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43話 黒い翼(後編)

深夜、皆が寝静まったはずのクリスの家に、動く人影があった。

人影は、クリスと牛乳が寝ているはずのクリスの寝室から、音もなく出て来る。

部屋同士を繋ぐ通路には、両開きの窓が開け放たれていた。


窓へ向かおうとする人影は、背後から何者かに羽交い締めにされ、動きを止めた。


「それを持ち出されては、困ります」

久居が、人影の耳元で低く言う。


窓の外には月もなく、明かりひとつない廊下は暗闇そのものだったが、久居には十分だった。


(何の気配もなかったのと思ってたのに……また私、ぼんやりしてたかなぁ?)

動きを止められた人影が、ぼんやりと驚く。


焦る様子も暴れる様子もない人影に、久居が違和感を感じる。

今までとは違う。

触れて気付いたが、久居が今押さえ付けているのは、間違いなく女性の……いや、少女とも呼べるほどの体躯だった。

女が一人で、環を奪いに、しかも、天使がいると分かっているところに来るだろうか。

来るとすれば、それは、よほど腕に自信のある者だろう。


「環を、返してください」

久居が、無抵抗な女に対し、それを上位者と仮定し一気に切り刻むべきか迷った瞬間、彼女の首筋の痣が紅く輝いた。

「その痣は……!」

思わず久居が声を上げる、ほんの一瞬で、久居の手足は黒い何かによって薙ぎ払われた。


両手足が消し飛んだ感覚に、久居は素早く自身の手足を確認する。

しかし、そこには変わらぬ自身の手足が繋がっていた。


「あれ……?」

間の抜けた声を漏らしたのは、久居の腕から逃れて、向かい合うように立った女の方だった。

(……手も足も、千切ったつもりだったのに)

ほんの一瞬の間の後、まあいいか。とでも思ったのか、女は背を向けると窓から外へ飛び出した。


慌てて伸ばす久居の手が、彼女の纏ったローブをかすめる。

ぐっと裾を握り締めたはずのローブは、次の瞬間全体がぶわりと膨らみ漆黒の翼へと姿を変えた。


「!?」

久居が手応えを失う。伸ばした右手には一枚の羽が残るのみで、女はそのまま外を駆けると勢いを付けて空へ舞い上がった。


「空竜さん!!」

久居の声に、外で寝ていたはずの空竜がすぐさま姿を現す。

「ボクも行く!」

声に目が覚めたのか、珍しくリルが起き出してきた。

二人を乗せるべく空竜が急いで膨らむうちに、クリスも庭に出てくる。

「リル! 久居さん!」

「環を盗られました。追います」

「う、うん……」

クリスは奪った人物を見ていない。

ただ、物音に起きたら、環が無くなっていただけだ。

(リルや久居さんを疑いたくは無いけど……)

暗い顔をするクリスに「絶対取り返すからね!!」と励ましの言葉をかけるリル。

久居は彼女の懸念に気付き「留守の間、レイをお願いします」と頭を下げた。


「えっ、レイさん寝てるの?」

クリスが驚く。

てっきり先に飛んで行ったとか、そういうことかと思っていたのに。


ぶわりと舞い上がる空竜に、久居が行き先を指示している。

その間にリルがクリスへと叫んだ。

「レイは暗いの苦手だから、朝日が出るまでそっとしておいてあげてねー!」

「わ、分かった!」

ぐんぐんと速度を上げて飛び去る二人。

二人の乗っている、ふわふわの毛で覆われた生き物は何だったんだろう。

今までどこにいたんだろう。

みるみる大きさが変わるのは、一体どういう仕組みなんだろう。


わからない事だらけだった。


クリスには、どうしても、見る間に遠ざかるリル達が、このまま環と一緒に消えてしまうような気がしてしまう。

しかし、天使がまだ家で寝ているらしい。


本当かどうかは、わからないけれど。

とにかく朝まで待ってみよう。

そう思うと、なんだか肩の力が抜けて、クリスはその場にへたり込んだ。

草の上に手をついたクリスの腕に、牛乳が額をぐりぐり押し付けてくる。

「ありがとう……。大丈夫よ、部屋に戻りましょう」

クリスは牛乳の頭を撫でると、ゆっくりと立ち上がった。


----------


「あっちに曲がった!」

リルが指す方へ、空竜が向きを変える。

「くーちゃん、いそいでーっ」

リルの声に、空竜が小さく鳴いて返す。

まるで、もう十分頑張っていると愚痴ったように、久居には聞こえた。


彼女の力強い羽音は、リルにはよく聞こえるようで、久居にはまったく視認できないような距離からでも、迷わず追跡できていた。


ふっと、眼下が陸から海に変わる。

彼女は、この国を出て、どこへ向かっているというのか。


「海だね」

「そう……ですね」

リルの呟きに、久居がぎこちなく答える。

「ボク、もうちょっと泳ぐ練習頑張っといたらよかったなぁ……」

リルは、この二年間でなんとか沈まず居られる程度にはなったが、それが精一杯という状態だ。

「十分、頑張っていましたよ」

久居が、いつものようにリルの頭を撫でる。

寝起きで飛び出したからか、リルは帽子を被っていなかった。


(あれ、久居の手、震えてる……?)

リルが僅かな違和感に気付いた時、前方に黒い翼が見えてきた。


「見えたよっ!」

「刀に炎をいただけますか。それと、落ちないようにしっかり捕まっていてくださいね」

「うん!」

リルの全身からほとばしる黄色い炎が、ボワッと空竜を包み込む。

久居がスラリと抜いた刀身へも、透き通るような炎が流れた。


女は、炎の気配を感じてか、空中で静止する。

速度では振り切れないと分かったのか、こちらへ向き直ると、両手を大きく突き出し、構えた。


久居が刀を振り、大きく放った炎が、弧を描くように広がる。

女の手から溢れ出した暗闇が、それにぶつかりバチバチと弾けた。


「あれって……」

リルの小さな声。

リルは、あれと同じ暗闇が、炎に混じって綺麗に爆ぜるのを知っていた。


「そのよう、ですね……」

久居が同意する。

その黒い瞳がいつになく動揺している様を、見る者は居ない。


女の放つ闇は、暗い夜空を吸い込むように、炎を全て溶かし切ると、勢いを強めてこちらへ向かう。

久居が二刀、三刀と炎をぶつけるも、闇は勢いを落とす事なくリル達に近付く。

「空竜さん、回り込んでください!」

もう一刀、闇に炎を打ち込みながら、久居が叫ぶ。

空竜が大きく羽ばたくと、後退るようにして回り込む。

久居は片腕でリルが吹き飛ばないように支える。

ぐるりと闇を避け、闇に隠れて見えなくなっていた女の姿が現れた時、そこには三枚重ねの魔法陣があった。


「避け――……」

久居の声は、暴風に掻き消えた。

リル達は、物凄い風に上下も分からないほど掻き回され、空竜ごと海へ叩きつけられる。


海面といえど、この高さからこの速度での落下では、その衝撃は地面と大差なかった。

二人と一匹が、派手にひしゃげた音を立てて海面に激突し、それきり静かになる。


何ひとつ動くもののない水面。

黒翼の少女はそれを見届けると、背を向け、月のない空へと羽ばたく。


----------


暗い海の上を、風を切って飛ぶ黒い翼。

少女はさっきの出来事をぼんやりと振り返っていた。


(あの人、なんだか、父さんに似てた……)


優しくて静かな声も。近くで感じた匂いも。

髪の色も、父さんみたいな綺麗な闇色だったし、目も、父さんみたいな黒くて紅い色をしてた。


名前は……なんて呼ばれてたっけ?

聞いてなかったなぁ……。


サラは目を閉じる。

腰に下げた袋が揺れる度、カチャンカチャンと金属のぶつかり合う音がする。


(でも……あの人は敵だった)


サラは目を開くと、遠い海の向こうに僅かに見えてきた陸地に目を凝らす。


(天使の味方をするのは、皆、父さんの敵)


……父さんの敵は、私の敵だ。


サラは翼に力を込めて、大きく強く羽ばたく。

今度こそ、この環を父さんの元へ届けよう。

そして、父さんにめいいっぱい褒めてもらおう。


サラはほんの少し口端を緩めると、父の微笑みを胸に浮かべて、飛び去った。


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