菰野と久居は城の中を駆けていた。
本来ならば走るべきではない場所だったが、今は一刻を争っている。
上がった息も流れる汗もそのままに、菰野がバタンと部屋に入ると、葛原が振り返った。
「菰野、静かに入って来い」
「……っ、すみま、せん……」
はぁはぁと荒い息の合間から、菰野が詫びる。
「来て、くれたか、菰野……」
葛原のすぐ隣から、弱々しく掠れた声がした。
「譲叔父様……」
菰野がその寝台の脇に膝を付く。
「菰野と……、二人で、話をさせてくれ……」
葛原はギリッと小さく歯を鳴らし「……はい、父上」と下がった。
葛原は苛立たしげに、そばに控えていた女官達を共に下がらせる。
「……菰野」
呼ばれて、菰野はもう一歩、譲原へと身を寄せる。
「はい……」
「最後の頼みを……聞いてくれるか?」
最後、という言葉に、菰野の胸は締め付けられる。
「私に……出来ることでしたら」
「そんな顔を、しないでくれ……」
譲原が差し出した手を、菰野は大切そうに支える。
「お前には、いつも……辛い思いばかり、させてしまうな……」
譲原はすっかり細くなった指で、菰野の頬を撫でる。
菰野はその手に頬を寄せると「そんなことはありません」と答えた。
ゆっくり目を閉じて、開く。
「父上、母上と共に過ごせて、私は幸せでした」
その言葉に、譲原はハッとなる。
「ーーお前……、知っていたのか……」
「はい」
とだけ、菰野は答えた。
「私を……恨んでいるだろうな」
「そのようなこと、決してありません!」
菰野は大きく首を振る。
頬を包む譲原の手を、菰野は両手でしっかりと握り締める。
「私を生かしてくださったこと、お傍に置いてくださったこと……。
本当に……、感謝しています……」
堪えきれず、菰野の頬を涙が一筋伝う。
それは、幼い頃からずっと傍で見守り続けくれた、父への感謝の涙だった。
譲原は口元を弛める。
「そうか……」
譲原は、最後の頼みと称して、一度だけでも父と呼んでくれればと思っていた。
けれど、菰野の中で、自身はずっと父でいられたのだ。
それを知り、譲原の心は満たされてゆく。
よかった……、本当に……。
もう、思い残す事は何も無い。
(久居……、菰野を頼むぞ……)
部屋の壁際に控えていた久居が、ハッと顔を上げる。
菰野は、握り締めていた手から、ほんの僅かに重みが消えたことを感じ取る。
それは、魂の重みだった。
「ゆ……譲叔父様……?」
事態に気づいた葛原が、譲原の名を呼び縋る菰野を突き飛ばすようにして、場所を入れ替わる。
「父上! 父上っ!!」
譲原は、もう目を開けなかった。
「お前達! 何をぼさっとしている!!」
怒鳴られて、女官と医師が慌ただしく譲原を取り囲む。
その外側で、突き飛ばされて床に手をついていた菰野が、ゆっくり顔をあげる。
「お怪我はありませんか?」
そんな菰野を、久居が助け起こした。
二人は、人の輪から距離を取るようにして、部屋の壁際に控えた。
壁を背に立つ菰野の足元で、久居は静かに膝を付く。
「小柚は、まだ来てないんだな……」
菰野の呟きに、久居は「そのようですね」と同意する。
「
「はい……」
寝台の脇では、今も葛原が必死で父を呼んでいた。
「父上っ!!」
(最後の最後まで……菰野だけなのですか!?
何故私には何も仰ってくださらないのですか!?)
葛原の瞳から止めどなく涙が溢れる。
寝台で眠る父は、満足そうに満ち足りた表情を浮かべていた。
……それが葛原には、悲しくてたまらない。
自分がどれほど、彼にとって必要でないのかを、はっきり見せつけられているようだった。
「父上ーーーーっ!!」
葛原の慟哭が、広い寝室に響き渡る。
菰野は、その悲しげな声に胸をじわりと締め付けられた。
義兄は最初で最後の支えを失ってしまった。
もう、この世で彼を気にかける者は自分しかいないのではないか、と菰野は思う。
けれど、自身は、その兄に疎まれていた。
確かに距離を取られている。
けれど、まだ嫌われているわけではないと、菰野は内心思っていた。
葛原が菰野を見る目には、嫉みや悲しみこそ滲んでいたが、嫌悪の色が映る事は未だ無かった。
「父上……」
葛原の声が、徐々に小さく、涙に濡れて溢れ落ちる。
見れば、医者も女官も、譲原から一歩離れていた。
菰野は、譲原の言葉を思い返す。
『最後の頼みを……聞いてくれるか?』と父は言った。
何だって、聞くつもりでいた。
けれど、父はそれを告げることなく、逝ってしまった。
(……最後の頼みを、伺いそびれてしまったな……)
久居は、主人の靴を濡らした雫に気付く。
けれど気付かぬフリをして、視線を戻した。
菰野は、溢れる涙を、もう止められなかった。
せめて声を漏らさぬよう、歯を食いしばる。
自分が泣けば、きっと兄はそうと見せずに心を痛めるだろう。
孤独な兄を支えたい。
菰野はずっと、そう思い続けてきた。
……本当は、父に、兄を救ってほしかった。
けれど、もうそれは叶わない。永遠に……。
いつも優しかった譲原の笑顔だけが、胸に広がる。
自分は置いて行かれたのだと、心が理解する。
(父上……)
菰野は、母の元へ逝ってしまった父に縋るように、胸の内で呼んだ。
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すっかり夜中になった頃、リリーは帰宅した。
その横顔には、疲労の色が濃い。
「あ、お母さん、おかえり……」
家に入ると、すぐの廊下に、フリーが毛布に包まるようにして座り込んでいた。
「フリー? どうしたの、こんなところで……」
「ん……、お母さん待ってた……」
「ごめんなさい、遅くなって」
「ううん、私達のせいでしょ?」
フリーは、母を気遣った。
「リルは?」
「疲れたみたいで、ご飯食べたらすぐ寝ちゃった」
「そう……」
初めての力の発現に消耗したのだろう。とリリーが推測する。
「お母さん、リルね、あの時意識がなかったみたいなの……」
フリーは、母をまっすぐ見上げて続ける。
「何やっちゃったのか、まだ分かってないみたい……」
「それで、フリーがこんなところで待っててくれたのね」
リリーはフリーの隣に並んで座り込んだ。
「うん……。リルに本当の事を言った方がいいのか分からなくて……」
リリーは、フリーがリルの事を大切にしてくれている事を嬉しく思う。
けれど同時に、その為にフリーは少し無理をし過ぎているのでは、とも思う。
あ。とフリーは思い出したように尋ねた。
「あいつ、手の怪我は大丈夫だった?」
リリーは微笑んで答える。
「ええ、すぐ治療したみたいで、私が行った時には綺麗に治っていたわよ」
「よかったぁ……」
フリーがホッと胸を撫で下ろすのを見ながら、リリーは尋ねる。
「あなたの怪我はどうなの?」
「あ、うん平気平気。切れたの手の甲ばっかりだし、動かさなければほとんど痛くな……」
そんな娘の手を、リリーはつついてみた。
フリーはガバッと手を抱え込んで、声にならない悲鳴を飲み込む。
「痩せ我慢しないで、フリーも明日は病院に行きなさいね」
「だ、大丈夫だって。ちゃんとガラスの欠片も取り除いたし……」
ズキズキと痛む右手を体で庇いながら、フリーは左手でパタパタと遠慮する。
今日買ってもらったガラス玉も結構高かったのに、病院にかかれば、もっとお金がかかる。
そう思うフリーの心を見抜いてか、リリーは
「子どもがお金の心配なんてしないの」
と笑ってみせた。
案の定、フリーはギクリと肩を揺らす。
「ダメになっちゃったガラス玉も、また買いに行きましょうね」
リリーが微笑んで言うと、フリーもようやく明るい表情を見せた。
「う、うんっ!!」
金色の瞳から、ぽろっと涙が零れる。
「あれ?」
(わぁぁっ、安心したら涙腺が!!)
フリーが、恥ずかしさから慌てて母に背を向ける。
リリーは、そんなフリーの顔を見ないように背中側から肩を抱きよせる。
「リルを守ってくれたのね。ありがとう……」
感謝を込めて、リリーはフリーの頭を撫でた。
「う、うん、リルは私の弟だしねっ」
フリーが、照れ隠しからか、小さいしねっ。鈍臭いしねっ。と言葉を足していくのを、リリーは苦笑しながら聞く。
弟。と言う言葉に、リリーは先ほどまで顔を合わせていた、自身の弟の姿を思い浮かべる。
リリーと同じ淡い金髪を短く整え、両サイドの髪を後ろに撫でつけた清潔感のあるスタイルの、リリーの双子の弟。
彼は、まだ若くはあったが、今では立派にこの村を治める長だった。
リリーはあの後、リルが怪我をさせたという子とその友達の両親達に囲まれていた。
言われるのは至極もっともなことばかりで、リリーはただ、彼らの言い分に頭を下げる他なかった。
「皆さん、この一件は私に預けていただけませんか?」
そこに現れたのが、弟だった。
「まあ……村長がそう仰るのなら……」
と村人達は、まだ憤りを抱えつつも、渋々リリーを解放した。
感謝の言葉とともに「人徳があるのね」と声をかけると、弟は「まあ、それなりに」と返した。
「治癒術者の手配をしてきたら、こっちが遅くなっちゃったな。ごめん、姉さん」
そう苦笑する弟は昔のままのようにも見えたが、やはり彼は、立派な村の長となっていた。
「それで……、リルの事なんだけど」
こちらに背を向けて話し出す弟に、リリーは覚悟を決めながら相槌を打つ。
「ええ……」
「俺が庇ってやれるのも、もう……限界なんだ……」
弟は、苦しげに、絞り出すようにして告げる。
「リルを……村から出してもらえないか?」
彼もきっと、こんな事を言いたくはないのだろうと思うと、リリーには何も言い返せない。
言葉に詰まる姉へ、弟は慰めるように囁いた。
「すぐにとは言わない……が、前向きに考えてほしい」
リリーはしばらくの沈黙の後
「……分かったわ……」
と返事をした。
「お母さん」
フリーの声に、リリーはハッとする。
「……いつまで撫でてくれるの?」
フリーはまだ、あのまま大人しくリリーに頭を撫でられていた。
「フリーがハゲるまで?」
思わず誤魔化すと、フリーは慌てて後退り「ハゲてたまるかぁぁっ」と突っ込んだ。
リリーは思う。
フリーは、リルと離れられるのかしら……。
ずっと一緒だった二人を引き離した時、二人がどうなるのかが、リリーには未だ読みきれなかった。
リルは、あの人と二人で生活していけるのかしら……。
あの、のんびりのほほんとした子が、果たしてあの短気な人と二人きりで生活できるのか、これもリリーには僅かに不安だった。
ここに今、あの人が居てくれれば……。と。
今まで何度繰り返したかも分からない思いと共に、リリーは檜皮色の髪と目をした頼れる夫の名を、胸の内で呼ぶ。
(クザン……)