「フリーさん、走れますか!?」
「大丈夫ですっ」
久居とフリーは櫓を出て、山へ向かって走っていた。
フリーの手首や足首には、拘束の跡がくっきり残っていたが、動かすことに支障はないようで久居はホッとする。
「……菰野……」
フリーの不安げな呟きに、久居が
「菰野様でしたら、すぐ……」
と言い始めたところで、フリーの耳が小さく跳ねる。
「あっ、出てきた!」
その言葉に、久居もホッとする。
「あれ、もうひとつ足音が近付いて……」
続くフリーの言葉に、兵がもう向かってきたのかと従者は警戒を強めたが
「これは……リルの足音!?」
とフリーが断定する頃には、遠く向こうの方から小柄な少年の姿が見え始めた。
「フリーっ、久居ーっ」
ぶんぶんと手を振って駆け寄ってくる少年に、二人は驚く。
「フリーっ!!」
喜びをいっぱいに浮かべて、弟は姉に飛びついた。
「リル!!」
「無事だったんだね!」
嬉しそうな笑顔に、けれどホッとしたのか涙が溢れている。
そんなリルに、久居が嗜めるように言う。
「リル、何故こんなところまで……」
久居はハッと目を見開いた。
「周囲は兵達に囲まれていたのでは!?」
「あ、うん」
リルは頭に巻き付けた久居の首巻きの隙間から、耳を出しピコピコと動かして見せる。
「いっぱい人がいたけど、みんなじっとしてたから、人の居ないとこを、そーっと通り抜けて来たよー」
「なるほど……その耳で、帰りもお願いしていいですか?」
久居はその能力に感嘆しつつ、リルに助力を求めた。
「うんっ!」
リルが「えへへー、役に立ったー♪」と嬉しそうに花を散らしていると、久居の背に声がかかる。
「久居!」
菰野が、息を切らして皆に追いついた。
「どうした、何かあったのか!? 早くしないと葛兄様が……」
菰野は一人増えていることに驚きの声をあげる。
「って、リル君!?」
叫んだ拍子に、左肩を激痛が走る。
「ーーっ……!!」
思わず傷口を押さえた菰野に、久居とフリーが焦る。
「菰野様」
「菰野っ」
「大丈夫だ……」
冷や汗を浮かべながらも、そう答える菰野に、リルが謝った。
「コモノサマ……、約束破っちゃってごめんなさい……」
そこへ、城の全てに聞こえるような、甲高い笛の音が響く。
菰野と久居は反射的に振り返った。
「ついに兵が出るか……」
菰野は呟く。もうこの城には、二度と戻ってこれないだろう。
けれど、とにかく今は、ここにいる者全てを安全な場所まで誘導しなくては。
「リル君、来てしまったものを言っても仕方ないさ。フリーさんが心配だったんだろう?」
菰野が小さく微笑む。
「う、うん……」
「さあ行くぞ、みんな!」
声をかけて、菰野が駆け出す。
「うんっ」
「はいっ」
すぐに久居とフリーが後を追う。
(コモノサマって、やっぱりなんかすごい……)
リルが菰野に圧倒されていると、フリーの叱咤が飛ぶ。
「こらーーっ、リル、置いてくわよーっ!!」
「まってーっ」
リルは慌てて後を追った。
先頭を走る菰野は、誰にも顔を見られない今のうちに、ほんの少しだけ心の内で城へ別れを告げる。
(母様……)
誰に後ろ指を指されても、菰野のために城に残り続けてくれた、いつも明るく聡明な母……。
(父様……)
叔父という立場から、いつも優しく温かく見守ってくださった、本当の父……。
(城の皆……、今までありがとう……)
小柚にも、もう会うことは、きっと無いだろう。
こんな自分を義兄と慕ってくれた、可愛い弟……。
そして、自分を本当の弟のように……、いや、それ以上に可愛がってくれた、優しかった兄……。
「あっ、こっちから人がいっぱい来てるよ」
「ではこちらへ」
「あ、向こうからもいっぱい来た……」
「そちらへ回りましょう」
リルの耳が伝える情報を元に、城内を知り尽くした久居の判断で、四人は一人の兵にも出会うことなく城壁の外へと出る。
「うわあぁぁ、とうとう囲まれちゃったよ……」
「ここまで来れれば十分ですよ、一気に山まで走りましょう」
久居の声に励まされるように、全員山を目指して走る。
「わっ」
リルが躓いて、派手にビタンと地面に叩きつけられた。
「リルっ!」
久居が駆け戻り手を差し伸べる。
「いたい……」
鼻の頭と頬に土を付けたリルが、半ベソの顔をあげる。
倒れた衝撃でか、リルの首の封印石は背中側に回ってきていた。
「立てますか?」
「うん……」
「行きますよ」
久居がリルの肩を支えて抱き起こす。
二人は、少し先で心配そうに振り返っている菰野とフリーを目指して走った。
倒れた時に擦ったのか、リルの首へ紺色の石を止めていた紐はいつの間にか切れていて、封印石は少年からするりと抜け落ちる。
石が地面に落ちた小さな音は、懸命に走る四人の足音に掻き消された。
「くそっ、矢を放て!」
兵を率いて菰野達を追う葛原の声は、最早リルにしか聞こえないほどに離れていた。
「無理です! 届きません!!」
葛原達の目に、菰野達の姿は米粒よりも小さく見えている。
菰野達は加野の墓の脇を通り過ぎ、葛原達の目の前で山へと姿を消した。
(山に逃げ込まれたか……)
葛原は小さく舌打ちし、叫ぶ。
「我々も行くぞ!!」
その言葉に、兵達は大きくどよめいた。
コン、と小さく足で何かを弾いた感触がして、葵は足元に落ちている小さな石を拾い上げる。
(これは……?)
紐に繋がったそれは、シンプルではあったが装飾品のようだった。
「この私に付いて来れないと言うのか?」
葛原の言葉に、兵達が口籠もる。
「けれど……」
「いえ……ただあの山は……」
「呪いがかかっていると言われていて……」
おずおずと申し上げたのは、丁度、菰野達に行き先を尋ねられた兵達だった。
「そんな物、迷信に決まっているだろう」
「は……はぁ……」
葛原に顰めっ面で言い切られて、兵達は従う他ない。
「葵、道を案内しろ」
「はい」
声をかけられて、葵は手の中の石を懐へと仕舞った。
ぞろぞろと、葛原の率いる兵達が山へ入ってしばらくした頃、四人はようやく安全圏内の、少し開けた場所へと辿り着いた。
怪我もあってか疲れの色濃い菰野は、木の幹へ背を預け、そのままズルズルと根元に腰を下ろす。
「はぁ……」
吐く息が、いつもより熱い気がする。
動く度に痛む傷を庇うように、右手で肩を押さえてはいたが、じわじわと続く出血が止まる気配はなかった。
「ここまで来ればひとまず安心ですね」
辺りを見回していた久居が、主人の左側に膝を付く。
「すぐ手当てをいたします」
「ああ、すまないな」
久居は、主人の肩を覗き込んだ。
傷は、そう深くはないものの、服と肉が浅く広範囲にざっくりと切り裂かれていた。
(私が……不甲斐ないばかりに、菰野様にこんな傷を……)
久居は、数々の自身の失敗を悔いながら、その傷を胸に刻む。
二度と、この方にこのような傷を付ける事の無いように、と。
自身を戒める久居の向こうで、へたり込んでいたフリーが、声をかけて、えいやと立ち上がる。
「私、家から薬と包帯とってくるね」
フリーも今日一日のごたごたで、かなり疲れてはいたが、菰野のためにと駆け出す。
そんなフリーにリルが声をかけようとした時、茂みから唐突に姿を現したのは、フリーのよく知る人物だった。
「お母さん!?」
フリーの声に、全員がそちらを振り返る。
リルは耳で分かっていたのか、にこにこしている。
「二人とも、帰りがあんまり遅いから、迎えにきちゃったわ」
リリーは、いつものようにふわりと微笑んだ。
「はい、これ救急箱よ」
差し出される箱を、フリーが受け取る。
薄暗くなってきた中、母はランタンも二つ持っていた。
「お腹も空いたでしょう。お弁当も作ったから、後で持ってくるわね。一度に運びきれなくて……」
「え……でも、何で……」
ぽかんと母を見上げるフリーの後ろで、リルは『お弁当』の言葉にはしゃいでいる。外したばかりの久居の首巻きがリルの手でバサバサと振り回されていた。
「あなた達の親だもの、分かるわよ」
リリーはそう言って、フリーに小さく笑ってみせると、リルへ木製のバケツを差し出す。
「さ、リルはこれに水を……あら?」
そこで、母は一度言葉を切った。
「リル、首の石はどうしたの?」
「ほぇ?」
尋ねられて、ようやくリルは気が付いた。
自分の首に、何もかかっていない事に。
「うわぁぁぁああぁっ無いよぅぅうううぅ!?」
手に握ったままの首巻きごと頭を抱えるリルを、リリーがひとまず宥めようとする。
そこへ、菰野が丁寧に名乗りつつ近付いた。
「申し訳ありません」
菰野はリリーの足元へと跪いて謝罪する。
「皆さんにご迷惑をおかけしてしまい……」
「あらあら……」
リリーは菰野の態度に苦笑を返すと、視線を合わせるように屈んだ。
触角がしょんぼりと揺れて、菰野の方へと下がる。
「怪我人は安静にしていてちょうだい。あの子達の事は、あなたの責任じゃないわ」
理由や経緯を尋ねるどころか、彼等からすれば異質なはずの人間に対して、リルとフリーの母は不自然なほどに寛容な態度を示した。
「そんな……」
幾らかの罵倒を覚悟していた菰野が、あまりに何も言われない事に戸惑う。
「痛そうね……、私が治してあげられればよかったのだけれど」
リリーはそんな彼の心を知ってか知らずか、菰野の肩にそっと手を触れると、その傷の心配をした。
「え?」
「こういうのは夫が得意なのよ」
彼女の言葉に疑問はあったが、それでも菰野は頭を下げる。
「その……」
「もう気にしないでちょうだい」
せめて多少は、謝罪や状況説明をと気遣う菰野を、リリーが静かに止める。
「私も、あなたも、あの子達も……、みんな平等に世界に巻き込まれているのだから……」
その言葉に、久居が引っ掛かりを感じる。
(世界……に、巻き込まれている……?)
こんな場面で、そんな言葉を使うだろうか。
確かに、彼等と自分達では文化が違う。そのため、そういった言い回しが通常でないとは言い切れなかったが、それでも、しばらくリルと会話をしていた限りでは、そんな物は耳にした事がなかった。