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第5話

  日本でビジネスホテルの数が一番多いのは水怜である。前述した通り、東京に近いことと水怜の土地価格が安い為である。今日泊まるのは今朝までいた四番地とは少し離れた11番地にあるホテルだ。歩いて行ける距離ではない為、私達はタクシーに揺られていた。隣の席に目を向けると左鷺玲がうっすら目を閉じ、ドアに寄りかかっていた。

「眠いか」

  私が声をかけると、左鷺玲はびくりと飛び起きた。

「ああ……すまん」

「はっ、……た、ごめんなさい高倉さん」

「いや……あともう少しで着くはずだ」

  窓の外の景色は、意識を移したときにはもう別の景色になっていて、このタクシーがどれだけ速いスピードでホテルに向かっているかが伺える。

「ホテルに着いたら、またすぐ仕事ですか?」

「そうだな……少しは時間があるが……いや、時間があると言っても小一時間程度か」

  私が顎に手を当ててスケジュールを思い出していると左鷺玲はこちらの方を向き、

「私にできることってないですか?」

「……できること……?」

「はい、私、高倉さんが仕事に行っている間何もしないでいるので……」

  確かに。左鷺玲は特に何もないホテルの一室で一日を過ごさねばならないことになる。彼女のような年頃の少女にこの所業、なかなか酷なものである。

「しかし、……そうだな……」

 洗濯などはホテルのサービスで気にすることはなかったし、食事も大抵外食だ。ああ、今の私は家事に困っていない。

「……悪いがちょっと、今思いつくものはない」

「そうですか……」

  肩を落とす彼女を見て、私は「どうしたものか」と思考を巡らせた。何か暇つぶしにでもなるようなものは……。

「……そうだ、君は本を読むか?」

「えっ、ああ、はい」

  突然の問に左鷺玲は驚いた様子で、

「よし、なら書店に寄って行こう。ドライバー、ここらで一番大きい書店に向かってくれ」

「ええっ! た、高倉さん?」

「……ん、本は嫌いか?」

「そうゆうわけじゃないですけど……私、今手持ちのお金ないですし……」

 わたわたと慌てる左鷺玲を見て、 私は笑った。

「君から金を取るような真似はしない。そもそもこんな状況に招いたのは私だからな、本の一冊二冊、暇つぶしになるようなものがあれば買おうじゃないか」

  左鷺玲はポカンと口を開いていた。そこに、運転手が「この通りに大型書店があります。直ぐに着きますよ」と声をかけた。左鷺玲は申し訳なさそうに、少し赤面して座席に身を預けていた。

  そうして私と左鷺玲はタクシーから降り、書店の入っているモールに足を踏み入れた。

 「人が多いですね……平日なのに」

  肩と肩がぶつかる程度ではないがモール内には人が溢れていた。子連れや夫婦、こちらはサボりの学生だろうか……。数えていてはキリがない。

  私も左鷺玲もこのモールに入るのは初めてであったから、まず地図を見つけなければならなかった。

「ええーっと、四階みたいですね」

  私よりは左鷺玲の方がこういった類の建物には強いようで、地図の場所さえ分からぬ私を誘導し、なんとか無事に書店のフロアに辿り着けた。

「ほう、確かに中々蔵書が多い」

  エスカレーターごしに私は感嘆を上げた。

  一つ下の階に入っていたゲームセンターも充分広かったが、こちらの書店は丸々ワンフロア使っているのだろうか。見える範囲内には本棚しか見当たらない。

「この位大きい本屋さんに来るの、久しぶりかもしれません」

 私より先にエスカレーターから降りた左鷺玲がそう言った。

「凄い、凄いです。高倉さん、ありがとうございます」

  その目は驚くほど輝いていて、彼女が本好きらしいことが伺えた。入口に並べられている新書を手に取っては著者の経歴を私に説明する位であるからして、相当な文学少女なのだろう。

  その説明に相槌を打ちながら、書店に来て良かったとしみじみ思った。

「高倉さんはどんな本を読むんですか?」

「私? 私は――」

  彼女も追われ身だと考えて、私は左鷺玲は一緒に本を見て回っていたときであった。

  彼女が何気なく振った問に、私は口ごもる。

 答えが浮かばなかったからだ。

「……自分では結構読んでいるつもりだったが、今思い返してみれば案外私は読書をしていない……のかもしれない」

  元々本は好きな性格だったから、学生の頃は色々読んでいた記憶はある。しかし、仕事を始めてから――特に最近は、忙し過ぎて休みをとる暇さえない。本を読むなんて小さなことさえする余裕がなくなってしまったとは、自分でも驚きだった。

 そう思うと急に本が懐かしく感じられた。

「それなら、高倉さんもこれを期に何か買ったらどうですか?」

「……!」

  不意に、私の目の前に一冊の本がずいと現れた。

「……これは……?」

  左鷺玲からその本を受け取る。一般的な文庫本で、厚さも相応。

「オススメです。ファンタジー物。高倉さん、あまりこうゆうの読まなそうなので」

「ほう。……読まなそうなジャンルを寄越すとは面白い」

  左鷺玲の予想は当たっていた。私はあまりフィクションを好んでいなかった。学生時代でも、そんなに読んだ記憶はない。数学や統計学など、理論的で現実味のあるものしか読んでいなかったように思う。

その頃の私も今の私も、理に適ったものが好きだったのだ。

「私、高倉さんって考え方が現実的過ぎると思うんです。もう少し夢が有ってもいいんじゃないでしょうか?」

「夢、か」

 左鷺玲は至って真面目な顔でこちらを見ていた。

「私ももう今年で24になる。そんな男大人に夢が必要か?」

「必要ですよ。……いえ、私にとっては、ですから高倉さんにはどうだかわかりません。……ですが、あったほうが楽しくなりますよ」

  楽しく。楽しい。その単語を聞いて、私は顔が引き攣るのを感じた。私には「必要のない」物。そして、サイトーが従属する一種の感情。私が嫌っている感情。そして、

「あ、高倉さん、私も買いたい本決まったので取って来ますね」

「ああ――」

  内なる私が私の意志に反して求めている物。

  左鷺玲が私の視界から逃れる。私は適当な相槌の後、空を向いたまま息をついた。一般的なため息だ。そして私は苦笑した。後で考えてみると、もしかするとそれは内なる私のせせら笑いだったのかもしれない。耳を澄ませばそいつの声が聞こえる気がする。――ほら、お前もそろそろ考えを直すべきだぞ、そうすれば『楽』になる――

「馬鹿が。洒落でも言ったつもりか」

  吐き捨てるように呟いた。不意に手に力がこもり、手元のそれが音を立てた。左鷺玲が選んだ私へのオススメ。粗筋の載った背表紙を上にして私の手中に収まっている。描かれている挿絵からも、オズの魔法使いをオマージュしたらしいというのが分かった。己に足りない物を探し集める物語。

「良い皮肉だ」

  得ることで快楽が増すとすれば、私は夢を求めない。私は欠陥のままで良い。

 そう決めたのだ。

 そう決めたのだ。

 暫くして左鷺玲が戻ってきた。手には厚めのハードカバー。地味な表紙であり、本の背に印字されている題名も堅苦しい。それは、彼女のような女子高生が読むような物とは言いがたい本だった。実際、左鷺玲が持ってると違和感が生じた。

「随分とまた、難しそうな本を選んだのだな」

 著リム・クレイハルト、とある。どこか、新聞か何かで見かけたことがある名だが、決して有名というわけではない。はて、どんな人物だったろうか。

「凄く丁寧な分析をされる学者さんの出している本なんです。前から興味があったのですが、なかなか財布の紐を解けなくて……」

 『性格の分類についてとその傾向』。それが本の題名であった。

「少し高いかもしれません……でも、これで暫く私、暇ということは無くなると思いますので……」

 左鷺玲は申し訳なさそうにそう言った。いや、かまわないさと適当に返事をする。私は先ほど彼女に勧められた文庫本よりそちらの方が気になっていた。

「君はこうゆう本も読むのか」

 彼女はぱちりと瞬きをする。

「どちらかと言えば君がファンタジーを読み、私がそれを読んだ方が良いのではないだろうか」

 その方が絵面的にも良かろうと。

「そんなこと言ったら、高倉さんは私が勧めた本を読んでくれないじゃないですか。なら、高倉さんがその本を読み終わったら交換しましょう」

 なるほど交渉というわけだ。

「は、君は頭が良いな。そうしたら否応なしに私はこの本を読まなければならないわけか」

 ふっ、とお互いに笑う。

「高倉さんは誠実ですね。私だったら読んだフリをしてしまいますよ」

「詭弁だな。そうしたら君は私に感想を聞くのだろうに」

 また笑って、

「そうかもしれません」

「ああ、そうだろうと思うよ」

 そうして茶番を終えて会計を済ませた。左鷺玲に勧められた文庫本は表紙が付いていて恥ずかしいのもあって、二冊ともブックカバーを付けて貰った。

 再びタクシーに戻り、時間を確認すると30分が経過していた。それを長いと見るか短いと見るかは個々人で違うと思うが、私的には色々と考えさせられた時間であった。

 これからの私はどうなるのだろうか。後部座席に身を預け、窓の外に思いを馳せる。

 どうなるかは分からずとも、絶対にこのままではいられないのだろうと、そのときの私は自覚していた。

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