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9話 物語の始まり(中編)

それから六時間ほど経っただろうか。

まだ真っ暗な中、久居は二人を起こさぬように、そっと小屋を出た。


空には美しい月がまだ姿を見せている。


久居は、腰に下げていた刀を静かに抜くと、正眼に構えた。

しばらくそのまま目を閉じて、精神を研ぎ澄ます。


風のないこんな夜には、生き物の気配がないこの森は、あまりに静か過ぎて耳が痛くなるほどだった。


小屋から人が出てくる気配に、久居はそっと目を開く。

「眠れないのか?」

クザンの声に、久居は刀を鞘へと収めた。

「いえ……少し早く目が覚めてしまって……」

「どこが少しだ。移動は体力勝負だから、しっかり休んでおいた方がいいぞ? まだ三時間は寝られるだろ」

言ったクザンが、久居のすっかり身支度が整った様子に「ってもう服着てるしな」と突っ込む。

「三時間……一刻半と言う事ですね」

久居が、覚えたての十二時制を十二時辰に置き換えて感覚として理解する。

「明日は向こうに着くまで十四時間は空の上だからな」

「二千三百里の距離を十四時間で移動ということは、半刻で百六十四里……。私達の百六十四倍の速度で移動できるのですね……」

手で口元を隠して、ぶつぶつと口内で呟く久居を、クザンがじっと眺める。

久居は今までずっと十二時辰で時刻を数えていたが、クザンに十二時制と二十四時制を教えられたばかりだった。

これから久居とリルは、国境を越え、単位だけでなく文化も全く違う場所へと向かう。

そんな久居に、クザンは知る限りの知識を詰め込んだ。

本当は、リルにも覚えてほしかったのだが、何度教えても、リルは頭の上に『?』を浮かべていた。


「久居」

「はい」

クザンの言葉に久居は顔を上げる。

「お前にこれやるわ」

クザンはぐいと久居の右手を取ると、手の平大の何かを握らせた。

「……これは」

「懐中時計ってやつだ」

大きさの割にずっしりと重みのあるそれを、久居は見た。

金属でできたその蓋に刻まれているのは何の紋なのだろうか。

対称的でないその模様には、確かに意味があるように思えた。

「リルに持たせてもなぁ。役に立たねぇ気がすんだよな……」

クザンが頭を掻きながら困った顔で言う。

「けど、お前なら大丈夫だろ」

久居はその蓋をそっと開けてみる。

文字盤に刻まれた文字は精巧で、裏面まで及ぶ細かな装飾からも、この品がとても貴重な物であると思われた。

久居が時計に見惚れていると、クザンが久居の腰に下がった刀に目を留める。

「なあ、やっぱ刀を置いて行くのは不安か? 布でも巻いて持って行くか?」

「いいえ、揉め事の原因になる可能性が高い以上、置いて行きます」

久居は、クザンの気遣いに笑みを返す。

「先のは、ただリルさんを起こさないで出来る修練をと思ったまでで……」

その言葉に、クザンは両手を腰に当てて、ふん。と鼻息をふいた。

「リルは、ちょっと術を使ったくらいじゃ起きてこねぇと思うぞ。むしろ、起きてきたら褒めたいくらいだ」

クザンが「あれは耳に頼りすぎる」とリルへの文句を言いながら、久居に向き直る。

「もう寝る気もないみたいだし、付き合ってやるよ。最後におさらいな」

「そんな、クザン様はどうぞお休みに……」

両手を振って、とんでもないとばかりに遠慮する久居の肩へ、クザンは気安く腕を回す。

「まーまー、遠慮すんなって」

がっしりした腕と胸板に挟まれて、久居は仕方なく抵抗を諦める。

「いいか? 久居」

クザンの、いつもよりほんの少し真剣な声に、久居はその鬼を見上げた。

「俺はお前の事結構好きだからな。絶対、生きて帰って来いよ」

頭上から、静かに、しかしはっきりと伝えられ、久居は、クザンがこれを伝えるために自分を捕まえたのだと知る。

「……はい」

久居は、クザンから賜った懐中時計を両手で胸元に握り締め、心を込めて答えた。

この鬼は、三年もの間、何もかもを失った久居に、居場所とすべき事を与え、様々な技を教えてくれた。

久居にとっては、リルの父であると同時に、自身の恩師のような存在となっていた。

「リルを頼むな」

「はい」

クザンが久居を解放する。

にっと人懐こい笑顔を浮かべるその顔には、少しの照れもない。

クザンはとにかく人との距離が近い。接触が多いと言ってもいい。

久居はいつもその距離に戸惑うのだが、リリーやリルは気にしていないようだったので、久居もそれに倣う他なかった。

「あ、あの、時計をありがとうございます。大切にします」

「おお、そうしてくれ」

クザンは満足げに答えると、両手を広げて胸を張り、首をゴキゴキと鳴らす。

体をほぐしながら、彼は告げた。

「じゃあまずは……」

そうして、二人は朝日が昇るまで、一通り術のおさらいをしていた。

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