フリーは、初めて会った時の……と言ってもフリーの中では昨日のような物だったが、その時の久居を思い浮かべる。
あの時の久居さんも落ち着いた感じの人だったけど、今日の久居さんは、もう立派な大人の男の人だった。
背も伸びてるような気がする。
背といえば、リルも五センチ伸びていて、私との身長差があと五センチになっていたけど、
リルの方はまだ、私より年上って感じにはなってなくて、正直ホッとした。
久居さんは、ちょっと悩んでたようだったけど菰野に会う許可をくれた。
フリーは、菰野が中にいる小屋の前に向かう。
菰野になんて言えばいいのかは、まだ全然思い付かないけれど。
戸の前に立つと、中から押し殺すような、小さな泣き声が途切れ途切れに聞こえた。
一人で泣いてるんだ。
そう思ったら、ぎゅっと胸が苦しくなる。
「菰野、入ってもいい?」
ノックをして声をかけたら、中から慌てるような声が戻って来た。
「えっ、フリーさん!? ちょ、ちょっと、待って」
そっか。慌てて泣き止んでるんだ。
どうしよう。悪いことしちゃったかな。
ゆっくり泣かせてあげたほうがよかった?
リルは抱きしめてあげると安心してわんわん泣くけど、菰野はそんなタイプじゃないもんね。
フリーは、前に菰野が見せた涙を思い出す。
それは叔父さんが亡くなったという時に、眠る菰野が一筋だけ零してしまったもので、フリーはそれ以外に菰野が泣くところを見た事はなかった。
あ、でもお兄さんに斬られた菰野は泣いてたな。
あれは、痛かったからじゃなくて、悲しかったから……だったんだね。
ギッと木が軋む音とともに、中から戸が開いた。
「どうぞ」
にこっと、菰野がいつもの笑顔で迎えてくれたけど、その目は赤く腫れていた。
フリーは少し心苦しく思いながらも、小屋に入る。
「ごめんね、お父さん、乱暴者で」
フリーがひとまず父の狼藉を謝ると、菰野が優しく苦笑する。
「大丈夫だよ、もう治してもらったから」
「でも、その……、悪い人じゃないのよ?」
クザンには伝えきれなかったが、フリーも父には感謝していた。
父がいなければ、菰野を救えなかったことはフリーにも分かっている。
思わずフォローしてしまったフリーに、菰野は変わらぬ様子で答える。
「うん、分かってるよ。フリーさんの父君も、母君も、立派で優しい人だね」
菰野がまた、ニコッと笑う。
「えええええええええ?」
「……ええ?」
フリーの思わず出した疑問の声に、菰野がつられて疑問符を浮かべる。
うーん……。私だったら、治してもらっても、やっぱり殴られたら嫌だし、理由も言われずに急に殴られたら、怖い人だと思っちゃうけどなぁ……。
菰野は本当に何とも思ってなさそうで、フリーはそれが不思議で仕方ない。
「どうして、そんなに簡単に許せるの?」
「殴られた事?」
「うん」
菰野はほんの少し遠い目をして答える。
「あれはきっと、儀式みたいなものだよ」
「儀式?」
フリーが思ってもみなかった単語に首を傾げる。
「フリーさんの父君には、臣下がいるって久居から聞いたんだ、その人が僕に血を分けてくれたって。
フリーさんの父君はお立場上、僕を許すためには、僕を罰する必要があったんだと思う」
「そう……なの……かなぁ?」
そういうものに関わる事なく育って来たフリーには、なんだか良くわからない話だったが、菰野がそう言うなら、そうなのかも知れない。
「うん、だから僕は本当に気にしていないし、フリーさんの父君にはとても感謝しているんだよ」
「そうなの?」
「もちろん。僕の大怪我を治してくださっただけでも命の恩人なのに、僕が眠ってる三年もの間、久居の面倒を見てくださってたなんて、もう感謝してもしきれないよ」
そう言って笑う菰野が幸せそうだったので、フリーもなんだか嬉しくなってくる。
でも、菰野の目はまだ赤く腫れていた。
「あのね、菰野のお兄さんのこと、聞いてもいい?」
問われて、菰野が動きを止める。慎重に返された言葉は、短かった。
「……今?」
「うん」
即答されて、菰野は悲しそうに笑う。
「今はちょっと……まだ、心の整理ができてなくて。また今度でもいい?」
やんわりと断られて、次には話すと言われて、それでもフリーは頷けなかった。
「……やだ」
「え?」
小さく見開かれた栗色の瞳は、まだ滲んでいるように見える。
「いやだよ、私……。菰野が一人で泣いてるの」
真っ直ぐ伝えたフリーの言葉に、返事は来なかった。
「……」
菰野は視線を床に落とした。
会話で菰野から返事をもらえなかったのは、これが初めてかも知れない。
菰野はまだ、眉を少しだけしかめて、じっと足元を見つめていた。
困ってるのかな。それとも……怒った?
……どうしたらいいのかな……。
私、余計な事言って、菰野を嫌に気持ちにさせちゃった、よね。
でも、このままにしてたら、菰野は、また一人で全部我慢して、明日にはもう、いつも通りに笑うんだと思う。
菰野は何も悪い事してないのに、菰野だけが悲しくて、菰野だけが一人で泣いて、誰にも慰められないなんて、そんなの……。
「……ごめん」
長い沈黙の後、菰野が絞り出すように、苦しそうに、少し掠れた声で言った。
「謝らないでいいのに……。菰野は謝るような事なんにもしてないよ」
フリーの言葉に、菰野は被せるように言う。
「せっかく来てくれたのに、ごめん。
僕は……フリーさん達を傷付けるような事は、したくないんだ。
だから、ごめん。今は……一人にしてもらっても、いいかな」
苦しげに告げる菰野は、もう、笑顔じゃなかった。
菰野は眉をぎゅっと寄せると、私に背を向けた。
本当は、ずっと前から、苦しかったんだ。
笑顔じゃなくなったのは、きっともう、我慢の限界なんだろうな……。
そんなに悲しくてたまらないのに、菰野が泣いたり叫んだりしないのは、どうしてなんだろう。
泣いてもいいのに。
もっと、わんわん泣いたっていいのに。
フリーはたまらなくなって、口を開く。
「私の事だって、リルの事だって、傷付けていいんだよ。
菰野ばっかり傷付いて、一人でずっと我慢して、そっちの方が、私は嫌だよ」
言葉にしてから、フリーは自分が泣いている事に気づいた。
「私があの時、無理に山を降りたのが悪かったの。
私があの時、捕まっちゃったのが悪かったの!
悪いのは全部私だから、菰野は何も悪くないんだよ!!」
段々と語気が強くなるフリーの剣幕に、菰野が思わず振り返ると、もうフリーはすぐそこまで迫って来ていて、菰野の視界はフリーの泣き顔でいっぱいになった。
「フ、フリーさん……ちょっと、近……」
菰野が後ずさろうとするも、フリーは菰野を逃さなかった。
不意にぎゅうっと抱きつかれて、菰野が慌てる。
「え、ちょ、フリーさん!?」
「私は、菰野が助けに来てくれて嬉しかった!
菰野が、私の事妖精でも好きだって言ってくれて、本当に嬉しかった。
菰野が斬られて、悲しかったし、菰野が死んじゃうって思ったら、怖くて……」
必死に告げる涙声は、嗚咽に途切れた。
「……怖くて……、たまらなかったよ……」
菰野は、驚きに見開いていた瞳を、ゆるりと伏せる。
「フリーさん……」
フリーを慰めるように、菰野の手が、そっと金色の髪を撫でた。
温かくて、優しい感覚に、フリーが息を詰まらせる。
「っ、……こんな風に、菰野が私の事慰めてくれるように、私も菰野を慰めたいのに……」
フリーが、体を離して、ゆっくり菰野と目を合わせる。
二人の距離は、まだ額が触れそうな程近い。
「ねえ、菰野の思ってる事を、もっと話して? 私、菰野にだったら傷付けられてもいいから……」
濡れた金色の瞳の中で、縦に長い瞳孔が、じっと菰野を見つめている。
「……っ」
一心に、心の中までも覗き込もうとするその眼差しに、菰野の頬がじわりと染まる。
その途端、菰野は身体中から力が抜ける。今まで精一杯張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れてしまったような気がした。
「……フリーさんには、敵わないな……」
菰野が栗色の髪を揺らして力なく笑うと、同じ栗色の瞳から大粒の涙が零れた。