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第6話

 仕事は実に簡単だった。

 在り来たりの恋問答。依頼主は女。そしてターゲットも女、と来れば後はお察しだった。たいして珍しくもない、ありきたりな夫の浮気。

 ターゲットの家は好都合に、人気のない場所に建っていた。周りは無人工場が立ち並び、人がいるとすればそちらの点検員のみだろう。

 私はホテルに予め停めてあった黒のセダンに乗り込み、ホテルを出た。サイトーに手配してもらっていた物だ。ナンバープレートもそちらの方から調達しているのだろうか。

 依頼主からの情報によれば、女は今日も別の男と会う約束をしているとのことで、外出するそのときに轢き殺す算段だ。後で因縁を付けられては困るのだろう、『ごく自然に』済ませて欲しいとのことだった。そう、今日の私は偶然通りかかって偶然女を轢き殺してしまう哀れな男の役なのだ。

 車に備え付けられたミュージックプレイヤーの摘みを捻るとクラシックが流れ始めた。外界と鉄の壁で遮断された車内に上質な音色が満ちていく。駅前を通り、暫く走っていると、工場の煙突が姿を現し始めた。それと共に民家と人影が少なくなっていく。

 ターゲットの玄関が見えるところまで来ると、路地に車を停める。待ち伏せだ。プレイヤーを止め、耳を澄まし、そうしてから私は一冊の本を取り出した。今朝買った、例の本である。そっとしおりを外してから暇つぶしのために文字を追う。久しぶりの行為だ。

 オズの魔法使いのオマージュと言ったが、本当にそのままである。一つ違うことと言えば、主人公が少女でなく『感情をなくした少年』だということだ。

 私は主人公の生い立ちを読み終えたところで本から目を離した。音がした。私の視線の先には玄関から出てきたばかりの、茶髪の女がいた。何も知らぬ女は鍵をかけ、のうのうとこ

ちらに向かって歩き始める。

 私はゆっくりと本を助手席に置き、ミュージックプレイヤーに手を伸ばす。カチリとスイッチを押す感覚と共にモーツァルトが流れ始める。ああそうだ、手袋をまだしていなかった。

 女はまったくもって無用心であり、私の方を見ようとすらしない。手元の携帯端末を鏡代わりに髪をいじっている。私はハンドルを握る。

 見知らぬ車が停まっていると言うのにこの緊張感のなさ、そんなにこれから出かけるのが楽しいのだろうか。私には理解できない。

 特に感情はなくアクセルを踏む。車が加速を始めても尚女はこちらを振り向かない。しかし流石に距離が数メートルとなっては顔を上げずにはいられまい。女はそこで初めて、自分に向かって車が直進して来ているということを理解したようで、目を見開き鞄を腕から擦り落とした。口は少し開いていたがそこからは何も聞こえなかった。あっという間に女の顔が近づいて、車体全体にどんと衝撃が来た。女の体は少し跳ね、空を飛んだかと思うと再び車の進行方向へと落下した。私は目を細める。運の悪い女だ。道の端にでも落ちていればお咎めなしで済んだというのに。そう考えながらもアクセルは踏んだままで。ああ、次は乗り上げた。生々しい肉の塊を潰しているかのようだった。車体下部で軽い音が断続的に聞こえる。骨が折れてしまったのだろう。女のいた場所を通り過ぎるとアクセルからブレーキに切り替える。ゆっくりと減速し、遂に止まる。

 私はそこで残念なことに気づく。この道は一方通行、袋小路であった。そう、帰るためにもう一度女を轢いていかねばならないのだ。このままでも放って置けば死に至る状態だというのに、更に外傷を増やしてどうしようというのだろう。流石にひき逃げとは言い切れなくなってくるのではないだろうか。

 一つ溜息をつき、車の方向転換を図る。道が広いのは幸運だったと考える。

 ――そのときだった。

「ママ!」

 小さな子供。男の子、が女の家からとびだしてきた。

  まさか、子供がいたとは。

少年の駆けつけた元には、身体があらぬ方向に曲がり頭から血を流している女。

だくだくと額から血が溢れてはアスファルトを汚して行く。

少年は女に呼びかけるだけで精一杯らしかった。

私がこうして車に乗り、目の前の獲物を狙っていることには気づかずにいたのだ。

私は再びアクセルに足を乗せる。

「はあ」

  親子、と言うべきか。少年も私の方を見やしなかった。

ハンドルを握るてに力が篭る。

かわいそうな子だ。

自分の母親が何をしでかしたかも知らずに育って、そしてこれからも生き続けるならば、いつかどこかでそれを知ることになるのだろう。

酷いとばっちりじゃないか。

 10歳前後と思しき少年は、訳の分からない状況下で、ただ母親を呼び続けるしかなかった。

その引き攣ってぼろぼろな声が、私の耳をキリキリと締め付ける。

女は筋肉収縮で痙攣していた。

その手を少年が握り、必死に呼び起こそうとする。

 だが、残念ながらこの出血量、外傷性ショック。

遠目からではハッキリと判断出来ないが、おそらくもう助からない。

女の血で少年はべたべただ。

 見ていると何故か、

悲しくなる。

「……っ……」

 少年は母親とは違って、最後までこちらを向くことはなかった。アクセルを最大まで踏み込んだからだろうか、少年が単に軽かっただけなのか、少年は少しばかり空を飛んだ。そして、瞬間的に地面に叩きつけられたところを再び車体が襲う。少年の呻く声が少し聞こえた。

「……」

 ここでようやく私は車から降りる。車体に傷は付いていないだろうか、血はどうだろう。

 外は意外と暖かかった。もうすぐ冬になるにしてはぽかぽかと良い陽気だ。はて、あの二人はどうなったのか、と。

 目を向けてみれば、驚くことに少年はまだ生きていた。ぐちゃぐちゃになった母親の元へ、必死に手を伸ばしている。じりじりと、互いの距離を縮めていく。その息は荒い。少年の足は途中で千切れかかっている。血と黒の煤で汚れた服で、母親の元へ這いずる。

「…………まま……」

 か細い声だ。

 少年も出血が酷い。意識も朦朧としているのだろう、ぐらりと頭が安定性を欠く。それでもやっと母親の元へ辿り着き、抱きつくように何だか分からなくなった肉塊に倒れこむ。

 頭上の、遥か遠くの飛行機が空を切る音が聞こえる。もう、それ以外には何も聞こえない。

 少年は母親を愛していたのか、と私はぼんやりと考えて車に寄りかかる。

 とても静かだ。天気は良い。やさしい日差しが二人を照らしていた。アスファルトへ流れ

た血液と肉は、太陽の光できらきらと輝いている。

 私はただ、一連のそれを眺めていた。

 死の直前まで少年が母親を愛していたことに、私は溜息をついた。

自分はどうだろうと比べると悲しくなるのである。

私の母の名前は何だったろうか、それすら覚えていないのだから。

 私は再びホテルに向かっていた。

昼飯の時間だ。

今日の仕事はもう終わりだから、左鷺玲を連れて昼を食べに行こう。

 そうだ、スーツが届いたのだから、もう人の目を気にせずにすむ。

この辺りで美味しい店はどこだったろう。

 そんなことを考えつつ、ホテルに着く。

エントランスを横切り、駐車場へ向かう。

 そのとき。

「……!」

 ぞわり、と。殺気だった。

 はっとエントランスを見ると、黒服の男が一人、ホテルに入っていくところだった。

スーツなのに荷物は持たず悠々と歩く姿に、私は嫌な予感を感じ取った。

――奴は同業者なのではないのか、と。

 私と同じくこのホテルを紹介されたのだろうか。

 いや、それは違う。

「……っ」

 私は急いで車を乗り捨てると、ホテルに駆け込む。

ここに泊まりに来たのなら、そんな手ぶらで済まないはずだ。

少なくともハンドバッグ位はチェックインに必要だろう。

――ここに奴が来たというのはつまり、左鷺玲と私のどちらかに用があったからではないのか。

「…………っ……」

 左鷺玲が危ない。

あの部屋には武器がない。

彼女には抵抗する術がない。

錠が突破されればそれで――

「お客様」

「チェックインは済んでる」

 走ってきた私に、フロントクラークが困ったというような顔で声をかけた。

普段なら立ち止まるところだが、そうでもすればどうなるか分かったものではない。

 エレベーターに男は乗り込んだのか、階表示にはエレベーターが上に向かっているランプが付いている。

階段で行くしかない。

少し薄暗い階段に足をかける。

何もないことを祈りながら硬質の床を蹴る。

 たとえ、目的が私で左鷺玲じゃないとしても、危害が加えられないということは断言出来ない。

今の彼女は私の人質にするのに丁度良い存在だ。

 四階まで登り終わると、背広のナイフを取り出して手に忍ばせる。

再びエレベーターの前を通り過ぎてみれば、それはこの階に留まっていて、男がもう先にここに辿り着いたことを示していた。

向かいの突き当たりに部屋のドアが見える。

閉まっていて、特に変な場所も見当たらない。

これは私の思い違いだったのではないかという考えも一瞬過ぎったが、直ぐにそれは違うと思い知らされた。

 部屋のドアが開いたのだ。

 私が開けたのではない。

私とドアとの距離は縮まっていたにしろ大分離れていたのであり、ドアは内から開いたのである。私は目を凝らした。左鷺玲が自ら外に出るわけがないのだ。

 そしてやはり、ドアから出てきたのはあの男だった。

男はこちらを向かなかった。

至って冷静な足取りで反対側の階段へ歩いていく。

手元のナイフに力が入るがそんなことをしている場合ではない。

左鷺玲の安否を確認するのが先だ。

おそらく男はその間にゆっくり退散するのだろう。

悔しいが仕方ない。

追いたい衝動を抑え、私は部屋へ駆け込んだ。

「――――」

大丈夫かと問うのは野暮だった。

そんなもの、見ればすぐ分かる。

「……った、………………たかくら……さ……」

部屋の中は左鷺玲の周辺だけ切り取られたように物が乱れている。

今朝買ったばかりの分厚い本は、テーブルから滑りカバーがずれた状態で床に落ちている。

左鷺玲は首を押さえて倒れていた。入ってきた私の方に揺れる瞳を向ける。

その眼には、恐怖か驚きか、うっすらと涙が浮かんでいる。

首に刃物でも切りつけられたのかと思考を巡らす。

私が近寄ると左鷺玲は首から手をゆっくりと離し、患部を露にした。

白く美しい首筋に一つ、目立つ赤い点――――

注射。

切り付けられたわけではないが、判断は一瞬の内にしか許されない。

私は一つ深呼吸をし、

「――――――歩けるか?」

何を注射されたかは分からない。

しかし、今ここでその中身を考察している場合ではない。

「……ごめ……なさ、っ……視界がぐらぐらして……っ」

左鷺玲はぼろぼろと涙をこぼしながら弱弱しく頭を横に振る。

「分かった。君は無理をしないほうが良い」

「っ」

私は左鷺玲を抱きかかえると急いで部屋を出た。

「た、――かくらさ……?」

虚ろな瞳の少女は、どこへいくのかと問うように私の方に視線を向けた。

「病院だ。信頼できる奴がいる」

私が考えるよりその手の専門家に見てもらったほうが早い。

一階に着くと、慌しく駆けてきた私にフロントクラークが再び眉を顰めたが、今度は何か悟ったのだろう。お気をつけて行ってらっしゃいませ、と声がかかる。

ホテルの外に出ると寒い外気が肌を撫でた。左鷺玲が少し目を細める。

今の私に出来る事は、

「待っていろ、すぐに着く」

運転手として車を走らせることだけだ。

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