「さ、今日はひとまずゆっくり休んで。こちらはまだ午前中だけど、あなた達の来た国ではもう夜中の時間よ」
お茶を空にしたリルに、カロッサは休息を勧める。
「くーちゃんの上では寝られなかったでしょ?」
「ボク寝てたよー」
リルは確かに、空竜の上でも熟睡していた。
その間、眠るリルを久居ずっと支えていた。
「明日は早速、朝から出発してもらうわよ。時差ボケ治しておいてね」
「時差ボケって何ー?」
カロッサが、リルのあまりの何も知らなさに若干引きつつもそれを説明する。
久居は考えていた。
理由は告げられないと言われた。
告げられないような理由で、自分たちは動くことになる。
けれど、それが唯一、菰野を救うため自分に出来ることならば、久居は物言わぬ駒にも喜んでなろうと覚悟をしていた。
それに、カロッサとその師は、あのクザンとリリーが信頼を寄せる人であるらしい。そう酷い事はさせられないだろう。
久居の脳裏に、クザンが懐かしそうに目を細めていた様が浮かぶ。
『じーさん、元気にしてんのかなぁ……』
亡くなられたというその老人を、彼は大切に思っていたようだった。
「あの……ヨロリ様はお手紙をくださってすぐに……?」
久居の質問に、カロッサはほんの少しだけ寂しそうな顔で答えた。
「ええ、くーちゃんがあなた達のところへ行った時には、もう亡くなっていたわ。……あの手紙は、その前に書いておいた物だったの」
申し訳なさそうに、どこか痛みを堪えるように、カロッサは微笑んだ。
「リリー達には知らせていなくてごめんなさいね。
久居は、この話は尋ねても良いようだと判断し、続ける。
「リリー様も、ヨロリ様の事を師と仰っていましたが、お二人は……」
カロッサが、紫の瞳に懐かしさを浮かべながら答える。
「リリーはここで、結界の張り方なんかを勉強してたのよ。……そこへ、クザンが転がり込んで来てね」
カロッサはクスッと笑うと、柔らかな曲線のツリ目が悪戯っぽい表情を作る。
「いい歳した男が、父親と喧嘩して家出だなんて言うのよ? 笑っちゃうでしょ」
あの頃、カロッサとリリーが毎日修行を積んでいたこの家に、クザンは前触れもなく転がり込んできた。
カロッサはもう戻らない日々に想いを馳せる。
雑な性格のクザンは、精密なコントロールを必要とする修行の最中でも、勢いよく戸を開けて皆を驚かせていたっけ。
あの時もそうだった。
あれはいつ頃だったのか、クザンが花を一輪くれたことがあった。
湖畔にたくさん咲いていた花だったが、親も兄弟もなく、ヨロリに拾われて以降ずっとこの家で修行を続けていたカロッサには、それが生まれて初めて、異性からもらったプレゼントだった。
カロッサはその時の気持ちを、いまだ忘れられずに抱えている。
初めて、人として、認められたような思いだった。
まあ、当のクザンからすれば、オマケのようなものだったわけだが。
カロッサが、真っ赤になってしまった顔を何とか落ち着かせて振り返れば、クザンはヨロリに二本。リリーには抱え切れないほどの花を捧げていた。
クザンは、家出してきただけあって、短気で子供っぽいところがあったが、明るいお日様のような笑顔の彼に、老人と少女だけで静かに暮らしていたあの家は、良くも悪くも華やいだ。
「修練の邪魔はするわ、タダ飯は食べまくるわ、クザンには振り回されてばっかりだったけど」
カロッサはゆっくりと目を閉じて、続けた。
「あの頃が一番楽しかったわ……」
久居は、カロッサの横顔に、うっかり彼女の気持ちまで透けて見えてしまったようで、どこか後ろめたく思う。
ゴン!
と大きな音に隣をみれば、いつの間にか船を漕いでいたらしいリルが机に頭突きをしていた。
「リル!?」
「キュィィ」と、そんなリルに抱かれたままの空竜が、脱出できずにジタバタもがいている。
「すみません、お話の途中で……」
久居が、リルの腕から空竜を解放する。
「いいえ。疲れが出ちゃったかしら」
カロッサはクスッと笑うと、廊下の階段を指して言う。
「二階の突きあたりの部屋を使ってちょうだい」
「ありがとうございます」
久居は慣れた様子でリルを横抱きに抱き上げると、頭を下げた。
「あなたもしっかり休んでね」
「はい、お先に失礼致します」
申し訳なさそうに去る、黒髪の青年の後ろ姿を眺めながら、カロッサは思わずにはいられなかった。
(あれが、クザンとリリーの息子ねぇ……)
御師匠様は、二人に任せれば安心だと仰ったけれど。
頼みのリル君はあんな調子だし、もう一人は、しっかりはしてるけど、普通の人間だし……。
カロッサは思わず小さくため息を吐いた。
(本当に……、大丈夫かしら……)
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カロッサ達の家から遠く離れた、大きな街の一角に、大きな屋敷があった。
いくつもの部屋がある屋敷の、奥まった部屋に、それは置かれていた。
薄暗い部屋の中、ランプの光を浴びて煌めきを返すその腕輪は、先ほどリル達が見た紙に描かれていた腕輪、そのものだった。
「へぇ……、これが四環ねぇ……」
一人の青年が、その腕輪を手に取る。
明るい金の髪に青い目をした青年は、顔の前へ腕輪を持ち上げ、まじまじと眺めた。
「ただの腕輪に見えるけどなぁ」
腕輪は、二つのパーツを極小の蝶番のようなもので繋いで一つにしているらしく、青年が触ると、腕輪はパキンと軽い音を立てて開いた。
青年は、そっと辺りを窺う。
人の気配はない。
青年は、期待の裏に不安を抱えながらも、そこへ自分の手首を添えてみようとした。
「何をしている」
突然かけられた言葉に、青年は飛び跳ねんばかりに驚いた。
「え、いや、何も……?」
思わず、手に持っていた腕輪を背に隠す。
突然現れたのは、青年より頭一つ分以上背の低い、男……というよりも、少年に近い体格をしていた。
フードを目深に被った少年は、精一杯低い声で告げる。
「勝手な真似はするなよ」
それだけを告げると、少年は返事を待たずに部屋を出て行く。
青年は、少年の姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、やっと息を吐いた。
(……チビのくせに、偉そうに……)
腕輪を、仕方なく元の場所に戻しながら、青年は思う。
(今に見ていろ。残りの腕輪を全部集めれば、お前は用済みだからな)
雲の模様が描かれた金色の腕輪は、静かに光を返し、煌めいた。