石造りのひんやりとした室内。
明かりのひとつもない部屋で、鉄枠に飾られた嵌め殺し窓辺に、男がひとり腰掛けていた。
腰よりもずっと長い黒髪は、窓から入る月光に照らされても、光を返す事なく漆黒を保っている。
片膝を抱えて、どこまでも広がる夜の森を眺めていた男が、ノックの音に顔を上げた。
「……どうぞ」
顔は鼻の下まで届きそうなほどに伸ばされた前髪で隠れていたが、落ち着いた声の響きは、その若々しい輪郭よりも若干年輪を感じさせる。
許可を得て、部屋に入って来たのは、黒い翼を持つ少女だった。
「父さん、ごめんなさい……」
言われて、父と呼ばれた男は少女を宥めるように見る。
「あの鬼、四環取り戻せなかったって……」
「……そうですか」
男の声にほんの少しの落胆が滲むも、それを隠すように男は小さく微笑んだ。
「サラが謝ることではありませんよ。報告してくれて、ありがとうございます」
「……父さん……」
少女は、他の誰にも見せない顔で、どこか寂しげに微笑みを返した。
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「――っ朝だ!?」
レイの叫びに、小屋の近くにいた全員が振り返った。
「やっと起きましたか」
久居が一つ息をついて小屋へと向かう。
それは、ため息ではなく安堵の吐息だった。
その背を見送りながら、大テーブルで勉強をしていたリルと、それに付き添っていたカロッサもホッとした様子で言葉を交わす。
「よかった、レイ君目が覚めたのね」
「ずっと寝てたから、ボクもちょっと心配しちゃった」
リルの解いていた問題はまだ解きかけだったが、躓いているのか、リルは大きく伸びをしたついでに、後ろ側に居た菰野に声をかけた。
「コモノサマは、何してるの?」
菰野は、まだ修練は禁止されていたが、近くの木に両手をついて、足を伸ばしたりしていた。
「僕? 体をほぐしてるところだよ」
声をかけられて、菰野は動きを止めると、小さく微笑んで答える。
「あ、ずっと動かなかったから? 体カチカチになっちゃった?」
リルが、フリーの拳骨も前よりカチカチになっちゃったんだろうか。と斜め上の心配をしながら聞き返す。
「いや、感じは変わらないよ。今は少し体が重いけど、それは血が足りないからだって久居も言ってたからね」
菰野は、腕を回したり手を握ったり開いたりして調子を確認しながら、リルの質問に丁寧に答える。
「あまり激しくは動けないけれど、鈍らない程度には動かしておこうかなって」
そう言って爽やかに笑う菰野に、リルも笑顔を返す。
「そっかー」
とりあえず、フリーのグーの威力が上がったわけじゃなそうで、リルは安心した。
昨日の今日ではあったが、負傷もなかったフリーは学校に行くようリリーに指示され、渋々学校に行ったらしい。
昨夜、フリーは、いつもリル達に絡んでいた三人組が、もう五年生と六年生になっているという事実に気付いて
「やだもう絶対会いたくないーーっっ。どうせなら卒業しちゃってればよかったのに!」
と頭を抱えていた。
そんなフリーを、リルは何とも言えない顔で見ていた。
生まれた時からずっと一緒に生きてきたフリーが、これから、自分がもう過ごしてしまった三年間を過ごそうとしている。それが、何だか不思議だった。
ゲンナリした顔のフリーがリルの視線に顔を上げて言う。
「リルはいいなぁ。もう学校行かないんでしょ?」
それは、自分より先にやるべきことを見つけてしまった弟への、純粋な憧れだった。
羨ましそうに言うフリーの言葉に他意はない。
きっと、フリーならこんな状況を本当に喜べるんだろう。
けれど、リルは叶うならば皆と一緒に、同じように扱われて、共に学校で勉強がしたいと願っていた。
もしも、皆の視線や態度が、自分だけを別にしなかったなら……。
もしも、自分の耳がもっと鈍感だったら……。
そんなもしもの話、考えたって仕方がないと分かっているのに。
リルは自嘲を誤魔化すように、小さく笑う。
「うん、いいでしょ」
リルにとっては、学校でフリーがいつも自分を庇い、どんな時も矢面に立とうとしてくれるのも、また心苦しい事だった。
フリーだけでも学校に通えるなら、それはきっと、フリーにとっても、母にとっても、良い事だと思う。
多分、もっと早く、ボクが村を出ていればよかったんだろうな……。
その思いは、誰にも言えなかった。
母はいつも、ボクの為に、村の人達に頭を下げていたから。
「学校から帰ったら、すぐこっちに来るからね!」
フリーは、そんな弟の様子に気付く事なく、力を込めて叫ぶ。
「うん、待ってるねっ」
リルはそれに笑って答えた。
そういえば、名残惜しそうに帰るフリーに、カロッサが「私、早速明日からフリーちゃんの修行任されちゃったわよ?」と突っ込んでいた。
どうやら、フリーにもこれからは、リルと同じような修練の日々が待っているらしい。
リルは昨夜の様子を思い出しながら、隣に座るカロッサの顔をチラと盗み見る。
昨日、空間凍結の強制解除という超技術を披露したカロッサは、精神疲労からか夜まで休んでいたが、夕飯には顔を出した。
役目は予定より早く終わったものの、まだ自宅の建設が終わっていないカロッサは、後ひと月弱ほど、ここに残る予定らしい。
「簡単な家でいいって言ったんだけどね。また二階建てにしてくれてるらしくて、もう少しかかるみたいなのよ」
苦笑するカロッサが
「ま、最後にもうちょっと、のんびりしたってバチは当たらないわよね」
と小さく小さく呟いたのを、リルだけが聞き取っていた。
最後っていうのは、何だろう。
何の最後なんだろう。
カロッサにとって、今の状況は夏休みみたいなものなんだろうか。
それが終わる事を指してるんだろうか。
リルは息を殺して耳を澄ます。
カロッサの体から聞こえる音は、いつもと変わらない、乱れのない音だった。
「リルくーん? 手が止まってるわよー?」
言われて、リルはハッと手元に視線を落とす。
机の上には、母であるリリーが用意した教科書や手書きの問題が広がっている。
元から登校拒否気味のリルは、母親が先生がわりでもあった。
修行や旅の間は拠点らしい拠点もなかったため、勉強は疎かになっていた。
けれど、今回は妖精の村近くに留まっていられるという事で、リルは三年分の内容をぎゅうぎゅうと詰め込まれている。
今は苦手な算術の計算をしている最中だった。
「あ、うん。ぼーっとしてた……」
リルの言葉に、カロッサは苦笑する。
多分、いつものことだと思われたんだろうな。と、リルは頭の端で思いつつ、何とか気持ちを切り替えようと、次の問題に取り掛かった。
リリーがこの場へ持ってきた教科書のうち、妖精の歴史や、世界の成り立ちなどの書物は、リルよりも久居が真剣に読み込んでいた。
リルの、ここでの生活は、午前中のほとんどが勉強だった。
教養がある上に人の良いレイと、時間を持て余していたカロッサが、先生がわりにリルの勉強を見てくれていた。
久居も算術などは教えられたが、どちらかと言えばリルと一緒に授業を聞いている事が多かったし、リルより質問も多かった。
皆がリルの勉強に協力してくれる事は、リルもとても感謝しているし、この機になるべく頑張ろうと思ってはいる。
思っては、いるが、久居ほど何でもすぐには覚えられないし、覚えたつもりでいても、次の日には忘れてしまっている。
元から覚えの良い方ではなかったが、ここまで悪くはなかったと思うのに……。と、リルは自分でもちょっとがっかりしていた。