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22話 夜空(前編)

海が近付くにつれ、時折風に潮の香り混ざり出す。

次第に、月の光を浴びて煌めく海がチラチラと見えてきた。

陸地から見える海は、特に夜の海は、久居を息苦しくさせた。


空竜が着地したあの丘からは、海がよく見晴らせた。

丘には丸太を簡単に加工したベンチのようなものもあったので、おそらくちょっとした展望台になっているのだろう。


今はまだ、丘で待っているはずの空竜とは合流せずに、久居達は丘の手前で茂みに入った。

四方に気配消しの術を張り終わった久居が、腕輪の男に向き直る。

男はまだ悶々と何やら苦悩していたが、久居が前に立つと緊張した面持ちで顔を上げた。

「私は……」

と焦り気味に切り出した男に、久居が「お名前は、本名でなくて構いません。私達がお呼びする際に不都合の無いものを教えてください」と伝える。

どうやら、こちらの人々は久居のいた国より長い名前が一般的で、それを略して呼ぶ事が多いようだ。

クリスも、愛称ではあったのかも知れないが、本名ではないようだったので、久居はそれに倣ってみた。

一呼吸おいて、男が覚悟を決めた顔をした。

「私はウィルフレド。ウィルフレド・デル・ロペス・フェルナンデスだ。ウィルと呼んでくれて構わない」

ウィルフレドと名乗った男が姿勢を正し、初めて、貴族的な振る舞いを見せる。

本名らしきものを告げられて、久居も真摯に応じた。

「私は久居と申します。こちらの少年はリルと呼んでください。異国から来たばかりで、無作法がありましたらご容赦ください」

ウィルに握手を求められ、久居が丁寧に握り返す。

まだ寝ているリルは、久居に抱き抱えられたままだ。


ウィルは、久居の腕の中で眠るリルの顔を見てから、久居の目を見て口を開いた。

「腕輪が必要なら渡す。私の事はどう扱ってくれてもいい。鬼達の事も、知っている限りのことを話すと約束する。だからどうか、妻と娘を助けてくれないだろうか」

一気に胸の内を告げたウィルが、口を閉じる。

ウィルは、静かに久居の返事を待っていた。


久居には、正直なところ、ウィルの家族を助ける理由がなかった。

報告のため、ここまでの経緯を聞き出そうとは思っていたが、それも必須事項ではない。

この場で腕輪さえ回収すれば、今回の任務は完了ともいえる。

カロッサは、今回の腕輪は既に四環守護者と呼ばれる人々の手を離れていると言っていた。

既に返すべき相手は鬼との攻防で敗れてしまったのだろう。

なので、腕輪を奪還した後は、カロッサの元へ持ち帰るはずだった。


これがもしリルだったら、すぐに「いいよ!」と答えるのだろう。

菰野でもそうだ。あの優しい主人が困っている人を放っておくはずがない。


この役目を終えれば、あの温かい笑顔にまた会える。

目覚めた主人は、当然久居に経緯の報告を求めるだろう。

もちろん、詳細は省いても良いだろうが、その時、ここでこの男の家族を助けたと言えば、きっと主人は満足するだろう。

良い笑顔を見られるだろう事は、間違いなかった。


今は腕の中で眠っているリルも、目が覚めれば、この男の行方を尋ねるだろう。


(……仕方ないですね)


久居はゆっくりと、口を開いた。

「私達に、できる範囲のことでしたら」

男はその言葉に、自分が頼んだにも関わらず、信じられないというような顔で目を見開いた。

「ほ……、本当か! ありがとう!!」

ウィルが、ありがとうありがとうと繰り返し礼を伝える。


久居は、まず手始めに、この男からここまでの経緯と、奥方と娘さんの状況を聞く必要があった。

まだ必死で礼を述べている男を見て、久居は内心ため息をつく。

この、主人に良いところを見せたいがために、任務の成功率を下げようとしている自身が、あまりに愚かで。

けれど、それを良しとするはずのお人好しの主人を思うと、久居の表情は自然と穏やかになった。


久居が菰野と離れて、もう三年になるが、時に理性的過ぎる判断を下しがちな久居の良心を守っているのは、今も変わらず菰野だった。


----------


ウィルは、ここしばらく、鬼の住む邸宅に軟禁されていた。

腕輪の使い方を学び、鍛錬し、村に出ては人々を殺害してゆく日々。

恐怖と罪悪感で、夜も眠れず、ろくに物も食べられず。

これまで、ウィルは鬼達からは妻子を邸宅に呼ぶよう何度も勧められたが、あれこれ理由をつけて何とか断っていた。

鬼の住む邸宅に呼んでしまえば、それこそ人質にされるだけだ。


しかし、離れていても、ウィルの自宅や領地はとっくに鬼の支配下で、今回のようにウィルが鬼の意に沿わない事をしてしまえば、妻子や屋敷の者に危害が及ぶだろう事は容易に想像がついた。


ウィルの話すところによると、鬼の親玉『カエン様』とやらは、遥か昔からこの土地に住み着いており、一部貴族達と長年癒着しているらしい。

ウィルの父もまた、そういった貴族の一人で、今回の鬼の企みに自身の三男を差し出したという事だ。


そのカエンという鬼は、20代半ばの風貌をした男にもかかわらず、ウィルが子供の頃に見た姿と、今も全く変わらない姿なのだそうだ、が……。

これについては、リルも実年齢より見た目が幼いので種族的な物なのかも知れない。と久居は思う。

久居には、前にクザン……見た目30代半ばのリルの父に、実年齢が76歳だと言われて驚いた記憶がある。

もっともクザンは『まあ俺はちょっと例外だからな、あんま参考にすんなよ。つか俺はまだまだ老けるぜ!! リリーと同じ時を生きるって決めたからな!』と、さらによく分からない事を言っていたが。


ともあれ、話を聞く限り、そのカエンとやらの力は土着のものであり、この一帯では絶大だが、他国に及ぶかというと難しいようだ。


それと、真偽のほどは不明だが、ウィルが祖父から聞いたという教えに『鬼に隠し事をする時は海で』というものがあるらしい。

もしかすると、あの鬼達が使う地面から出入りする術は、水面には無効なのかも知れない。

そんな事を推測する久居の前で、ウィルは、震える自身の両肩を抱き締めるようにして、不安を口にした。

「鬼達は、今この瞬間も、私の家へ向かっているかも知れない……」

ウィルにとって、それが一番恐ろしい事だった。


久居は、家族が心配でたまらないというウィルに、ここで休憩を申し入れるのは酷だろうか。と内心躊躇う。

顔にこそ出さないが、久居は先ほどの治癒で随分と疲弊していた。


「ん……」

黙考する久居の腕の中でリルが身じろぎする。

あれからほんの半刻、一時間ほどだったが、回復できたのだろうか。

「久居……おはよぅ?」

ゆっくりと瞼を持ち上げたリルは、久居の腕の中にいる事を気にする様子もなく、眠そうに目を瞬かせている。

「おはようございます、リル。と言ってもまだ夜中ですが」

久居はてっきり、リルは朝までぐっすりかと思っていたので、起きてもらえたのは心強かった。

久居はねむねむと目を擦るリルを膝に座らせる。

「あっ村の人は!?」

「皆、治しましたよ。もう大丈夫です」

リルの問いに、久居は人数は伏せて、なるべく優しく声をかけた。

「ありがとう久居、……疲れたよね? 休んだ方がいいんじゃない?」

心配そうなリルの言葉にウィルがハッとする。

(腕輪の力を借りるだけの自分でもこんなに疲労するのに、人を治すとなったらどれだけ大変なのだろうか。しかも、全身火傷で死にかけの人間を八人もだ……)

ウィルは改めて久居を見る。

(よく見れば、この青年は背こそ自分と同じくらいだが、まだかなり若い。娘と同じくらいではないだろうか……)

久居は鬼達と互角にやり合っていたが、鬼ではないと言われていたはずだ。と、思い出しながら、ウィルは尋ねる。

「久居君は……、人間なのか」

問われて久居は「はい」と答えたが、正直久居には自分が何者なのかよく分からなかった。

久居が譲原皇に口外を禁じられていた目の事は、クザンにはすぐ気付かれた。

『ん? お前、目ん中赤くね? 夜目効くだろ』

クザンが言うには『見ればわかる』そうだ。

リルも以前より久居の目を『奥が赤いのが不思議で好き』だと言っていたので、そういうものらしい。

『どっかで血が混じってんだろ。そう珍しくもねぇよ』

とクザンに気にする様子は無かったが、久居は自身が一体何との混ざり物なのか、その日からずっと気になっている。


「久居、おじさんと一緒に行くの?」

リルが膝の上から問う。

久居はウィルをリルへ紹介しつつ、空竜が彼を乗せてくれるかどうか、リルの意見を聞いてみる。

「うん、多分大丈夫じゃないかなぁ」

「そうですか、それでは……」

久居はウィルを見上げる。

「この先は空の旅になりますが、高いところは大丈夫ですか?」

「あ? ああ……」

ウィルがよく分からないままに頷く。

久居は、ひとまず高所が苦手でなくて良かったと、わずかに表情を弛めて、ウィルに依頼する。

「道案内を、お願いします」


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