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第2話

 不覚にも、私は彼女をほうって置くことが出来なかった。

 ――過去の私と、彼女の姿が重なって映ったのだ。

 「鍵は二つあるから、一つ渡しておく。ただし、私が仕事に行っている間はここから出ないでくれ。その約束を破ったら、君の命の保障は出来ない」

 私は家を持たない。仕事が仕事であるから、ビジネスホテルを転々としている。左鷺玲には、君が寝る場所を必要としているなら私と一緒に旅をするような形になるぞと、ホテルの案内中に断っておいた。彼女は私がホテル住まいだということに驚いた様子だったが、度々移動することにはあっさり同意した。狙われる身であることもあって丁度良かったのかもしれない。

 「高倉さん、あの、ベットは……」

 「向こうの部屋だ。どちらでも好きな方で寝てくれ」

 大体は仕事の報酬のオマケのようなもので、その依頼その依頼で標的を狙いやすい場所のビジネスホテルを手配してもらうのがベターだ。今回は丁度ツインで良かったと胸をなでおろす。ダブルなんかだったら大変だ。いや、そのときは私がソファで寝れば良いのだが。

 「食事は……大丈夫だったか、ああ、一応カロリーメイトは冷蔵庫の中に入っていたと思うから、食べたかったら自由に」

 「あ、はい。……ええと、高倉さん?」

 私は靴を履き直している所だった。腕時計をちらりと見、スケジュールを確認していた。左鷺玲のお陰で、ささやかながら遅れが生じているのだ。

 「他に何か分からないことがあるのか?」

 「……いえ、その、高倉さん、これから仕事なんですか……?」

 左鷺玲は壁に掛かったシルバーの時計を指さしていた。その時計は午後10時を示している。

 「ああ、そうだ」

 「そうなんですか……私、てっきり仕事終わりかと……」

 「ああ、君と会ったのは仕事終わりだな」

 「……え?」

 「えー……ああ、ちょっと、私の仕事は不規則なんだ。稀だが、今日みたいに数時間後仕事再開というのもある」

 殺しが仕事だと、言えるはずがない。いつかばれるのだからと割り切って、おそらく現在「殺人」という単語に敏感であろう彼女にそれを言ってしまったら何が起きるか分からない。女というのはたとえ幼くても厄介だ。ヒステリックを起こすと非常に五月蝿い物だし、腹が立ってうっかり手を出すと簡単に死んだりする。

 「はあ、……あ! ……もしかして高倉さんってお医者さんか何かですか? 急患とか……?」

 まったくの正反対で私は頭を抱えたくなる。本当は悪いものを、とても良いと勝手に勘違いされるのは恐ろしい。ここで肯定しても良いのだが、やはり後々面倒だ。

 「……いや、君が思っている程、私はそんな高尚な者ではない。……とにかく私は仕事に行って来る」

 あ、高倉さ――という左鷺玲の声を掻き消すように私は少し乱暴に部屋のドアを閉じた。がちゃん、と錠がかかったことを確認してからネクタイを少し直す。

 果たして、私がやっていることは軟禁と呼ばれる類に入れられてしまうのだろうか。悪気は、ないのだ。すまないな、と厚さ十cmの壁の向こうの左鷺玲に念を送った。届いたかどうかは分からない。

 ――さて。

 仕事だ。

 持ち物は右手に下がる、黒いアタッシュケース。その中には依頼の詳細紙と僅かばかりの工具が入っている。詳細紙の方はともかく、殺しに工具は必要ないだろうと思うかもしれない。だが、こいつは『水怜』を渡るに必須の相棒だ。実験都市である『水怜』には開発途中の地下水路が蜘蛛の巣の如く張り巡らされている。その地下水路と地上とを隔てているのが『laula型施錠装置』。見かけはただの頑丈な鉄の扉、しかしその扉の内には幾千ものケーブルが走っている。電子回路が組み込まれた特殊な扉なのだ。全面に指紋認証機能が付いていて、扉の端だろうと5本分の指紋が感知されれば簡単に開く。だがそれは政府公認の人物のみの話。当然、私の指紋は登録されていない。厄介なことに指紋感知機能だけではなく人体センサーも搭載されている。扉の前――扉に続く通路、もとい扉の半径10mに誰かが姿を現せば、はっきりデータが残ってしまう。当然ながら、刃物や拳銃を所持していることだって一瞬で監視局に筒抜けすることだろう。

 だが、こいつは開発途中なだけあって完璧ではない。大きな欠点がある。

 私はホテルの非常用通路を抜け、コンクリート一色の踊り場に出た。通路も暗かったが、踊り場は特に暗かった。非常灯は申し分程度に付いていたが、それ以外の照明がないのだ。

 ――大体、この辺に『そいつ』はある。

 のっぺりとした壁に手をつけ、壁との僅かな窪みを探す。窪みと言うより段差の方が正確か。探し始めて暫く、指先がそれを探し当てた。直線、少し下がって左に曲がり、また上に行く、行き止まりで右、そして下へ降りて始めに戻る。縦長の長方形だ。

 私は背広のポケットから小さなペンライトを取り出した。光が漏れないよう、左手で覆いながら長方形の端を照らす。照らされた先には小さな螺子。――当たりだ。

 ――と来れば、この工具の出番だ。アタッシュケースを手早く開け、ドライバーを取り出す。四隅に4つ。螺子を外すとステンレスの板を外す。出迎えるのは点検用のスイッチとコード類――そして、カードスロット。

 こいつが要だ。私は手慣れた手つきで革の袋からSDカードを取り出してスロットに差した。制御板が低く唸り始める。偽の、データを送り始っているのだ。スロットの横で緑のランプが点灯するのを見届けると、カードを引き抜いて再び螺子を取りつける。アタッシュケースに全て仕舞い終わると私はその場を後にした。

 先のランプは扉が開いたことを示していた。扉が開いているのは5分程度、何事も早さが肝心だった。しかし、焦る必要は不要。私は彼此7年、この仕事をしているのだから。時間や人の目に怯える私は、もうとっくにいない。

 やすやすと扉を潜ると、地下水路に出た。先程とは違い、1m間隔に青白い光が灯っている。名前に反した光景に、初めてこいつを見る人はおそらく驚きを露わにする事だろう。水路と言うくせに、水滴の一つも通っていないのだから。

実際に、水怜に水を送っているのは10年前に取り壊したことになっている旧水路だ。私が今歩いている『地下水路』の数メートル上を通っている。

 無機質なコンクリートの迷路を進みながら、私は『杵築勝春きつきかつはる』の居場所を確認していた。杵築勝春――標的の家は、3番地の辺地に立つ一軒家だ。ここは4番地であるから数箇所曲がればもう着いてしまうはずだ。

 と、私は依頼人から盗聴器を渡されていたのを思い出し、タッシュケースから小型の音楽プレイヤーに似せられたそれを取り出した。方耳にイヤホンを挿し、音量を調整する。こうゆう段取りの良い依頼人は滅多にいないので重宝だ。私の右耳に、杵築勝春のものと思われる薄笑いが響く。間違いない、自宅の一室にいるのだ。

 しかし、盗聴器を仕掛けられたのなら自ら手を下せばよいのにとも思う。

『ええ、ですから何も問題はありませんよ』

 杵築勝春は、確か若手議員、若木青葉わかぎあおばの秘書をしているはずだ。水怜は関東圏でも比較的土地が安い上、東京に電車一本で通える為に事務所の寮などが乱立している。杵築の家もそれに似た類の物だろう。しかし、引っかかるところは杵築が秘書であるということである。未だ、秘書位重要な役目を担っているならば議員本人と一つ屋根の下で暮らすのが普通なのだ。不思議に思ったので少し調べると、驚くことが判明した。――杵築は最近まで東京に住んでいたのである。

『いやあ……しかし……』

『大丈夫です。もう研究所にも話は通っているのです。若木さんからも聞いていますでしょう?後は市長殿が賛同して下されば良いのです』

 私にはそれが、わざわざ殺されに引っ越して来たかのように思えて仕方が無いのだった。東京に残っていれば、こうして私に盗聴されることもなかっただろうに。

『……すまないが、それは無理な話だ……杵築君』

相手方の声には聞き覚えがあった。ーー水怜の市長、舵目高次かじめこうじ。何故市長とも有る人物がこんな夜中に、一介の秘書である杵築の自宅に招かれているのか。私は、まったく話が読めなかった。

 盗聴機の横にはダイヤルがついていて、杵築家の各部屋の状況を自在に想像する事が出来た。かちりとまわすと、表示画面に数字が浮かぶ。私は依頼の詳細紙に書かれていた走り書きの数字を思い出す。1から8まで局はあるが、杵築の声が聞こえている4番以外からは雑音しか流れてこない。

『私はもう、……と一つ約束をしてしまっているんだ』

私はふと、足を止めた。目の前に続く通路の右側の壁には、3-d23と黒い字で刻印されているプレートが張ってあった。

杵築の自宅の地下に繋がっている筈だ。私は床にアタッシュケースを広げ、先程と同様に螺子を外していく。

『ここにこうして話をしに来たのは、さっきから言っているが、この件から手を引いて欲しいからだ』

 手慣れた動作をしながらも、私の耳は杵築と市長の会話に集中していた。殺しに理由を求めるような、野暮なことがしたいわけじゃない。――ただ、純粋に興味があったのだ。これは、おそらく何か重大な――

『いやあ……困りましたねぇ……』

  杵築はそう呟いてから、あらかさまに長い溜め息を吐き出した。そして、次の瞬間、杵築は憎々しい口調で市長に詰め寄ったことだろう。

『ですが、私も一縄筋で食い下がる男ではありませんので。すみませんねぇ』

 粗悪な音声からその状景が浮かぶということは、いかに杵築の性格が悪質であるかを表していた。以前、週刊誌で杵築の悪評が取り扱われていたことをぼんやりと思いだす。

  緑のランプが侵入の合図だった。アタッシュケースを左手に、右手でカードを引き抜くと、私は杵築宅の地下へと踏み込んだ。

  盗聴機に表示されている4という数字は、二人が二階の一室にいることを示している。階段はご丁寧に地下から一続きのようだった。

『市長殿が首を縦に振らないのであれば、私にも考えがあります――』

  きっと使用人もこんな夜中だ、床に就いた後なのだろう。板の目の廊下を失礼して一階の様子を伺うが、ただ、暗いだけである。当然、気配もない。

  二階に上ると、直に二人の会話を盗み聞きすることができた。意外と壁が薄い造りなのだろうか。私は『これから』の邪魔になるだろうと、盗聴機をポケットに押し込んだ。

  相変わらず二階の廊下も闇に包まれていた。一つ違うことは、一部屋の扉の小窓から眩い光が漏れ出ていること。間違いない。二人はこの部屋にいる。

『ああ、その考えとやらを聞きたいのはやまやまなんだがね、ほら、こんな時間だ。残念だ、本当に残念なんだが今日はこの位で――』

  市長は早く帰りたい様子だった。それは、そうだろう。相手が杵築なのだから。しかし、当然だが杵築が相手を楽に帰すわけがない。

『それならば一杯飲んでからではどうでしょう、隣の部屋にはワインを置いているのです。良いのがありますよ――市長殿にお勧めの銘柄が』

  階段に身を潜めていた私は、一段と息を殺した。これはチャンスだった。視線を駆けさせ、扉の周辺状態を確認する。特に反撃される凶器になりうる家具などは見当たらない。ただ、一つ気になるのは廊下の突き当たりに掃除用具入れがあることだった。抵抗された時にはそちらに気を付けるべきだろう。

  市長は嫌そうな反応をしていたが、やがて杵築が無理に話をまとめ、椅子から立ち上がった。カーペットと椅子の擦れる雑音が響く。

  私は、杵築の足音が此方に近づいてくるのを冷静に見守っていた。

  雉も鳴かずば打たれまい、そんな慣用句を思い出しながら。

 ドアノブがゆっくりと回転する。――未だだ、まだ――

  私はドアが開かれるのを見届ける。自然と手のひらに力が入る。早く狩りたいとばかりに、体が火照るのが分かる。毎回私はこんな自分が嫌になるのだった。私がこの仕事をしているのは『どうしようもなかった』からであり、サイトーのように『楽しい』からではないはずなのだ。そんな私の憤りとは別に、私の身体はこの仕事に『楽しみ』を求めようとする。そんなズレが私の胸の奥で大きくなりつつあるのは何とも困ったことだった。

小太りのスーツ男が開いたドアから現れる。――駆け出したい、あの男の襟首を掴んでそのまま窓から突き落としたい――きっと、それが出来たら最高に気分が良いだろう。私は次々と浮かんでくる衝動を押し殺すのに、必死に『未だだ』と唱えなければならなかった。奴が――杵築が、ドアを閉めるまで――

 「っ」

 煌々と、暗い廊下に漏れ出していた光が杵築の手によって次第に幅を狭めていき、ふっと消えた。私は、それが合図とばかりに階段から跳び出すと、隙だらけな杵築の後頭部を拳で軽く殴打する。杵築はそれに反応出来るわけがなく、突然の衝撃に息を吐き出し頭からつんのめった。だが、杵築の体が床に転がることはなかった。簡単な話、杵築を支える物があったからである。支える物――そう、私の両腕。

 私はありったけの力で男の首を絞めていた。声一つさえ男の胴体から漏らさぬように、――隙も隙間も作らせないように。

 男は必死に生きようとしていた。革の手袋の上からでも、男の血液が必死に流れようとしていたのが感じられたし、自らの首に食い込む私の指を剥がそうと体の主は精一杯もがいていた。だから、私は更に手の力を強めた。これは、ズレの生じた二人の私が両に合意したことであった。せめて、早急に楽にしてやるべきだと私の良心は決断したのだった。それが功を成したのか、男の体は一度大きく飛び跳ねてから力を失い、私の両腕に体重を委ねた。時々思うことだ。魂とは、どうしてこんなに重い物体を動かすことが出来るのだろう。両腕で男の体重を支えることが出来ないということは、やはり私には一つ分の魂しか宿っていないのだろう。私はゆっくりと男の死体を床に下ろした。

 いつも通りだった。いつも通り、仕事は終わろうとしていた。

 階段に置いたアタッシュケースを取りに行こうかと、私は低姿勢から立ち上がる。

 ――しかし、その時だった。

 私は奇妙なものを感じた。杵築の表情を見て、私は全身からどっと汗が噴出すのを感じた。――杵築は気色の悪い笑みを浮かべていた。

 次の瞬間、嫌な予感は的中することになる。

 真っ暗の廊下に、軽やかな電子音が響いたのだ。携帯の、メールの送信音に聞こえた。私は市長に目撃されたのかと思ったが、それは違った。もしかすると市長は杵築が殺されたのを知っていたのかもしれないが、それ以前の問題だった。私の視線を釘付けにしたのは、市長が残る部屋のドアではない。

 ガタガタと揺れ、中から怯えた女の声が聞こえる掃除用具入れ。

「ひっ」

 私が開けるまでもなかった。中にいた張本人は相当怯えているようで、自らバランスを崩し用具入れごと倒れたのだった。

「――あ、……あ」 

 開いた隙間から上半身を現した三十台の女性は召使らしかった。震える右手から旧式の二つ折り携帯電話がポトリと落ちて、その画面を私にわざわざ公開してくれた。おそらく、メールの送信相手が書いてあるはずだ。――残念なことに、その画面は飛び散った血肉でよく見えなかったが。

 女は救済の言葉を言いかけて、その頭を爆発させた。ぐわりと、女の面が伸びたかと思うと内側から大量の血液が私に降り注いだ。遅れて、ぼんという音が耳に入った。実際はどうだったか分からないが、私はとても驚いていた。こんなことは初めてだった。頭部を失った体は私の方に倒れこんだ。床に溜まった液体を今一度私に跳ね飛ばし、もう動くことはなかった。

 私は夢の中にいるような面持ちで二三歩歩き、床に落ちた携帯の画面を既に赤くなっている手袋で拭う。

 「カシワギ」

 カシワギ。携帯の無機質な画面には、その人物にメールを送信したことが示されていた。『sent a email ⇒ to 《カシワギ》』。

 カシワギ、カシワギと頭の中で得体の知れない苗字が何度も再生される。女の血液で汚れた窓から、闇につつまれた外の風景が見えた。

 私はふらりと後ずさって我に返った。市長に見つかる前にこの家から逃げなくてはならない。慌てて見ると、靴にも血液が付着していた。私は今までにないような焦りを感じていた。早くなる鼓動を鎮めながら靴を脱ぎ、走った。階段を駆け降り地下に続く扉に到達すると、上から市長の叫び声が聞こえた。惨状を目の当たりにしたのだろう。

 この時、私は凄く久しぶりに、制御板の螺子を床に落下させたのだった。

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