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5話 束の間(1/5)

その森は、今日も耳が痛いくらいに静まり返っていた。

生き物の気配の無いそこは、こんな風に風のない日には木々の揺れる音もなく、自身の草を踏み分ける音と、衣擦れの音、呼吸と心臓の音までもがはっきり聞こえた。


菰野は、木々の隙間から陽の位置を見る。

太陽は真上に近く、彼女との待ち合わせにはまだ早かった。


(ここは、本当に静かだ……)


菰野は倒木の幹にもたれるように座り込むと、自身の膝を抱き抱えた。


(昨日までの事が、全て……。

 夢だったんじゃないかと、思えるほどに……)


----------


窓の外をチラチラ見ていたフリーが、布を手に、やおら立ち上がる。

「お母さーん。私、散歩してくるねー」

声をかけられ、リリーが振り返った。

「はいはい。気を付けてね」

「明日はビーズ買いに行こうねっ」

リルも気付いて、玄関に向かうフリーをリリーと共に見送る。

「行ってきまーすっ」

「あんまり遅くならないようにね」

ウキウキと楽しそうなその背に、リルも「いってらっしゃーい」と声をかけた。


(いつも、あの布持って行くなぁ……)

と、リルが窓から遠ざかるフリーの背を眺めていると、リリーが声をかける。

「リルも行くんでしょ?」

「うん、もうちょっとしたら出るー」

問われて、少年は笑顔で答えた。

そんなリルを、母はじっと見る。

リルはフリーと同じように、生き生きと瞳を輝かせていた。

「そして、毎回フリーよりちょっと早く帰ってくるのよね……」

「フ、フリーには内緒だよっ?」

慌てる様子のリルに、リリーは細い眉を少しだけ寄せると、苦笑を浮かべて答えた。

「はいはい……。危ないことしないのよ?」

「はーいっ」


素直に答えるリルには『危ないこと』など微塵もするつもりがない。

それを感じ取って、リリーは何とも言えない気持ちになった。


----------


フリーは流れる小川に自身の背を映しながら「うーん……」と呟く。

「羽、大分伸びてきちゃったなぁ……」

川には、羽が隠れるように、服と肌の間に布を挟み入れた自身の姿が映っていた。

「そろそろ布だけじゃ誤魔化せないかも……。小さめに切る方がいいかなぁ? でも男の子っぽいのも嫌なんだよねー……」

呟きながらも、フリーは菰野との待ち合わせ場所へと向かう。

触角も後ろ側で髪と共にリボンで纏められていたが、耳はやはり髪こそ前に出してあるものの、そのままだった。

どうやら、まだ髪だけでは隠し切れていないことに気付いていないようだ。

「あ、リルにフード付きのケープ借りたらいいかも? あれなら羽のスリットも入ってないし……」

茂みを抜けると、少し視界が開ける。

待ち合わせ場所である倒木の向こうに、優しい栗色の髪がのぞいていた。

(あ、菰野もう来てる。私の方が早いかと思ったのに……)

フリーは、結局家で待ちきれず、約束の時間よりも早く来ていた。

「早かったね、菰野。お待た…………せ……!?」

菰野は、膝を抱え込んだ姿勢のまま眠っていた。


フリーは菰野を見つめる。

菰野は、疲れ切った顔をしていた。

よく見れば、目の下にはクマのようなものまで浮かんでいる。

眉もじわりと苦しげに寄せられており、普段の柔らかい印象とはまるで違う様子の少年に、フリーは思わず息を詰めた。


(起きるまで待ってようっと……)

とても起こせそうにない寝顔に、フリーは会話を諦めると隣に座った。

「……ーーっ」

ほんの少し、掠れた声のようなものが聞こえてた気がして、フリーはもう一度菰野を見る。


菰野の閉じられた瞼の隙間から、涙が一雫、静かに零れた。

(涙……)

音もなく、ゆっくりと頬を伝うその一粒を、フリーは思わず指で拭う。

(菰野……何があったの……?)


少年の肌は、思うよりずっと柔らかかった。

それ以上涙が溢れてこない様子に、フリーはホッとする。


と、一瞬遅れて真っ赤になった。

(って拭く必要ないから!! 全っ然ないから!!!)

フリーは、思わず取ってしまった自分の行動に驚きながら、涙を拭いた右手を握り締める。


フリーが恥ずかしさからバタバタと慌てても、菰野は変わらず、苦し気に眉を寄せたまま眠っていた。


フリーはそんな少年の横顔を見つめる。

(起きたら話してくれるかな……。

 あんまり、悲しい話じゃないといいんだけど……)

フリーは、いつも自分の話を聞いてくれる菰野が、どんな辛さを抱えて生きているのか、今まで全く知らなかったことに気付いた。


菰野はいつも明るくて、あたたかくて。

フリーの話を、いつも遮る事なく最後まで聞いてくれた。

尋ねればいくらでも、自分の失敗談とか、お供の人のおかしな話だとか、そんな話ばかりをしてくれた。

だから、フリーは思い込んでしまっていた。

この人はきっと恵まれた人で、いつも楽しく生きているのだろうと。


……どうしてそんな風に思っていたんだろう。

こんなに優しい人なのだから、私が嫌な気分にならないよう話題を選ぶなんてこと、しない方がおかしい。

こんな簡単なことに、どうして今まで、私は気付けなかったのか……。


まるで、自分ばかりが浮かれていたようで。

菰野を無理に付き合わせていたのかも知れないと思うと、フリーは心の奥が重くなった。


菰野が目を覚ましたら、今度は私が聞こう……。

……本当の、菰野の言葉を……。


----------


「うーん……」

リルは耳の後ろに手をあて、聞き耳を立てながら首を傾げた。

その様子に、久居は内心の焦りを隠し尋ねる。

「どうしました?」

「ええと……。二人とも、寝てるみたい?」

リルの不思議そうな声に、久居はホッとした。

「そうですか……」

一昨日は譲原の通夜だった。

一晩中起きていた菰野は、それでも日中の仕事をこなしていた。

何かしていないと余計に辛い様子の菰野を止め切れず、久居はいつも通りの鍛錬に付き合った。

けれど菰野は、心も身体も疲労していたにもかかわらず、昨夜もろくに眠れていない様だった。

菰野にとって、城以外に心安らげる場所があってくれた事を感謝しつつ、久居は答える。

「助かります……」

「助かるの?」

リルが不思議そうに、くりっと首を傾げる。

と、その後頭部には、特大のタンコブがあった。


「リ……リル、その大きなタンコブは、一体…………??」

「コブ?」

言われて、リルが自分の後ろ頭を撫でる。

「うわあっ、本当だー! 大きなタンコブーっ!!」

そんなリルに久居は思わず突っ込む。

「気付いていなかったのですか?」

「そういえば、昨日寝るとき上向くと頭が痛かったんだけど……。どこでぶつけたのかなぁ……」


久居はその様子を見ながら思う。

これだけ大きなコブができるほどの後頭部の強打ともなれば、場合によっては気を失った可能性もある、と。

「リル、昨日は何があったのですか?」

「えっとー、昨日はお母さんと封具屋さんに行ってー……、お店のおじさんに、石に手を当ててって言われてー……」

久居は封具屋という聞き慣れない単語を気にかけつつも、頷きを返す。

「けど、気付いたら家に帰ってて、……よく分かんないの……」

やはり。と久居は思った。

(しかし、こんな小さい子に、意識を失うほどの何が……)

リルは半ベソで、痛むらしいコブをつついている。

「うー……。触ると痛い……」

「触らないでおきましょうね」

久居は仕方なく突っ込んだ。


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