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第3話

 血を浴びたのは久しぶりだ。何か拭う物を持ってくればよかったなと思う。血を滴らせてホテルに向かうわけにはいかなかったので、背広の背で顔と靴に付着した液体を拭き、革の手袋を包み、それを小脇に抱えて私はホテルの一室に戻ってきたのだった。

 「高倉さん、お疲れ様で――」

 私の姿を見た左鷺玲は、言葉を詰まらせ硬直した。

 「まだ寝ていなかったのか」

 「え、――高倉さん? どうしたんですか……っ、何があったんですか」

 部屋の入り口に備え付けられた鏡に視線を移すと、――ああ、成程と納得した。拭いたつもりの赤色は、少し黒くなってまだ私の顔にこびりついていた。指を顔に持って行き、触れるとぱりっとそれが剥がれる。

 「仕事をしてきた。ただ、今日は少し予想外なことがあった。それだけだ」

 「だ、誰かに襲われたんですか!? 早く警察と救急車を――」

 それはもっともな反応だった。血に塗れて帰ってきたら誰だってそう思うだろう。

 「いいや、襲ったのは私の方だ」

 左鷺玲の表情が引きつった。隠せるとは思っていなかったし、隠そうとも思っていなかったと言えばそうだ。しかし、まさか一日足らずで明かすことになろうとは予想外だった。もう少し、彼女には『普通の大人』として接したかった。『普通の大人』として彼女の助けが出来たら良かった。彼女が私のようにならないように助言がしたかった。だが、もうそれは無理だろう。

 私は備え付けのゴミ袋に赤黒い斑点の付いた背広を投げ入れた。

 「鍵は渡していたな、出て行きたかったら自由にしてくれてかまわないんだ」

 ネクタイを外しながらそう言った。左鷺玲は、そこに立ったまま硬直していた。ネクタイにも染みが出来ていたから一緒にゴミ袋に押し込んだ。

 シャツは辛うじて無事だった。しかし、鼻を近づけると鉄の匂いが染みていたので、これももう着れないだろうと思った。

 「どこに行くんですか?」

 左鷺玲だった。掠れかけの小さな声だった。てっきり、怯えて何も口を聞けなくなるだろうと踏んでいたので、私は少し驚いた。

 「シャワーを浴びてくる。ベタベタして気分が悪いんだ」

 私の髪は、女の血糊で固まりつつあった。こう見えても、他人の血液が身体にへばりついているのは好きなタチじゃない。むしろ、この職に就いている奴等は綺麗好きが多い。相手に自分の本性を隠して近づくのが要なのだ。血を浴びて喜ぶとしたら、そいつは殺人狂だ。

 左鷺玲はそれを聞くと頷いた。

 私はシャワールームに向かいながら、意外と左鷺玲は度胸のある少女なのかもしれないと考えた。

 喫茶店で聞いた、彼女の身の上話を思い出す。

 左鷺玲は都合上4人の母親を持っていた。そして、その4人ともすでに世を去っている。一人目は彼女が三歳のとき、二人目は7歳のとき、三人目は十二歳のとき、そして四人目は去年ーー彼女が十六歳のとき。ここまで話したとき、隣で頬杖をついていたサイトーがニヤニヤ笑って父親か、と口を出したのだった。彼女はそれにコクリと頷いた。自分の父親が殺したのだと、左鷺玲は言う。だが、毎回その証拠は出ず、不自然な事故で済まされるのだと。保険金か、と私が聞くと、それは違うと彼女は断言した。彼女の家は不景気真っ只中の日本では珍しい、裕福な家庭だった。

 では、なぜ彼女の母親は殺されたのか。

 考えられるのは一つだけだった。

 彼女の父親が、殺したいから殺した。

 彼女の父親は、異常者なのだ。

 妻を殺し続けた彼女の父親だったが、さすがに四人目となれば再婚は難しかった。そこで、次の標的に彼女が選ばれたのだった。

  どうやって四人の母親が殺されたのかはよく分かっていました、と彼女は言う。3、4年おきに母親は殺されている。その時期が近づくと、決まって父親の眼光が鋭くなる。だから、監視の目が厳しくならないうちに打開策を打ち出さなければならなかったのだ。

  そこで逃げ込んだのが実験都市『水怜』――

  私は蛇口を回した。心地良い冷たさが額に打ち付ける。嗚呼。

  逃げ込んだ先で出会ったのが殺し屋とは、左鷺玲はついていない。彼女はもっと善人に拾われるべきだった。

  水に濡れた髪を解すと女の血液が溶け、私の指先に纏わり付いた。忌々しいその感触を水に流していく。浴室のタイルに赤く滑る血液は、私の脳裏でぱちぱちと爆ぜていく。思い出してしまいそうだった。手の平を上に、シャワーの滝を受け止める。水は私の指の間からさらさらと逃げていく。

 私の父親は母をよく殴った。私の出来が悪いからだった。父親は仕事が忙しいからと、私とは口を滅多にきかなかった。代わりに私に愛を注いだのは母だった。であるから、私の出来が悪いのは全て母のせいになった。私の性格が暗いのも、勉強が出来ないのも、部屋の壁に染みがあったことも、何もかも母のせいなのだった。私は部屋の隅でぼおっとしながら、仕事帰りの父親が母を殴るのを見て、ああなんて私は駄目な子供だろうと思うのだった。母が殴られないようにと色んなことを頑張ってみたが、途中から嫌気が差して考えるのを止めた。死んだように暮らす毎日だった。もはや私は母とも話さないようになっていた。母は私を過大評価しすぎるのだった。私はそんな出来の良い子供ではないのに。それも回り回って、母を勘違いさせた幼少期の私がいけないのだと思った。母は度々、私が幼い時に成し遂げた栄光を持ち上げては褒めるのだった。私は全ての自分の行為に自信が持てなくなった。他人から何かを褒められると、私はその人物を信じられなくなった。ある時か、いつもと同じように母が殴られているのを見て、私は恐ろしいことを思っていることに気がついた。なんて、母は馬鹿なんだろうと思ったのだった。父親はずっと敵であったはずなのに、いつの間にか私は父親の方を尊敬していたのだった。私はそんな自分が余計に嫌いになった。父親は母親を殴り、私は私を憎み、一日が終わる。しかし、そのサイクルは母が倒れたことで崩壊した。母は父親に殴られて脳震盪を起こしたのだった。母は寝たきりになった。私はというと、母が倒れたことに物凄い罪悪感を感じていた。私の出来が悪いから母が倒れた。私の所為で。私が悪い。私が悪い。私が私が私が私が私が、なんとかしなければ、どうにかしなければ、いけない。いけない。

 きゅっと、何かの泣き声の様な音で私は我に帰った。私はシャワーの蛇口をひねっていた。ぽたり、ぽたりと雫が私の髪先から垂れた。肌寒かった。もうすぐ冬がやってくるのだ。ナイトウェアに腕を通し、シャワールームの電気を消した。

 眠気が襲ってきた。時計の針は二時を指していた。

 今日は、何だか疲れた。何も考えたくない。

 私は寝室に入り、立ち止った。

 「何故、君はまだここにいるんだ?」

  寝室に並んだベットの端に、彼女は腰掛けていた。私が部屋に入って来たことに気づいた彼女は、こちらを向いて恥ずかしそうに笑った。

「なんだか……眠れなくて」

「君は、私がどんな輩か分かってここにいるのか?」

  私がそう問いかけると彼女は少しだけ考えて、

 「……分かるわけないじゃないですか。だって、今日会ったばかりですよ……? それに、高倉さんは自分の事を余り話してくれませんし……」

  「私は人を殺したんだぞ? 君だって、私が血塗れで帰って来たのは知っているだろう?」

 「私は……人を殺す人が、必ず悪い人だとは思いません」

  私は言葉に詰まった。左鷺玲はこちらをじっとみつめていた。

「――私は、私の仕事は殺し屋だ。良いも悪いもない」

  左鷺玲は『殺し屋』という単語に瞬きをして、少しだけ笑った。私には何故彼女が笑ったのか、分からなかった。

「よかった」

 「よかった?」

「高倉さんが、偽善の皮を被った悪人じゃなくて、よかったです」

「どちらにせよ悪人寄りだと思うがね、私は」

 「分かりませんよ。もしかしたら悪人面の善人かもしれません」

  言い返して来る彼女に、肩をすくめた。

「そんなことを言ったら、生粋の善人だっているだろう。それに比べたら悪人は見劣りするんじゃないのか」

 「いいえ、――私は偽善の皮を被った悪人が嫌いなだけで、それ以上は好き嫌いないんです」

 「君は変わってる」

  私がそう言うと、彼女は笑った。

  彼女は、左鷺玲は変わってる。でも、嫌なズレ方ではない。優しいズレ方だ。彼女は常人より不思議な角度で優しくズレているのだった。

  私はベッドに腰掛け、携帯を取り出す。

「これから、」

  私は顔を上げた。左鷺玲は少し俯き気味に呟いた。

「もう少し、――もう少しお世話になってもいいですか?」

  彼女はどうなってしまうのだろう。私と一緒に生活をしていたら、彼女の粋な部分はどうなってしまうのだろう。折角の彼女の考え方を、こんな自分が押し殺してしまったら。それは酷く残念で、悲しいことだ。

  しかし、不思議なことに彼女にはどこか曲がらぬ信念のようなものがあって、私が接しただけでは崩せないだろうと思わせる所があった。

  私はそれに甘えてしまったのかもしれない。

  「こんな私で良いのなら」

  そう聞いた彼女は喜んだ。その姿を見て、私は何故か少し溜息をついたのだった。

  「さあ、もうこんな時間だからな。早く寝るんだぞ」

  左鷺玲はコクリと頷き、布団に潜り込んだ。

  ようやく静かになると、私は携帯を開き電話をかけたのだった。こんな時間だというのに、コール音は数回で鳴り止んだ。回線の通るガチャッという音の後に聞こえたのはサイトーの声だった。

『もしもし~?』

「私だ」

  サイトーの声はこんな時間だというのに眠気が感じられない。

『おっ、何? こんな時間に。夜の営み中、あまりにも可愛いからって衝動に耐え切れず小娘ちゃんを殺しちゃったとか? 今、丁度死体処理を安く請け負ってくれるとこがあるぜ? よかったなタカクラ』

「馬鹿が。全然違う。大体そんなことするのは、私じゃなくてお前だろう。明日の朝8時、大丈夫か?」

『ああ、そっちか。分かったよ』

「頼んだぞ、サイトー」

『ゆっくり寝ろよ、タカクラ』

  そう言って、通話は切れた。部屋に静寂が戻った。携帯を畳むとベッドに倒れ込む。

  隣を向くと、左鷺玲はもう眠っているようだった。

  彼女はどんな幕引きにするのだろう。

  私は父親を殺して幕を引いた。

  ならば、彼女はどうやって幕を引くのか。

  私はそれに興味があった。

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