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3話 冷たい瞳 温かい手(後編)

本殿はその日、未だかつてないほど煌びやかに飾られていた。

質実剛健を良しとする譲原の代では考えられないほどの装飾に、その式に参加した者達は主君が変わったことを実感させられた。

おそらくは葛原の母である雪華の仕業だろう。

葛原自身は、華美な物にあまり興味を示さなかったが、その母は輝く物や美しいものに目がなかった。


笛の音や太鼓の音が、空気に溶け込むように、静かに鳴り響く。

厳かな空気の中、長い祭事服を引きながら、葛原は一人姿勢を正し中央を進んだ。


菰野と小柚も今日ばかりは式服を着て、葛原の姿を見守っている。

「いよいよですね」

小柚の囁くような声に、菰野も

「ああ、そうだな」

とだけ小さく答えた。


烏帽子を外し、口上を述べた葛原の頭へ、神官が冠を乗せる。

これは本来ならば、譲原が果たすべき役だったが、この場に皇の姿は無かった。


菰野は、義兄の頭に冠が結ばれるのを、息が詰まりそうな気持ちで見ていた。

もう、今までと同じではいられないかも知れない。

母が亡くなっても、それでも菰野はこの城で、譲原皇にあたたかく見守られ、久居に支えられながら過ごしてきた。

けれど、そんな日々は、もうこれで終わってしまったのだと、もう二度と戻りはしないのだと。

そんな予感は、確信に近いほどの重さで、菰野の胸を押し潰す。


戴冠した葛原は、そっと目を開く。

これで、このは名実ともに葛原の物となった。

燻んだ黒髪の下で、彼は見るものの心を凍てつかせるほどの、暗い決意をその瞳に宿していた。


菰野の背筋を、ぞくりと悪寒が通り過ぎる。

「菰兄様……」

隣から不安そうな声がして、菰野は隣に立つ小柚を見た。

「やはり、お父上はいらっしゃいませんでしたね……」

大きな瞳をわずかに伏せる小柚の肩を、菰野は優しく支える。

「大丈夫。今しっかりお休みになっていらっしゃるのだから、時期に良くなるよ」

「そう……ですよね……」

「ああ……」

それは、菰野自身の願いでもあった。

(……母様……。どうか、譲叔父様をお守りください……)

菰野は母の面影に縋るように、心から祈りを捧げた。


----------


「お待ちください葛原様っ!」

「譲原様は現在ご容態が……っっ」

入室を止めようとする衛兵達を、葛原は憎々しげに見下ろした。

「お前達……私を何だと思っている?」

「く、葛原皇……」

「この城に、皇に従えぬ者は居ないはずだが?」

言われ、衛兵達は渋々その場に膝を付く。

「……し、失礼致しました……」

「ご無礼をお許しください……」

葛原は、彼らを見下すと、ふんと鼻を鳴らし「早く開けろ」と命じた。


中はほとんど真っ暗に近かった。

「父上」

葛原は声をかけるが、慌てて駆け寄ってきたのは女官達だった。

「葛原様! 譲原様は今……」

必死に伝えようとする女官達に、葛原は腕を振る。

「下がれ」

「で、ですが……」

腕に当たらない程度に距離を取りつつも、一人の女官が食い下がる。

「下がれと言ったのが、聞こえなかったのか?」

「譲原様は、絶対安静で……」


「よい。お前達、下がりなさい」

その声は、ひどく掠れ、揺れていた。


女官が泣き出しそうな顔で下がるのを横目に、葛原は父の枕元へと近付いた。


「父上……」

ただ、父の顔が見たかった。

どうしても、戴冠の儀を務め上げた旨報告がしたくて、葛原はここへ来た。


何故なら、自分はそのためだけに生まれ、そのためだけにここまで生きてきたのだから。


「こんな時分にどうした」

父は、顔を動かすことすらなかった。

ただ、その優しい栗色の瞳は確かに葛原を見た。

葛原は、父にはもう起き上がる力も無いのかと心を痛めつつも、一方で、こうも思う。

私程度では体を起こすまでもないとお思いなのか……と。

きっと、ここへ来たのが菰野なら、父上は無理をしてでも向き合うのだろう。

自嘲を口元に浮かべつつ、葛原報告した。

「戴冠の儀、不備無く務めて参りました」

「そうか、ご苦労であった。式に行けず、すまなかったな」

「いえ……」

そう答えながらも、これがもし、菰野の式であったなら、父上は這ってでもおいでくださるのだろう。と葛原は思う。


「雪華は変わりなかったか?」

問われ、葛原は言葉に詰まる。

「は、母上は……」


母へは何度も出席するよう文を届けた。

けれどいつまで経っても出席の返事は無く、葛原は一昨日ついに直接会いに行った。

しかし、目通りは叶わなかった。


追い縋る女官の制止を振り切り、母のいる部屋までは行ったものの、何故ご出席いただけないのかと尋ねる葛原に、母は御簾越しに告げた。

「そのようなもの、何故私がわざわざ出向かねばならないのですか」

言葉を失った葛原に、母は冷たく告げた。

「帰りなさい」と。


母は、自分の息子が皇となることを、望んでいたはずだった。

だから、式には当然出てもらえるものと、葛原は思っていた。

……けれど、そうではなかった。


結局、式に顔を出した葛原の血縁は、腹違いの弟の小柚と、従兄弟の菰野だけだった。


「母上は、物忌みのためご出席いただけませんでした」

寝台の端を握りしめながら、葛原が何とかそう告げた途端、譲原は咳き込み始める。

激しく咳き込む苦しげな父を、どうする事もできずに、葛原は瞳を揺らす。

その背を撫でることも、その肩に触れることも、自身には許されていないと彼は思っていた。


肩で息を継ぎながら、譲原はそんな長男の固く握り締めた手へ必死に手を伸ばす。

父の手に、自身の拳があたたかく包まれて、葛原は息をする事を忘れた。


「葛原……これからはお前が……このの、皇だ……」

譲原は苦し気な息の隙間から、何とか一つずつ言葉を紡ぐ。

「この国を……菰野達を、頼む……」

「はい、父上……」


葛原が部屋を後にすると、中では女官達が慌ただしく譲原の世話を始める。

戸の外までわずかに聞こえる悲鳴のようなやりとりに、葛原の侵入を許してしまった衛兵達が、申し訳なさそうに顔を見合わせていた。


葛原はそんな中を振り返らずに歩いてゆく。


父があたたかな手を重ねてくれた右手の甲を、左手でそっと包むようにして胸元に抱き寄せる。


父に頼まれたのだ。

この国と、菰野達を。

それはなんと光栄な事だろうか。


正直、葛原にとってこのはどうでも良い存在だった。

それでも、父の頼みとあらば、誠心誠意、このに生涯尽くすつもりがあった。


きっと父は間も無く逝くのだろう。

それは葛原にはどうしようもないことだったが、父がそれを辛く思っていることは、葛原にも分かった。

父は、菰野と別れたくないのだ。

だから私に菰野達を託した。


だとすれば、葛原が父の為にできることはひとつだった。


(父上が……向こうで寂しくならぬよう、父上が旅立たれた後を、菰野にも追わせましょう……)

葛原は、菰野を眼裏に浮かべて誓う。

(この、私の手で……)


本当は葛原も後を追いたかった。

父と離れる事は、葛原にとって死よりも辛いことだった。

けれど、それは許されない。

父に、この国の未来を託されてしまったから。


自身は、この国を、立派に守り抜いた後に、堂々と会いに行こう。

そうすればきっと、父は褒めてくれる。

……今度こそ。

よく務めたと、微笑んでくださるに違いない。


葛原は、それまでの長い長い孤独を、一人耐え抜く覚悟を、そっと胸に秘めた。

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