目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
38話 主従(1/5)

石造りのひんやりとした室内。

明かりのひとつもない部屋で、鉄枠に飾られた嵌め殺し窓辺に、男がひとり腰掛けていた。

腰よりもずっと長い黒髪は、窓から入る月光に照らされても、光を返す事なく漆黒を保っている。

片膝を抱えて、どこまでも広がる夜の森を眺めていた男が、ノックの音に顔を上げた。

「……どうぞ」

顔は鼻の下まで届きそうなほどに伸ばされた前髪で隠れていたが、落ち着いた声の響きは、その若々しい輪郭よりも若干年輪を感じさせる。


許可を得て、部屋に入って来たのは、黒い翼を持つ少女だった。

「父さん、ごめんなさい……」

言われて、父と呼ばれた男は少女を宥めるように見る。

「あの鬼、四環取り戻せなかったって……」

「……そうですか」

男の声にほんの少しの落胆が滲むも、それを隠すように男は小さく微笑んだ。

「サラが謝ることではありませんよ。報告してくれて、ありがとうございます」

「……父さん……」

少女は、他の誰にも見せない顔で、どこか寂しげに微笑みを返した。



----------



「――っ朝だ!?」


レイの叫びに、小屋の近くにいた全員が振り返った。


「やっと起きましたか」

久居が一つ息をついて小屋へと向かう。

それは、ため息ではなく安堵の吐息だった。


その背を見送りながら、大テーブルで勉強をしていたリルと、それに付き添っていたカロッサもホッとした様子で言葉を交わす。

「よかった、レイ君目が覚めたのね」

「ずっと寝てたから、ボクもちょっと心配しちゃった」

リルの解いていた問題はまだ解きかけだったが、躓いているのか、リルは大きく伸びをしたついでに、後ろ側に居た菰野に声をかけた。

「コモノサマは、何してるの?」


菰野は、まだ修練は禁止されていたが、近くの木に両手をついて、足を伸ばしたりしていた。

「僕? 体をほぐしてるところだよ」

声をかけられて、菰野は動きを止めると、小さく微笑んで答える。

「あ、ずっと動かなかったから? 体カチカチになっちゃった?」

リルが、フリーの拳骨も前よりカチカチになっちゃったんだろうか。と斜め上の心配をしながら聞き返す。

「いや、感じは変わらないよ。今は少し体が重いけど、それは血が足りないからだって久居も言ってたからね」

菰野は、腕を回したり手を握ったり開いたりして調子を確認しながら、リルの質問に丁寧に答える。

「あまり激しくは動けないけれど、鈍らない程度には動かしておこうかなって」

そう言って爽やかに笑う菰野に、リルも笑顔を返す。

「そっかー」

とりあえず、フリーのグーの威力が上がったわけじゃなそうで、リルは安心した。



昨日の今日ではあったが、負傷もなかったフリーは学校に行くようリリーに指示され、渋々学校に行ったらしい。


昨夜、フリーは、いつもリル達に絡んでいた三人組が、もう五年生と六年生になっているという事実に気付いて

「やだもう絶対会いたくないーーっっ。どうせなら卒業しちゃってればよかったのに!」

と頭を抱えていた。

そんなフリーを、リルは何とも言えない顔で見ていた。

生まれた時からずっと一緒に生きてきたフリーが、これから、自分がもう過ごしてしまった三年間を過ごそうとしている。それが、何だか不思議だった。

ゲンナリした顔のフリーがリルの視線に顔を上げて言う。

「リルはいいなぁ。もう学校行かないんでしょ?」

それは、自分より先にやるべきことを見つけてしまった弟への、純粋な憧れだった。

羨ましそうに言うフリーの言葉に他意はない。

きっと、フリーならこんな状況を本当に喜べるんだろう。

けれど、リルは叶うならば皆と一緒に、同じように扱われて、共に学校で勉強がしたいと願っていた。

もしも、皆の視線や態度が、自分だけを別にしなかったなら……。

もしも、自分の耳がもっと鈍感だったら……。

そんなもしもの話、考えたって仕方がないと分かっているのに。

リルは自嘲を誤魔化すように、小さく笑う。

「うん、いいでしょ」

リルにとっては、学校でフリーがいつも自分を庇い、どんな時も矢面に立とうとしてくれるのも、また心苦しい事だった。

フリーだけでも学校に通えるなら、それはきっと、フリーにとっても、母にとっても、良い事だと思う。


多分、もっと早く、ボクが村を出ていればよかったんだろうな……。


その思いは、誰にも言えなかった。

母はいつも、ボクの為に、村の人達に頭を下げていたから。



「学校から帰ったら、すぐこっちに来るからね!」

フリーは、そんな弟の様子に気付く事なく、力を込めて叫ぶ。

「うん、待ってるねっ」

リルはそれに笑って答えた。


そういえば、名残惜しそうに帰るフリーに、カロッサが「私、早速明日からフリーちゃんの修行任されちゃったわよ?」と突っ込んでいた。

どうやら、フリーにもこれからは、リルと同じような修練の日々が待っているらしい。


リルは昨夜の様子を思い出しながら、隣に座るカロッサの顔をチラと盗み見る。


昨日、空間凍結の強制解除という超技術を披露したカロッサは、精神疲労からか夜まで休んでいたが、夕飯には顔を出した。

役目は予定より早く終わったものの、まだ自宅の建設が終わっていないカロッサは、後ひと月弱ほど、ここに残る予定らしい。


「簡単な家でいいって言ったんだけどね。また二階建てにしてくれてるらしくて、もう少しかかるみたいなのよ」

苦笑するカロッサが

「ま、最後にもうちょっと、のんびりしたってバチは当たらないわよね」

と小さく小さく呟いたのを、リルだけが聞き取っていた。


最後っていうのは、何だろう。

何の最後なんだろう。


カロッサにとって、今の状況は夏休みみたいなものなんだろうか。

それが終わる事を指してるんだろうか。


リルは息を殺して耳を澄ます。

カロッサの体から聞こえる音は、いつもと変わらない、乱れのない音だった。


「リルくーん? 手が止まってるわよー?」

言われて、リルはハッと手元に視線を落とす。

机の上には、母であるリリーが用意した教科書や手書きの問題が広がっている。

元から登校拒否気味のリルは、母親が先生がわりでもあった。

修行や旅の間は拠点らしい拠点もなかったため、勉強は疎かになっていた。

けれど、今回は妖精の村近くに留まっていられるという事で、リルは三年分の内容をぎゅうぎゅうと詰め込まれている。

今は苦手な算術の計算をしている最中だった。

「あ、うん。ぼーっとしてた……」

リルの言葉に、カロッサは苦笑する。

多分、いつものことだと思われたんだろうな。と、リルは頭の端で思いつつ、何とか気持ちを切り替えようと、次の問題に取り掛かった。


リリーがこの場へ持ってきた教科書のうち、妖精の歴史や、世界の成り立ちなどの書物は、リルよりも久居が真剣に読み込んでいた。


リルの、ここでの生活は、午前中のほとんどが勉強だった。

教養がある上に人の良いレイと、時間を持て余していたカロッサが、先生がわりにリルの勉強を見てくれていた。

久居も算術などは教えられたが、どちらかと言えばリルと一緒に授業を聞いている事が多かったし、リルより質問も多かった。


皆がリルの勉強に協力してくれる事は、リルもとても感謝しているし、この機になるべく頑張ろうと思ってはいる。

思っては、いるが、久居ほど何でもすぐには覚えられないし、覚えたつもりでいても、次の日には忘れてしまっている。

元から覚えの良い方ではなかったが、ここまで悪くはなかったと思うのに……。と、リルは自分でもちょっとがっかりしていた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?