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29話 特別(中編)

「お待たせいたしました。移動しましょうか」

荷物をまとめた久居が、皆に声をかける。


ミニサイズで丸まっていた空竜が、大きく伸びをしてから、シュルシュルと体を膨らませていく。

「空竜さん、いつもありがとうございます。もう大丈夫ですか?」

「クォォォン」

「久居は体、大丈夫?」

「大丈夫ですよ。ありがとうございます」

リルが、空竜と会話していた久居に駆け寄って尋ねている。リルなりに久居を気遣う様子が微笑ましい、とレイは思う。

そんなリルをひょいと抱き上げて久居が空竜に乗せ、そばに来ていたカロッサにも「カロッサ様、お手をどうぞ」と搭乗をサポートしている。

久居にはレディーファーストの概念は無いようだが、紳士的ではあるな、なんて思いつつ、レイはようやく気付いた。いや、ここは俺がカロッサさんの手を取って差し上げるべき場面だったのか。と。

「…………っ」

久居が、背後で聞こえた息を呑む音に何となく検討をつけつつ、最後に残ったレイを振り返る。レイはまたも赤くなっていたが、久居は気付かなかったことにして促した。

「レイさんもどうぞ、乗ってください」

「あ、ああ。空竜、いいか?」

空竜は「クォン」と小さく鳴いて応える。

「ありがとな」と赤い顔を腕で半分ほど隠しつつ、金髪の天使が空色の竜に乗り込む。

久居が、忘れ物がないかの最終チェックをする様子を見ながら、レイは気になっていたことを口にした。

「なんで久居は、俺にも敬語なんだ?」

尋ねられ、久居が答える。

「敬語というほどではありませんよ。丁寧語ではありますが」

「違いがよく分からん」

「癖みたいなものですので、気にしないでください」

苦笑しながら、久居も空色の竜に乗り込んだ。


「リル、もう少し真ん中に座ってくださいね」

「ん? でもリルは呼び捨てにしてるよな」

リルがよいしょと座り直しながら、ふふんと自慢気にレイを振り返る。

「いいでしょ、ボクだけトクベツなんだよ?」

「リルだけ? 久居は他に呼び捨てにしてるやつはいないのか?」


久居が空竜に離陸を依頼してから、答える。

「そうですね、今はリルだけです」

「今は?」

久居が、余計な事を言ってしまったかと思った時には、レイがしっかり突っ込んできた。

「……昔は、弟が居ました」

三歳下の久居の弟、邑久は久居によく懐いていた。どこへいくにも後ろをついてきて、久居も弟をとても可愛がっていた。

しかしその弟は、六歳の誕生日を迎える前に、雪のちらつく路上で息を引き取っていた。

最後の言葉も分からない。久居が駆け寄った時には、もう弟の体温はほとんど残っていなかった。

一人きりになる事を、あんなに怖がっていたのに。ずっと傍にいると約束したのに。

全ては自分の判断ミスだ。と、久居は幾度となく繰り返した後悔を握り締める。


「そうか。いや、すまない」

「いいえ」

レイの謝罪に、久居が気持ちを切り替えようとした時、視界の端にリルのニンマリとした得意げな顔が入った。

「ねっ、ボクだけなんだよ?」

どうだ、羨ましいだろうと言わんばかりのリルに、久居は思わず苦笑する。

そんな事を羨ましがる者など、居はしないのに。と。

「久居っ、俺の事も呼び捨てでいいからなっ!?」

後ろから、やたらと意気込んで言われ、久居がレイを振り返ると、金髪碧眼の天使がそれはそれは羨ましそうな顔をしていた。

「……い、いえ。リルは弟ほども歳が離れていたからで……」

この天使は本当に大丈夫なのだろうか? 知識に実力に、外見まで揃っているのに、何かが致命的に足りていない気がする。と、久居は頼りにするつもりだったはずの天使に一抹の不安を感じる。

「同世代だしいいじゃないか! 久居は二十代前半ってとこだろう?」

「二十一ですが……」

「くっ、いや、俺も人間だとそのくらいだから!」

ちょっと詰まったところを見るに、レイは久居より少し年上だったのだろう。

「ですが、天の使いであるレイさんを呼び捨てには……」

尚も久居が遠慮すると、リルが勝ち誇った顔をした。

「ふふふーっ。レイ、残念だったねーっ」

「くっ。なんだこの敗北感は……」

レイがガクリと項垂れる。

くすくすと小さな笑い声に目をやると、カロッサが堪えきれずに笑っていた。

「遠慮しなくて大丈夫よ、久居君。レイ君も呼び捨てにしてあげたら?」

思わぬ援護射撃と可愛い笑い声に、レイが頬を染めつつも気合を入れて主張する。

「ほら久居、カロッサさんもああ言ってくれてるし、遠慮しないで呼んでくれ!」

ずずいと顔の前まで迫られて、久居が後ろに姿勢を倒す。

「いえ……それはちょっと……流石に……」

「…………ダメ、なのか……?」

期待に輝いていた露草色の瞳が、途端にしょんぼりと力を失う。

自分では、やはり、ダメだったか……。と、そんな諦めと悲しみの色がレイの瞳に宿る。

それは、久居が思っていたよりもずっと深く、強烈な色をしていた。

これはおそらく、何かの引き金になろうとしているだけで、久居に断られた事自体がここまでの衝撃ではないのだろう。

久居はそれを頭の隅で理解しながらも、観念したように、一つため息を吐いた。

「はぁ…………分かりました」

どうしてそんなに呼び捨てにされたがるのか。全く理解できない久居ではあったが、押しに負ける形で承諾する。

久居の目の前で、暗く澱みかけたレイの瞳が、鮮やかな露草色を取り戻す。

「よし! そうこないとな!」

「ええーーーー!」

レイとリルが何やら言い合うのを、久居は困ったような顔で聞きながら、心の中でだけ、そっと安堵した。やたらと真っ直ぐなこの天使が、何かの悲しい記憶を思い出さずにいられた事を。

それにしても、承諾してしまった以上、呼ぶしかないのだろうな。と、久居はほんの少し後悔しつつ思う。

「レイ、ですか……」口の中で小さく唱えてみる。気恥ずかしい。うまく呼べる気が、まったくしない。

「あっ、久居、練習しちゃうの? レイのこと呼び捨てにしちゃうのーっ?」

途端に、耳の良いリルに聞き咎められる。

「なんだ? 練習するなら俺に直接言ってくれ!」

みゃーっと泣きそうなリルの、余計な一言で余計面倒なことになった。

「わーん、ボクだけのトクベツだったのにー!」

「ほら、遠慮なく!」

「久居、呼ばないよね? ボクだけだもんね??」

「さあ、呼んでくれ!!」

二人がずずいと久居の眼前に迫る。

久居は、そんな二人を見据えると、スゥと息を吸った。

ゆらりと纏う、どす黒い気配に、二人がビクッと姿勢を正す。

「……それより今は、もっと話し合うべき事があるでしょう?」

地を這うような久居の声に、二人は大人しくなる。

が、久居が珍しく照れ臭そうな顔をしているので、もしかしたら、ただ呼ぶのが恥ずかしかっただけなのでは? と、カロッサは内心思った。


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