キュッと首元に紋の入った球を結んだ
「これでよし」
そこへコンコンとノックの音がして、
「菰野様、そろそろーー……」
「あ、今日は俺一人で行く」
主人の言葉に、久居は耳を疑った。
「……そ、それは一体どう……」
まさか昨日馬車に投げ込んだ事を恨んでいるのだろうか、などと青ざめながら久居が尋ねると、菰野はエッヘンと胸を張って答えた。
「一人前になった姿を、母様にお見せするんだからな」
その言葉に、久居は細く息を吐きながら、胸を撫で下ろす。
「よ、良いお心掛けで……。さぞ加野様もお喜びになるでしょう」
そんな久居の横を通り抜けながら、菰野は「じゃ、行ってくる」と告げる。
「行ってらっ……」と答えかけ、久居は慌てて振り返る。
「お待ちください! お一人では危険です!! 私もお供いたします」
それとこれとは話が別だ。とばかりに主人を引き止める従者に、菰野は笑って答える。
「大袈裟だなぁ……。城内くらい一人で歩いたっていいだろう」
「城内……?」
言われて久居が一瞬怪訝そうな顔をする。
加野の墓があるのは、城の敷地内とは言え、城からかなり外れた林の中だった。
「どこまで城内ですか。山全部ですか?」
そっと部屋を出ようとしている菰野の肩を、久居ががっしり掴む。
菰野は、意を決するように振り返ると、仕方なく奥の手を口にした。
「そうやって久居が甘やかすから、俺がいつまでも自立できないんだぞ」
衝撃に久居が顔色を変える。
「そ、そんな……まさか……」
ずる……と、肩にかかる手から力が抜けたのを見計らって、菰野はじわりと後退る。
「私が……菰野様の成長の妨げになっていたなんて……」
震えるような声で漏れる、小さな小さな呟き。
「菰野様の将来を……第一に考えてきたつもりが……。そのように……思われていた、とは……」
信じられないというように、震える自分の指先を見つめる青年従者をそっと部屋に残して、菰野は外へ出た。
(久居、ごめん!!)
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その日の早朝は、妖精の村の外れでも、フリーが一人そっとカゴの回収を試みていた。
(リルが寝てるうちに……)
しかし、フリーが精一杯静かに鉄製の門を開けても、その錆びついた音に、耳の良いリルは反応した。
バタンと二階の窓が開く音にフリーは身を強張らせる。
「フリ〜? どこ行くの?」
(ぐっすり寝てたと思ったのに……)
が、振り返ったそこには、窓から顔を覗かせたまま二度寝を始めるリルの姿があった。
「ボクも行くぅ……」
寝言なのかそうじゃないのかイマイチ判断がつかない言葉に、フリーが苛立ちを滲ませた時、背後から別の声がかかった。
「あら?」
それは、フリーが最も見つかりたくない相手だった。
「あらあら、フリーは早起きさんねー。 こんな時間からどこへ行くの?」
(お母さんに見つかったよっ! リルのせいだっっ)
心の中で思い切り弟のせいにしつつ、フリーは何食わぬ顔を装って振り返る。
「え〜〜〜っと、早く目が覚めちゃったから、朝ご飯作るのお手伝いしようかなーって」
えへ。っと誤魔化すように笑って見せると、母もにっこりと微笑んだ。
朝食用にか、いくつかの野菜を抱えてはいたが、リルとフリーの母親は朝の光がよく似合う、清廉な空気を纏った美しい女性だった。
フリーと同じ長く垂れたような耳に、細く長く空へと伸びる触覚が二本。
背には朝日を浴びて七色に輝く透き通る羽根を持っている。
フリーよりもずっと淡く透き通るような金髪を膝あたりまで伸ばし、下のあたりを大きなリボンでひとつにまとめていた。
「あらあら、フリーは本当に口がうまいわねぇ……」
ビシッと、フリーが笑顔のままで固まる。
(それは、どういう……)
「じゃあ、お言葉に甘えて、手伝ってもらっちゃおうかしら」
るんるんと機嫌よく母は告げて歩き出す。
「えーと……おかーさん?」
フリーはその後に続いた。
一時間後。
「おはよー……。いいにおいがするー……」
リルがいつも通りの起床時間に、眠い目を擦りながらも一階に顔を出すと、そこにはテーブルいっぱいの料理が並んでいた。
「わぁー、すごーいっ。朝からご馳走だー」
「何かいい事あったの?」と不思議そうなリルに、母は満面の笑みで答える。
「今日はフリーがたくさん手伝ってくれたから、お母さん頑張っちゃった♪」
しかし、そのフリーは、食卓の向こうでぐったりとしゃがみ込んでいる。
「あれ? フリー、なんだか元気ない……?」
リルの言葉に、フリーの額に青筋が浮かんだ。
「あんたのせいでしょーーーーっ!!!」
姉に拳骨で両こめかみをぐりぐりと捻られながら、リルが『なんで!?』という顔をしている。
「こらこら、八つ当たりしないの」
母はそんな姉弟を見て、苦笑しながら嗜めた。
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菰野は母の墓前に花を供えると、目を閉じ、手を合わせていた。
母の墓は城から遠い、奥まったところにあったものの、いつ来ても綺麗に手入れがされていた。
それは、時が経った今もまだ、わざわざこの場所までこの墓を整えるために通う者が途切れていないということだった。
本来なら、皇の姉にあたる母は、もっと城の近くで、丁重に弔われても良いはずだ。
それが、死因のためこんな人目につかないようなところに、そっと葬られている事に、菰野は少なからず不満もあったが、今回ばかりは感謝するしかない。
「母様……。私もようやく一人前になれました。これもみな、譲叔父様や久居……。そして、見守ってくださる母様のおかげです……」
そこまで告げて、菰野の心に置いてきてしまった久居が過ぎる。
「あ、久居は置いてきてしまいましたが、元気にしていますよ。今度は二人で来ますね」
菰野は、墓の奥、どこまでも広がる森と山を見上げる。
「今日は、これから母様が妖精を見たと仰っていた山へ入ってみようと思うのです……」
栗色の瞳に、期待と不安が混ざり合い、静かに揺らめく。
(母様は、勧めてくださるでしょうか。それとも、止められてしまうのでしょうか……)
眼裏には、倒れた母の赤く染まった指先が鮮明に蘇っていた。
それなのに、菰野はそれでも、それをただ怖がることができなかった。
「私には、どうしてか……。母様が妖精に殺されたとは思えないのです……」
ぽつりと零した菰野の本音は、誰に聞かれることもなく、森の中に消えた。
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「いーち、にーい、さーん」
妖精の村の外れ。そこからさらに結界の外へ出たあたりの木の根元で、リルは数を数えていた。
両手で耳を塞いでいる。目隠しがわりに、少年は木の幹に向かい合っているようだった。
「しーぃ、ごーぉ、ろーく……」
リルは先程のやりとりを思い浮かべる。
「いい? 三百数えるのよ!!」
フリーはビシッとこちらを指差して要求した。
「そ、そんなに……?」
思わず聞き返したのが間違いだった。
フリーはズズズと圧を増して、リルに覆い被さらんばかりに主張する。
「私はね? 毎日鬼ごっこでもいいんだけど? それだとリルが鬼ばっかりだから、たまぁぁぁぁぁぁぁには? リルの好きなかくれんぼに付き合ってあげようって言ってるのよ? わかる???」
「う、うん……」
圧倒されて頷くと、姉はリルの耳を摘んでこう言った。
「ちゃんと耳も塞ぎなさいよねっ! ほんっっと無駄に耳ばっかりいいんだからっっ!」
そんなわけで、今に至る。
……ボク、何かしたかなぁ……。
思わずリルの伏せた瞳から、ホロリと涙がこぼれる。
双子の姉であるフリーは、言いたいことを我慢するような人ではないが、理不尽に嫌がらせをするような人でもなかった。
きっと、気付かないうちに、ボクが何か、嫌なことをしちゃったんだろうな……。
リルは、自分が鈍感であることを理解していた。
けれど、それを分かったところで、自分にはそれ以上にできることはなかった。
リルは、姉が早く機嫌を直してくれることを祈りつつ、言われた通りにゆっくりと数を数え続けた。
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一方で、フリーは全力疾走に近い速さで、森の中を駆け抜けていた。
(リルが気付く前に戻らなきゃ!!)
記憶を辿りながら、昨日の崖上の木を目指す。
その頃、菰野もまた、昨日金色の何かが立っていたはずの場所を目指していた。
(この辺だったかな……?)
なんとか傾斜の緩やかなところを見つけて、崖上側まで登った菰野は、崖下を見下ろす。
(ちょうどあのあたりで馬車が止まって……)
そして、昨日の木を見つける。
(あ。あの木)
フリーが目的の木を見つけたのも、丁度その頃だった。
(あの木の根元に、カゴが落ちてるはず!!)
ラストスパートとばかりに、速度を上げる。
まさか、近くに人がいるなんて、考えもしていなかった。
(ーーえ……?)
視界を塞いでいた木々の合間を抜けると、目的の木のそばに人が立っていることにやっと気付く。
(えええええええええええ!?)
慌てて急ブレーキを掛けるも、全力疾走がそう簡単に止まるはずもなく、乾いた土の上を足が滑ると砂煙が巻き上がる。
(なんでこんなところに人間が!?)
菰野は、木に近寄って、その幹にそっと手を伸ばしたところだった。
フリーが、その人が昨日見かけた少年だと気付きかけた時、地面と摩擦勝負をしていたはずの足が、ゴギッと酷い音を立てて岩に激突した。
フリーはその衝撃に転倒し、地を転がる。
(ゴギッて鳴った!! ゴギッてーーーーーーっ!!!)
強打した足を抱えて転げ回るフリーに、近くの茂みが揺れ、菰野が異変に気付く。
(も……もうだめ……)
フリーはなす術もなく、地に伏せた。
しん、と静まり返った茂みから、菰野は視線を外さない。
彼は確信していた。間違いなく、何かが居ると。
息を呑み、それでもじわりと一歩、菰野は茂みへと歩を進める。
じゃりっと砂混じりの地面が音を立てる音に、フリーが気付く。
(に、人間が近付いてくる!)
ガバッと両腕で地を押し立ち上がろうとする。
(逃げなきゃ!!)
けれど、足の痛みは想像以上で、ズキンと貫かれるような痛みに思わず小さく声を漏らす。
(う……動けない……)
サーっと血の気が引いていく。
足は今もズキズキと熱を持って痛みを伝え続けている。
(ああああもうっっ! なんでこんな時に怪我なんか!!)
その間にも、一歩、また一歩と少年の足音が近付いてくる。
(この耳めーっ! なんでもっと早く気付かなかったのよーーーっ!!)
全力疾走していたせいで、風の音に混じった人間の音に気付かなかった自分の耳を責めるも、そうこうしているうちに、こちらへと向かう足音は間近へ迫っていた。
ついに茂みを挟んだその向こうで、足音が止まる。
(み……っ、見つかるっっ!!)
菰野は、茂みへと手を伸ばす。指先が震えているのが自分でも分かる。
知らない方が良い事だって世の中にはある事を、菰野は理解していた。
それでも自分はこの茂みを分けようとしている。
胸に、自分の事をこの世の何より大事に思っていてくれる一人の従者の顔が過ぎる。
けれども、菰野は動きを止めず、その茂みを掻き分けた。
なぜか、それに会うことは、危険な事ではない気がしていた。