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7話 遺失(4/9)

その日、寝台で苦しげな咳を繰り返していたのは、久居だった。


髪はようやく括れるほどに伸びてはいたが、寝巻きらしい真っ白な服を一枚だけ纏っている久居は、髪を括ってはいなかった。


口元を手で覆う久居が、激しく咳き込む。

寒気が全身を襲い、肺は焼けるように熱く痛む。

咳とともに上がってくる胃液もまた、久居の内側をじわりと溶かしていた。

「久居っ」

汗に濡れ、荒い息を必死で整える久居に、焦りと不安の滲む声が届く。

「辛いか……?」

寝台の脇から、菰野は、声変わり前の子どもらしい声で尋ねた。

大きな栗色の瞳が久居を見つめている。

「大丈夫です……、ただの風邪ですよ」

息が詰まりそうになる中、久居は何とか答えた。

「風邪……?」

「うつるといけませんから……、菰野様は……お部屋へお戻りください」

「……」

久居の息は今も苦しげで、それでも菰野を気遣う言葉に、菰野はしばらく黙っていたが、怒ったような顰めっ面からボソッと小さくこぼされたのは、拒否の言葉だった。

「……いやだ」

「ええと……ではせめて……、もう少し離れて……」

久居が、ヒューヒューと呼吸音を立てながらも、青い顔で声を絞り出す。

「いやだっ!!」

菰野は叫ぶと、ガバッと布団ごと久居の足にしがみついた。

「菰野様……」

久居は菰野へと手を伸ばそうとして、その小さな主人が震えていることに気付いた。

「夕方まで、久居は元気だったのに……」

ぎゅううううと力を込めて、自身の足へ縋り付いてくる主人は、ぎゅっと閉じた目尻に涙を滲ませている。

「母様も、前夜までいつもと同じだったのに……」

震えるような声の小さな呟きは、その少年の不安と底知れぬ恐怖を伝えていた。

(菰野様……)

久居は高熱に震える手で、その柔らかな栗色の髪を撫でる。

ふわりと髪を撫でられて、菰野は慌てて顔を上げる。

期待を滲ませる菰野に、久居は観念した。

「分かりました……。菰野様の……お好きになさって、ください……」

そのかわり、手洗いうがいをしっかりするようにと久居が伝えると、少年は

「ああ、任せておけ!!」

と満面の笑みを浮かべた。

同室を許され、嬉しそうに久居の布団に顔を埋める小さな主人を前に、久居は内心ため息を吐く。

(しかし困りましたね……。菰野様がいらっしゃっては、葵さんからの報告を聞くことが……)

ちらと見上げた自室の天井は、そのうちの一枚がほんの少しずれていて、そこから葵がのぞいているだろう事がうかがえた。


(久居様……!!)

天井裏の葵は、酷く焦っていた。

(毒が体内に入って一刻内に、この解毒剤を飲んでいただかなければ……、肺がやられて久居様は……)

葵が、その手に握った薬瓶を強く握りしめる。

(せめて、この薬だけでも渡す隙があれば……)

祈るような気持ちで、葵は見えない目を閉じる。

部屋からは、久居がまた咳をする音が聞こえて来た。


痰の絡んだような湿った咳が何度か続いて、ごぼりと何かが溢れる音がした。

両手で口元を覆っていた久居は、心配そうに覗き込んでくる菰野の目を避けるように、体を捻って背を向ける。

そろりと手元を開くと、そこには鮮血が広がっていた。

(これは……)

「どうした?」

心配そうな菰野の声に、久居はもう一度、手で口元を隠した。

「いえ、痰が……」

「何か……俺に出来ることはないか? 何でもいいぞ」

栗色の瞳が、縋るように久居を見ている。

久居に何かしてやりたくて仕方ない様子の菰野に、久居は頼み事をすることにした。

「それでは……お言葉に、甘えて……、ひとつ……お願いを……」

「何だ!? 言ってみろ!」

やる気に溢れた菰野が勢いよく立ち上がる。

「水と、手ぬぐいを……持ってきて……、くださいますか……?」

襲い来る痛みと咳を堪えて、久居は言葉を絞り出す。

「よし分かった、水と手ぬぐいだな!? すぐ取って来てやる!」

菰野は宣言すると、部屋を飛び出した。


途端、久居の隣に音もなく人影が現れる。

「葵さん」

葵は素早く、布巾で久居の血塗れの手を拭き取った。

「久居様、解毒薬です、すぐ飲んでください」

握り締めていた小瓶を、久居の手にしかと握らせる。

「菰野様が……すぐに戻られ……」

「分かっています、とにかくそれを飲んでください」

葵は久居の口を半ば強引に布巾で塞ぐ。

「詳しい話はまた後ほどに」

口元の血痕を拭き取ると、葵はまた音もなく天井裏へと姿を消す。

「あ、ありがとう……ございます……」


そこへ、バタンと扉を開けて、菰野が戻る。

「持ってきたぞ!」

「お、お早い、お帰り……ですね」

「だろう!?」

菰野は栗色の髪を揺らして、得意げに笑った。

「ほら、水と手ぬぐいだ」

「ありがとう……ございます」

小さな桶と手ぬぐいを受け取ろうとした久居の、片手が塞がっていることに菰野が気付く。

「なんだそれは? 薬瓶か?」

「風邪に効く……お薬だそうです……」

「薬師が作ったのか? そんな物を持っているなら、早く飲んでしまえ」

「はい」

菰野に勧められ、久居はその蓋を開ける。

瓶から漂うムワッとした異臭に、菰野が小さく顔を引き攣らせた。

「……苦そうだな」

「そうですね」

久居はこの頃既に、度重なる毒の摂取と、その対策としての毒耐性訓練により味覚をほぼ失っていた。

そのため、薬を飲む事は辛くなかったが、まだそれを知らない菰野の手前、苦そうな顔をしておいた。


----------



それから一刻ほど後。


久居は寝台から静かに身を起こした。

(少し、楽になってきましたね……)

横になっていた間に乱れた髪を、手櫛で後ろへ撫で付けながら、自身の足元で穏やかな寝息を立てている主人の様子を窺う。

(菰野様はぐっすりですか)

久居は、小さな主人の小さな背にそっと布をかけると、天井裏へと視線を投げた。

(葵さん、お待たせしました)

こちらに気付いた気配に小さく頷きを返すと、そっと部屋を出る。


外の景色は、いつの間にかすっかり夜になっていた。

月明かりの差し込む渡り廊下の陰で、二人は誰にも聞かれぬよう注意を払いつつ会話していた。

「では、今回の毒は例の物と……」

久居の問いに、葵が答える。

「同じ物だろうと仰っていました」

「そうですか……」

「ここ最近に城へ入った物である可能性は、極めて低いです」

葵の言葉に、久居は思案する。

(つまり、加野様殺害の際に使った物の残り……。同一人物という事ですか)

久居は反省を込めて今日の出来事を振り返った。

(やはり、菰野様が昼にあの山へ入りかけてしまった事が、今回の使用のきっかけになったのでしょうか……)

念の為、自分の食事を菰野の物と換えておいたことに関してだけは、正解だったと言えるだろう。

(加野様と同じように、菰野様をも妖精に呪い殺された事にしてしまうつもりなのですね……)

考えながら、久居はふと疑問を口にする。

「そういえば、葵さんは例の件をご存知で……?」

「いえ……お伺いした通りにお伝えしているだけで……」

「そうですか……」

久居は少しだけ残念に思う。

(まだしばらくは相談できる相手もいませんね……)

葵はそんな久居に気付いてか、深く頭を下げる。

「すみません……、お役に立てず……」

久居は、まだ熱の残る身体に柔らかい空気を滲ませて、微笑んだ。

「いいえ。葵さんには、いつも、とても助けられていますよ」

久居は、菰野のために奔走してくれるこの隠密を、実際心強く思っていた。

何も知らずとも、それでも、自分達を気遣ってくれる味方がいるという事は、一人じゃないと思える事は、この頃の久居にとって大きな支えだった。



そんな久居の心に、葵もまた、応えたいと願っていた。


譲原の元で、久居と共に力を合わせて、菰野の身を守る。

それは、葵にとって使命と思える程に大切な仕事だった。




……それなのに、今。


葵は、久居の両手を押さえ、その身を拘束していた。

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