それから数日後の、静かな静かな森の中。
「ってねー、フリーが怒るんだよー? 本当の事言っただけなのに……」
リルが、その時の事を、納得のいかない様子で訴えている。
「そうですか……」
話を聞いていた久居は、フリーが何に心を痛めたのかが理解できた。
(それは、おそらく……)
考えつつも、久居が後ろ手で自身の髪を括り終えると、リルがぱあっと破顔する。
「できた!?」
その期待に満ち満ちた表情に、久居は少し照れながらもそれを披露した。
「はい、一応できましたが……、こんな感じで良いのでしょうか……」
久居の髪は、いつものように後ろの高い位置でひとつにまとめられていたが、よく見れば、リルが丁寧に編んでいた長い飾り紐で括られている。
紐の端には小さなガラスビーズが二つずつ通っていたが、目立つほどの物ではなかった。
一応、久居が城勤めの最中でも身につけていられるよう、リルなりに考えての事だったようだ。
「装飾品など初めてなもので、よく分からないのですが……」
「久居、とっても似合ってるよっ!」
リルの嬉しそうな声に、久居の胸は締め付けられる。
「ありがとうございます……リル……。……一生大切にしますね……」
「え? それはちょっと大袈裟な気が……」
久居が、口の中で小さく小さく付け足した言葉は、リルには十分聞こえてしまったらしい。
リルの胸元では、濃紺色の石が揺れてキラリと光を返す。
久居はほんの少し躊躇ってから、口を開いた。
「リル……」
「うん?」
もうここへは二度と来ないと、今日、彼に伝えるならば、これは今伝えなければならないはずだ。
そう自身を説得して、久居は切り出す。
「リルの周りの方が黙っている事を、私が言うのもどうかと思ったのですが……」
久居の言葉は、リルへと静かに降り注ぐ。
「その石は、これからずっとリルの物なのですから、その代償が何であったのか、知っておくべきではないでしょうか……」
「うん……?」
リルは、胸元に下がっている石を手に取る。
どこにも角の無い、ぺたんとした石。
「おそらく……の話ですが、その石はお母様の髪と引き換えに手に入れたもので……」
そこではじめて、リルの顔色が変わる。
「フリーさんはその事に気付いていたようですね……」
リルは手の中に収まるひんやりとした石を握りしめる。
その石は、リルの手にしっくり馴染んだ。
「そ……そう……なの……?」
俯くリルに、久居は目を伏せて「おそらく……」と答える。
「え……じゃあ、ボクの封具を作らなければ……お母さんの髪は、今も長いままだったんだね……」
しゅん……と凹んでしまったきり顔を上げないリルに、久居が責任を感じて、おずおずと手を伸ばす。
初めて会った頃よりも、少し伸びてきたリルの後ろ髪は、襟を通り越し、肩へとかかっている。
途端、リルは勢い良く顔を上げた。
「わかった!!」
その勢いに驚き顔の久居を置いて、リルはグッと拳を掴む。
「ボクも! 髪伸ばす!!」
「……いえ、そういうわけでは……」
「この辺が! チクチクして痒いけど! 我慢するっ!!」
「いや、それは……」
久居は、話が微妙にずれている事に気付きながらも、突っ込んでしまう。
「括ってしまえば良いのでは……?」
「え?」
そんなわけで、久居はリルの背後で、その髪を結っていた。
「櫛まで持ってるって、すごいねー」
「側付きは、身嗜みを整えることも仕事の内ですからね」
久居は、指一本分ほどの横幅の小さな櫛でリルの髪をまとめながら、自身にはない小さなツノを前に躊躇う。
「角には触覚があるんでしょうか……? 触れても良いものなのかどうか……」
そんな久居に、リルは「ないよー。触って大丈夫ー」とのんきに答えながら「久居の髪はいつもつやつやだもんね」と続ける。
「ああ、これは椿油を塗っているのです」
「え、そうなの? 久居は元々ツヤツヤなんだと思ってた」
「私の髪は、光を反射しない性質なので……」
答えながら、久居は紐を引き絞った。
「はい、できましたよ」
ふわりと囁くような言葉とともに、久居は小さな鏡を袂から出すとリルに差し出した。
「わぁーーーっ!!」
リルは、くるくると向きを変えながら、自身の後ろで揺れる小さな尻尾を右へ左へと揺らして喜んでいる。
「久居とお揃いだーっ。わーいわーいっ」
ふわふわと花を振りまくリルに、久居が申し訳なさそうに謝る。
「紐が私のお古で申し訳ないですが……」
「ううんっ、嬉しいよっ!」
久居を見上げるリルの、心の底から幸せそうなその笑顔に、久居は伝えるべき言葉を飲み込んでしまう。
(リル……。今日こそ、もう二度とここへは来ないと告げねばならないのに……)
久居は、拳を握り締めた。
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菰野の前には、ぐしゃぐしゃに絡まった紐にガラス玉がいくつか括り付けられたような物が、広げられた布の中央に乗せられ、差し出されていた。
「え……これ……本当にもらっていいの?」
「う……うん……」
ぼろぐしゃっとしたそれを前に、フリーが改めて思う。
(やっぱり……迷惑だったかなぁ……)
正直、これは、私でも欲しくないな……。と自身の作ったそれをフリーが布で覆おうかと思った時、菰野がそれを手に取った。
「あ」
菰野は、帯飾りをそっと引き寄せて尋ねる。
「着けてみてもいいかな?」
「う、うん。着けられるものなら……」
フリーが思わずそう返すと、菰野は丁寧に帯の間にそれを挿し入れた。
菰野をイメージして選ばれた緑を基調にしたガラス玉達が、陽を浴びてキラキラと輝く。
新緑のような淡く瑞々しい緑、深い森を思わせる思慮深い緑。
それはどちらもが、フリーの思う菰野の色だった。
所々に添えられた、琥珀のようなこっくりとした茶色の小さな玉も、菰野の栗色の髪によく似合う。
「わぁ、素敵だね」
言われて、フリーがようやく俯いていた顔を上げる。
そんなまさか。という表情で。
「え……?」
「ありがとう。嬉しいよ、とっても」
ふわりと微笑む菰野の周囲は、空気までもが煌めくように揺れている。
「ほ、本当……に……?」
フリーは、どこか疑わしげにその顔を見てしまうが、
「うんっ」
と菰野がにっこり笑うのを見て、ようやく本当に受け取ってもらえたのだと知る。
途端に、フリーの頬が熱くなってくる。
耳まで赤くなりそうなそれを、止められないままに、フリーは目を細めて答える。
「……私も、嬉しい!」
弾む声に合わせて、サラリと明るい金の髪が揺れる。
鮮やかに染まった頬に、喜びに綻んだ唇。
ゆるりと緩んだ金色の瞳には、吸い込まれそうな煌めきがあった。
菰野は、目の前でほんの少しだけ花開いた少女に、思わず見惚れてしまう。
(……可愛い……)
少女につられるように、少年の頬が熱くなってゆく。
二人は、静かな静かな森の中で、お互い黙ったまま、赤い顔を伏せた。
菰野は、帯に飾られた手編みの飾りを指先ですくう。
歪な編み目や、千切れた紐の跡に、悪戦苦闘の痕跡が残っている。
そこから菰野には、この少女が自分のために苦心した様が容易に想像できた。
「なんか……この一ヶ月はすごく長く感じてたんだ……」
先に口を開いたのは、菰野だった。
囁きのような声に、フリーも柔らかい声で応える。
「うん、私も……。でも」
フリーは、俯いていた顔をゆっくりあげる。
頬の紅潮は落ち着きつつあったが、ほのかに残った朱色が、いつも活発な少女に少しの繊細さを残している。
「これからはまた、いっぱい会えるね」
期待を込めた金色の眼差しに見上げられて、菰野も微笑みで応じる。
「うん。会えるね」
「よかった……」
フリーのほっとしたような表情に、菰野もまた、安らぎを感じる。
二人は見つめ合うと、もう一度微笑みを交わす。
ここで相手と会うことが、自分のためだけでなく、相手のためにもなっている。
そう思えるこの時は、何物にも代え難いと、二人は感じていた。