とある一室。
「――――っあ”ぁあ!」
大人が闊歩する夜、居酒屋が連立する東京との境目は俗な一面を見せる。
その一角に薄暗いビルはあった。
「っは、は」
入り乱れる呼吸と喘ぎ。
部屋のベットでは厚化粧の女と耳にピアスを開けた若い男が交わっていた。
しかし、様子がおかしい。
「っや”ぁ”」
眼を爛々とさせる男の手には、女の髪が掴まれている。
そして男はどこか別のことに集中しているかのような無表情で、反対の拳を女の腹へとぶち込んだ。
女は嗚咽を漏らし、反射的に体を曲げるが髪を掴まれている所為で途中で体が跳ねる。
助けてと媚を売るつもりか必死の抵抗か、女は男の手を握り締める。
だが、男の拳はあっさりと女の体へ付き刺さる。
「――っがぁ」
ただ、ひたすら、女は男に腹を殴られていた。男が腕を振るう度に女の顔が歪む。
息も絶え絶えで耐える女と対照的に、男は無心で女の腹を殴っている。
第三者がその光景を見れば、奇妙な図に違和感を覚えるだろう。
一つ、打った拳が胃のあたりに入ったらしく、女は嘔吐いた。
嗚咽が耳に入ると、男は我に返ったように瞬きをした。
「あー、そうだ、そうだ」
目の前で痙攣している女を見ると、男は満足そうに深く息をついた。
男の頬は高揚し、眼は心地よさそうに細まる。
「は、可哀想な奴だ」
加虐性欲。
「あんたが俺を誘ったから悪いんだぜ」
自分の腕も疲れたのか、空で解すように振る。
が、女が一瞬安堵したところを見計らって、再び拳が飛ぶ。
不意打ちの一発が効いたか、涎を吐きながら女は苦しそうにもがいた。
「――も、たすけ……っ」
と、そのとき、男が女の髪を掴んでいた片手を離した。
女が不思議に思って男に顔を向ける。
「あんたが俺を誘ったのが悪い――」
男はさらりと女の髪掻き分け、頬をなでた。
その仕草は先ほどと変わってとても優しく、女はびっくりとした表情でいる。
こちらを見つめる男の優しそうな顔を見て、一瞬混乱したことだろう。
――――も、束の間。
頬にあった男の手はするりと首へ下降すると力を強めた。
「っぉ、ぐ……っ」
「―――っは」
男は息を乱して陶酔していた。
首を絞めるという行為に。
自らの加減次第で目の前にいる人間の生死が左右する。
「どうする。殺してほしいか? ――――それとも、まだ生きていたいか?」
それはこの男にとっての最大の快楽。
散々嬲られての、この問い。
返答する気力もないか。
女の息はそこで途絶えた。
「ああーだるいな」
部屋の床で寝転んだ男は、天井を眺めながら煙草を咥えていた。
殺しはこれが最初ではない。
男は自分に寄ってきた女を殺しながら転々としていた。
男の父親も男と同じように暴力を振るう者で、母親は極度の浮気性でろくに家に帰らない。
一応男も学校には通っていたものの、そんな家庭状況もあってか気づけば学業をさぼり街をうろつく様になり、
自らの快楽のために人を殺し、そこで得た金で暮らしてきた。
シリアルキラー。
気が向けば自分から赴くこともあるのだろう。
「もう一人くらい捕まえてえな」
男はゆっくりと体を起こした。
街には夜の店があふれている。
そこで気になった女を見つけて誘うつもりで、男は視線を巡らせていた。
歩く者や客引き、その中に女がいればその都度よしあしをつけていく。
しかし、これといった相手がいないようで、男の足は仕方なく居酒屋の多い通りから暗い
路地へと向いた。
(このあたりで見つからなければ今日は諦めるか――――)
そう思った矢先、男はぴたりと足を止めた。
視線の先には老舗らしい喫茶店。
いや、男が見ていたのは――――
店の前で待ち合わせでもしているのか、腕時計に目をやるスーツの女。
整った顔立ち。
その眼は凛として、気の強そうなのが伺える。
身にまとうスーツは質の良いブランド物だ。
男はすぐ、その女から眼が離せなくなる。
(金も割りと持ってそうだ――――いや、それよりこの女、相当の上物だ)
ごくりと喉を鳴らす。
(こいつをヤりたい)
標的は、決まった。
ならばさて、どうやって誘い出すかと考え始めたところで、男は気づく。
相手の女が鋭い眼でこちらを見ていることに。
(少し見すぎて気づかれたか――――いや、でもこいつは警戒してるってよりは――)
女は小さく口の端を吊り上げた。
嘲笑。
(挑発、か)
男はそう中に呟いて、同じようににやりと笑う。
それが合図だった。
女がゆっくりと店の横の路地へ歩いていく。
暗い路へ入る直前で振り返り、男に向かって口を動かした。
(来い。相手してやる)
と。
それを見た男は少し笑い、ジャケットからナイフを取り出した。
(何だ? この女――――俺と戦うつもりか?)
男は油断していたのだ。
いや、油断していなくても勝てなかったであろう。
この頃の"サイトー"――――"城崎慶介"はただの殺人者で、
相手の女―――――――"サイトー"は名高い殺し屋だったのだから。
ここで初めて、城崎慶介は完膚なきまでに叩きのめされることになる。