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18話 灯火(前編)

夕方とはいえ、外にはまだ暑さが残る中、ひんやりと冷たい空気が漂う手入れの行き届いた石造りの屋敷。

小さな城と言っても良いような広さがある建物の、奥まった一室。


そこへ呼び出された三十歳ほどの痩せた男は、困惑の表情を浮かべていた。

男が目の前に差し出されたのは、金色をした二つの腕輪だった。

表面の彫刻以外は同じ材質、サイズに見える。

それは、サラが手に入れ、ラスが奪われた、陽と雪だった。

「カエン様……。これを、私はどうしたら……」


奥のソファには、蘇芳色の髪をした二十歳過ぎの男がゆったりと腰掛けていた。

今は、目立つ一本角も、尖った耳も隠しているようだ。

痩せた男の質問に、カエン様と呼ばれた男が簡潔に答える。

「つけてみなさい」

言われ、痩せた男が、ずっしりと重みのあるそれを、恐る恐る手に取る。

ひやりと冷たいそれに、ぞくりと背筋を冷たい汗がつたう。

つけるよう言われたものの、これは、誰でもが手にとって良いようなものではないのではないか? と痩せた男は本能的に悟る。

金属製であることは分かったが、それは今までに知るどの金属とも違う気がした。


躊躇う痩せた男に、蘇芳色の髪の男……カエンがもう一度声をかける。

「聞こえなかったかな? 両腕に一つずつはめてごらん」

優しげな言葉に、蔑みの色が混じっている。

すぐに指示に従わなくては、何をされるか分かったものではない。と、痩せた男の脳裏に妻や娘の顔が過ぎる。

恐怖に突き動かされるようにして、痩せた男がそれを両腕につけると、腕から全身に鳥肌が立った。


「よし、それでは、右腕の環からいこうか」

カエンは、何やら楽しげに、ソファに浅く腰掛け直した。

どうやら、男がこれからさせられる事は、彼の興味を惹くことのようだ。

それが男にとって良い事でないだろう予想はできていたが、かといって断る事は、男にはできなかった。

「その環に触れて、そうそう、そんな風に」

カエンの説明に合わせて、従者の二人が男の目の前、腕輪が乗せられていたテーブルに、なみなみと水の入った大きな陶器の器を置いた。

「その水を、温めようと念じてごらん」

カエンに言われるままに、男は左手で右腕の腕輪に触れたまま、そう念じてみる。

次の瞬間、体から腕輪の方へ、ザザッと血が流れて吸い込まれていくような感覚。同時に、目の前の器がゴトゴトと小さく揺れる。

中の水は一瞬で煮えたぎり、ふつふつと泡立ち、大量の湯気を立ち上らせていた。

(すごい……)

そう思った途端、男は全身を襲った疲労感に、その場に片膝を付いた。


「ふむ。何の訓練も無しに、この威力は悪くないが、これだけでそのザマでは困るね」

「……も、申し訳ありませんっ」

男は必死で立ち上がる。

疲労感こそ酷いが、男の体に不自由なところはなく、気力を振り絞れば何とか立ち上がる事はできた。

「次は左の腕輪を試してみよう」

言われて、男は右手を左腕の環に乗せる。

今度は、無様なところを見せぬよう、男はくまなく全身に力を込める。

「このお湯を、冷やそうとしてごらん」

カエンに言われるまま男が念じると、また身体中の力を吸い取られるような感覚の後、たまらない脱力感。

しかし、今度は分かっていたのでグッと堪える。

腕も足も震えてしまったが、男は何とか立っていられた。

男が内心ホッとした途端、お湯の入っていた器が割れ、飛散した。

飛び散るカケラのいくつかが、男へ向かう。

それに男も気付いたが、男の疲れ切った体はピクリとも動かなかった。

来たる痛みに身をすくめる男の横から、スッと手が伸びて、一度の動作で三つ程のカケラを受け止める。

いつの間にか、部屋に二人居たカエンの従者がそれぞれ、主人と男の前にいた。


安堵と同時に尻もちをついた男を、カエンは面白くもなさそうに一瞥してから、割れた器のあったところに残された、顔ほどもある氷の塊を拾い上げた。

「ふーん……」

カエンは、氷の塊をランプの光にかざして眺める。

「熱湯から一瞬で氷になるなんて、噂は大袈裟でも無かったようだね。ただ、もう少し加減できるようになってもらう必要はあるかな」

その言葉に、背の高い従者が雑に男の腕を引き、立ち上がらせる。

「君にはしばらく、この屋敷に通ってもらうよ。なんなら、離れを使ってもらっても構わない。家族でも使用人でも好きなだけ連れてきなさい」

カエンが、男を見て薄く微笑む。

痩せた男は、背筋に冷たいものを感じながらも、首の皮が繋がっている事に誰にともなく感謝をしながら「はい」と答えた。


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一方、リルと久居は空竜を森の中に隠して、カロッサの指定した村へと続く道を歩いていた。

「もうこれで何日だっけ?」

隣を歩くリルに聞かれて、久居がいつもと変わらぬ様子で答える。

「七日目ですね」

「今日も何もなかったら、カロッサのとこに一回帰る?」

「……」

すぐに答えない久居に、勝手に帰るのもダメなのかな? という顔でリルは小さく首を傾げる。

クリスに会ったときは、カロッサのところから発ってすぐだったのに対して、今回は、目的の相手に会えないまま一週間が過ぎようとしていた。

「戻るのは、その旨指示をいただいてからにしましょう」

そう言って「待つのも仕事のうちですよ」とリルを励ます久居だったが、探すべき相手の顔も名前も日時も分からないまま、場所のみの指定でこの辺りをうろつくこと七日目。内心焦りはあった。

(菰野様……)

この三年の間、久居の眼裏にはいつだって血溜まりに横たわる主人の姿がある。

一日も、一刻も早くその怪我を治療出来るよう、治癒術の特訓に久居はそれこそ全身全霊で取り組んだ。

甲斐あって、治癒の技術は身に付いたものの、肝心の凍結解除は自分の力だけではどうにもならない。


リルに気取られないよう、心の中で静かにため息をついて、久居が顔を上げた時、異変に気付いた。

リルの隣を歩いていた久居は、不意にリルの前に出て立ち止まる。

リルは、久居の背にぶつかり軽く跳ね返った。

「どうし……」

リルが聞き返すより早く、村の方向から来た熱風がブワッと勢いよく辺りを包んだ。

「うええ……あっつぃ……」

情けない声を出したリルが、人気がないのを良い事に、帽子を脱いでパタパタと扇ぎ出す。

だが、熱い空気が動いても暑さが増すだけらしく、諦めてかぶり直していた。

「これは、不自然です。リルは空竜のところに戻っていてください」

慎重に気配を探っていた久居が、それだけ告げると、足早に村へ向かおうとする。

「あっ、待っ……」

思わず上げた声に、久居がくるりと振り返り優しく告げる。

「相手は人かどうかも分かりませんから、安全なところにいてもらえますか?」

あまりに優しげなその表情に、リルは息を呑んだ。

(人かどうかもわからないんじゃ、久居だって危ないかも知れないのに……)

それなのに、彼がいつも一人で行こうとするのは、自分が頼りない……ううん。足手まといでしかないからだ。

その事実に、リルは胸が苦しくなる。


あの時……。クリスと久居を待っていたあの時。

リルの耳には、手の届かない場所で、久居が一人やられる音が届いていた。

リルはどうすることもできず、その心音が止まないことだけを、ただ祈っていた。


もう、あんな思いは……一人で何も出来ずに待つのは嫌だ。

役に立てるかはわからない。

それでも、一緒に行きたい。

我儘かも知れないけど。

久居を困らせるだけかも、知れないけど……。


「ーーっボクも行くよ!」


叫ぶようなリルの言葉に、久居がほんの一瞬驚いた顔をして、それから困ったような、辛そうな顔になった。

「だって……こないだの、鬼と戦った時、久居いっぱい怪我してた……」

「……」

久居は黙ってリルの言葉を受け止めている。

「もしかしたら、あの時久居は死んじゃってたかも知れないって、ボク、後から気付いたら、怖くなっ……て……」

ほろり。と大きな薄茶色の瞳から溢れたのは、涙だった。

「リル……」

リルの前まで戻ってきた久居が、リルの頭を抱き寄せる。

「ボク、役に立たないかも知れないけど、お荷物に……なっちゃうかもだけど、一緒に行きたい……」

「怖い思いを、させてしまうかも知れませんよ」

顔は見えなかったけれど、久居が本当に、心から自分を心配してくれているのがリルには分かった。

いや、ずっと前から、分かっていた。

「きっと、一緒に行くより、待ってる方が、ずっとずっと…………。ずっと、怖いよ」

リルは、あの時の恐怖を胸に、小さく震える声で伝える。

久居は腕の中の少年の顔をじっと見て、それから言った。

「分かりました。一緒に行きましょう」

尋常じゃない熱気の中で、汗を滲ませた久居がふわりと笑う。

その笑顔に、リルもつられて笑った。

細めた薄茶色の瞳から、溜まっていた涙が雫となって、ポロリと零れる。

久居は、首巻きの端でリルの顔を拭うと「急ぎますよ」と短く告げて駆け出す。

「うん!」

そのすぐ後ろを、今度はリルも走った。


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