「妖精?」
そう尋ねたのは、まだ小さな少年だった。
母親の膝の上で、あたたかな暖炉の火に照らされて、栗色の髪と同じ色のつぶらな瞳が揺れる。
「母様は妖精に会ったのですか?」
「ええ、とても美しい女性の姿をしていたわ」
答えながら、母親は少年を優しく撫でる。
「母様より、美しいのですか?」
「もちろんよ」
母親は小さく笑い、目を細めると、その姿を思い浮かべながら伝える。
「金色の長い髪がふんわり風になびいて、透明な薄い翅が光を浴びてキラキラ輝いていたわ」
その様を想像してか、少年の瞳がうっとりと、夢の色に滲んで緩む。
「わ、私も会ってみたいですっ」
夢中で訴える少年に、母親は笑って答えた。
「そうね。
『きっと……』
その言葉と母の微笑みは、いつまでもいつまでも、少年の心に残っていた。
あれから時が過ぎ、母を失った今も。
いや、失ったからこそ、思い出が色褪せないのだろうか。
亡き母を想うときには、決まって妖精という言葉が蘇る。
……良い意味でも、悪い意味でも。
人より長く大きな耳に、細く長い二本の触角、そしてトンボのように透き通る翅を持つという妖精の姿は、少年のまだ柔らかな心に強烈に焼き付いたまま、ずっと離れなかった。
「母様……」
呟きは、寝台でうつ伏せに眠る少年の口から零れた。
母親似の愛らしい顔立ちのせいか、寝顔は歳よりも幼く見えるが、少年は十五歳になっていた。
コンコン。と、軽い音で、そんな少年が眠る部屋の扉をノックする人影。
それは、艶やかな黒髪を後ろの高い位置でひとつに括った、中性的な顔立ちの青年従者だった。
「菰野様、お支度はよろしいですか」
静かに尋ねるその声に、応える者はない。
返事を待っていた青年は、僅かに焦りを浮かべつつ「失礼します」と断ると室内へ立ち入った。
まだ薄暗い部屋を突っ切ると、窓掛けを開け、室内に光を入れる。
「起きてください、今日は元服式ですよ」
その言葉と朝の光に射されて、寝台の上で眠っていた少年……菰野がもそもそと動き出す。
「ん……」
その間に、青年従者は主人の着替えを手にして寝台の脇へと控えた。
「おはよう……」
こしこしと目をこすりながらようやく起き上がった三つほど年下の主人に「おはようございます」と返事を返しつつ
「半刻後には馬車を出しますので、速やかにお召し替えください」
と従者が声をかけると、菰野はぼんやりしたまま「うん……」と答えた。
(……何か、懐かしい夢を見ていたような……)
菰野は、まだ半分夢の中にいるような顔で、青年従者にされるがまま着替えを進められている。
「菰野様?」
そんな主人を、従者は心配そうに覗き込む。
「どこか具合の良くないところがあるのですか?」
「あ、ないない。元気元気」
いつの間にか着替えを済まされていた菰野が慌てて答えると、従者はホッとしたようにひとつ息を吐いた。
「それでは、もっとキビキビ動いてください」
青年従者にじわりと圧をかけられて、少年主人は誤魔化すように苦笑を浮かべながら顔を洗い始めた。
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菰野が暮らしている城の、裏手に広がる大きな山。
その中程に、人に知られていない小さな村があった。
どのくらい昔からそこにあったのかわからないほどに、その村は遥か昔からそこにあり、永遠とも思えるほど長い間、外界との交流を遮断し続けていた。
その村から少し山を降ったあたりで、歳の頃七つほどに見える少年が、キョロキョロと何かを探すようにあたりを見回している。
薄茶色の透けるようなサラサラの髪と、同じ色の瞳に、色の白い肌。
大人しそうな見た目の少年だったが、よく見ればその尖った耳や頭に生える小さなツノが、人とは違う生き物……鬼の子である事を知らせていた。
何かを見つけたらしい少年が、小走りに駆け寄って花を一本摘み取る。
「これで六本……」
反対の手には、今までに摘んだらしい同じ花が五本握られている。
少年が摘んだ花と同じような種類の植物はそこら中に散見されたが、そのほとんどが蕾かそれ以前の状態で、咲いている花は中々見つからないようだ。
「この調子だと、百本集まる頃には日が暮れそう……」
小さな呟きをもらして、少年がしょんぼりと肩を落とす。
「リルーーっ!」
明るい声に、少年が振り返る。
「見て見てーっ。こんなにとれたよー!」
木の蔦で編まれたようなカゴを手に、笑顔で駆け寄る少女の背には、蜻蛉のような薄く透明な翅が生えていた。
腰まで伸ばされた長い髪は金色というよりは黄色っぽい色だったが、顔の外へと伸びる柔らかそうな耳や、前髪のあたりから空へと伸びた二本の細い触角のようなものも、その全てが、先程の菰野という少年が思い描く妖精の姿によく似ていた。
少女が差し出したカゴの中には、リルと呼ばれた少年の持つ花の二倍以上が摘まれている。
「うわー。こんなに沢山どこに生えてたの?」
「この奥のーーー……」
覗き込んだリルが尋ねると、答えかけた少女がハッと言葉に詰まる。
「奥の……?」
十三か十四歳ほどに見える少女より、ひとまわり小さなリルがゆらりと存在感を増す。
「……奥は、行っちゃダメだよね……?」
「だ、ダメだよ……ね……あはは……」
縮こまる少女の耳と触角が、心なしか垂れる。
リルは小さくため息をついた。
「もうここは結界の外なんだから。結界石が見えなくなるほど結界から離れないようにって、お母さんに言われたよね?」
言われて、少女が後退る。
この二人は、外見の特徴にも成長速度にも差があったが、同じ親を持つ双子の姉弟だった。
「で、でも、この辺全然咲いてないんだもん」
姉の言葉に、リルがチラと視線を巡らせる。
確かに姉の言う通り、この辺りの花はどれも蕾がせいぜいという様子だ。
「ちょっとだけ奥には、いっぱい咲いてるんだよ」
「いっぱい……」
の言葉に、リルの瞳が揺れる。
その様子に、少女はオーバーに両手を広げて言った。
「いーーーーーーーっっっぱいっっ!!」
「いーっぱい……」
明らかに動揺している様子のリルの手を、少女が掴む。
「とにかく来てみて!!」
「ちょっ……」
リルの言葉を無視して、少女は駆け出した。
「ちょっと待ってよ、結界石見えなくなっちゃうよ」
ぐいぐいと引っ張られながらも、リルは名残惜しそうに後ろを振り返る。
見る間に視界の奥へと遠ざかる結界石は、もう米粒ほどにしか見えなくなりつつある。
「到着ーっ」
姉の言葉にリルが前を向くと、そこは見渡す限り一面の花畑になっていた。
「うわぁ……」
リルは、その光景に目を奪われる。そこに咲き誇る花のほとんどが、求めている花で、開けた土地でたっぷりの日差しを浴びて開花していた。
薄茶色のつぶらな瞳をさらに丸くして、ぽかんと口を開け、ほんのりと頬を染める弟に、姉は自慢げに告げる。
「えへへー、すごいでしょ」
「これなら、百本もあっという間だね」
リルは、せっせと花を摘み始める。一本ずつ丁寧に、傷まないように。
「うん」
と答えながらも、姉はそんな弟からじわじわと距離を取る。
(私がやらなくてもね)
内心で付け足して、少女は弟が花を摘むのに夢中になっている隙に、遊びに出かける事にする。
(もうちょっとだけ、探検してこよーっと)
るんるんと足取りも軽く、少女はそこらを探索して回る。
小さな小川や、見慣れない木などを見つけては、時々後ろを振り返る。
木々の隙間から辛うじて砂粒ほどの大きさに見えていた結界石も、そろそろ見えないと言わざるを得ないサイズになってきた。
(戻らなきゃ……)
そう思った少女の耳に、聞き慣れない音が聞こえてきた。
何かの生き物の鳴き声のようなそれに、少女の好奇心は刺激される。
(このへんまでくれば、動物がいるのかも)
思わず、音の方へと足が向かう。
その先は、崖になっていた。
崖近くの木の陰に隠れるようにしながら、少女はそっと崖下を窺う。
音が聞こえてきたのは、崖下の方からだった。
(あ、大きな動物!)
少女が見つけた四本足の動物は、鹿毛の馬だった。
わらび形や腹帯が巻かれ、引き棒に繋がれたそれは馬車を引いていた。
馬が頭を下げると、その向こうに人影が見える。
(人間もいる!!)
少女は慌てて木の裏へと身を隠す。
(うわー、人間初めて見ちゃった! ど、どうしよう、見つかるとマズイよね……)
心臓がドキドキと大きな音を立てている。
少女の場合、それは恐怖というよりも、未知との遭遇への興奮だった。
(けど人間って、私たちよりずっと耳も目も利かないって聞くし……)
すぐにこの場を去った方がいいと、頭では分かっている。
けれど、少女は自分の好奇心に勝てなかった。
(ここからなら、見つからない……よね?)
そろり……と慎重に、少女は木の陰から崖下の様子を伺う。
(もうちょっとだけ……)
崖下では、馬車の戸が開き、少年が顔を出した。
「どうした?」
少年に声をかけられて、御者が慌てたように名を呼ぶ。
「菰野様! す、すみませんっ!」
御者と共に馬の様子を見ていた青年従者が、じとりと半眼になった。
「馬が落ち着かないので目隠しを付けます。問題ありません」
そう答えて、主人に視線で圧をかける。
ついさっき、危ないので出て来ないよう、よく言い含めて降りてきたというのに。
なぜ出てきたのか、と従者の顔には書いてあった。
菰野はそれに気付かないフリをして、馬の様子を見に行く。
馬は、よく慣れている馴染みの馬で、こんなことはまず起こらないような性格をしていた。
いつも温厚で、落ち着いた馬……だが今は、どこか怯えるように身を縮めている。
(ここが怖いのか……?)
菰野は馬の首を慰めるようにポンポンと叩いてやりながら、山の頂へと視線を投げる。
この山は、遥か昔から神の住む山と呼ばれていた。
この山に無闇に近付く者は命を落とすと言われている。
(母様が、妖精を見たという山だ……)
山を見上げる菰野の表情に気付いた従者は、切長の黒い瞳に後悔を滲ませ、僅かに眉を寄せる。
急いでいたとはいえ、主人をこの山に近づけるべきではなかった。と、従者は己の判断を責めた。
「装着できました」
御者の言葉に「すぐ出発します」と従者は答える。
「菰野様、中へお入りください」
促され「ああ」と少年主人は馬車の屋根に手をかけた。
ふと、視線を感じて顔を上げると、崖の上の木陰から金色の何かがはみ出していた。
確かに視線が合った。そんな気がして、菰野はそれを凝視する。
(こんな場所に人……?)
視線が合った感覚からそう判断してみるも、ここからでは離れ過ぎていてよく分からない。
(金色に見えるのは……髪なのか……? まさか、あれはーー……)
「菰野様、お乗りください」
言葉とともに、青年従者が主人の背を押す。
「うわぁっ」
すっかり気を取られていた菰野が、姿勢を崩しかけ、慌てて振り返る。
「あ、危ないじゃな……」
『危ないのは時間です』と顔に書かれている従者を見て、主人は「ごめん」と謝った。
「さあ、お早く」
「わ、分かったから、押すなって」
従者にぐいぐいと背を押されながらも、菰野はもう一度崖上へと視線を投げる。
(あれ、いない……)
プチッと堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた気がする。
次の瞬間には、菰野は従者に抱え上げられ、車内に放り込まれていた。
「うわぁぁぁあっ」
「出してください」
素早く乗り込み、バタンと戸を閉めた従者の言葉を合図に、御者は鞭を振る。
馬車はガラガラと音を立て、走り出した。