよ!」

この苛立ちを自分で解消するのも悔しく思えて、レイは久居の頭を後ろからぐいと押す。

久居は、敢えて避けなかった。



けれど今、久居はまた闇に飲み込まれようとしていた。


「お前、もう暴走しないって言い切ったじゃないか!!」

久居は、闇にギシギシと絡み付かれたままに、片手で顔を覆って、荒い息をしている。

「菰野のとこに帰るんだろ!!」

びくり。と久居が反応する。

「菰野を待たせてるのに、お前、こんな事してる場合じゃないだろう!!」


「……っ、菰野、様……」

小さいが、確かに聞こえた久居の声。


(よし! まだ久居には意識がある!! どうかそのまま、手放してくれるなよ……)

この場に居ない菰野に頼るのは、どうにも情けないと思いつつも、レイは久居を傷付けずに済む方法を探る。

「菰野の言葉を思い出せるか!? 落ち着いて、呼吸を整えてくれ!」


(リルはまだか……!? 俺の全力の障壁では、闇を防げるかどうか……)

レイが内心焦っていると、ようやくパタパタと駆け寄る軽い足音が聞こえてきた。


「久居っ」

闇色に捕らわれた久居を見て、既にリルは涙声だ。

「リル! やっと来たか! 炎を出してくれ!」

「レイに?」

リルがレイに手を伸ばしかけるので、レイが慌ててその手を久居の方に向ける。

「俺じゃない! お前が自分でやるんだ!!」


至近距離で叱られたリルが、耳をパタつかせて、ぴゃんと縮む。


「……ボクが……?」


リルは、自分の指先と久居を交互に見つめて、固まった。


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