彼女の名は
身に纏っているセーラーからも予想はついたが、高校二年生であるらしい。
私は歩きながら大事な話をするのは好まないので、ここに着くまでは終始無言だったのだが。私の反応がないことに焦ったらしい彼女が自ら吐露した情報がこれである。
素直に「話すのに適する店を案内する。詳しいことはそちらで」と、説明すればよかったのだろう。
赤褐色で統一された一席に腰を下ろした所で、私は始めて彼女の顔をまじまじと見詰めた。
「あ、あの――」
黒々とした髪はやっと肩に着く位の長さで、その先端は内側に向かってくるりと巻いている。肌は病的なまでに白い。こちらを見詰める藍がかった黒色の瞳は時折困ったように右下に逃げる。左鷺玲は全体的に華奢であった。
「私、今手持ちなくて……」
「ああ、大丈夫。連れて来たのは私だ。私が払う。……夕飯の時間にはまだ早いが、食欲があるなら軽食でも付き合おう」
「あ、いえ、家で一応食べてきたので……飲み物だけで大丈夫です」
予め食事をとってくる、ということは前々から計画でもしていたのだろうか。ますます彼女が分からなくなった。
「本当に……なんだか、こんなことしてもらってすみません……突然声をかけたのは私なのに」
メニューと睨めっこをしていた彼女は、自分の方に無言で視線を向けている私に気づくと、なかなかメニューを決めないことに気分を害しているのではないかと余計な勘違いをし、「みっ、みみ、ミルクティーで」とメニューを床に落っことして叫んだ。私的にはもっと肩の力を抜いて欲しいのだが、私の直らない仏頂面では叶わぬ願いだろうか。
「高倉拍碁」
「え、あ、あの」
「私の名前だ。君はさっき名乗っていただろう」
私は片手を軽く上げてウェイターを呼ぶと、彼女のミルクティーと私のコーヒーを頼んだ。私はこちらのテーブル席にはあまり座らないので、こうして注文するのは珍しかった。大体はカウンターで済ましてしまうのだ。
「先に言っておくが、多分私は君を助けられないと思う」
彼女が目をぱちぱちさせ視線をテーブルに持って行き、華奢な右手でさらりとした黒髪に触れた。動揺しているのだろう。
「だがね、私も君に話しかけられてしまった以上、何かの手助けはしなければならないと思っている。その手助けが君の悩みと合致すれば良いのだが、希望に沿えなかった場合には――たとえば、君を助けてくれる人を探すとか。それなりのことは出来たら良いと思っているんだ」
「だから、君も肩の力を抜いて話して欲しい」
彼女は驚いている様だった。
「あ――あ、ありがとうございます。あの、でも、私、たかくら――高倉さんしかいないなって思ったんです。助けてくれる人は、高倉さんしかいないなって」
「……私と君は、実は前に会ったことがあるのか?」
彼女の言い方では、以前から私の素性が知れていたかのようだったが。
「あっいえ、そうゆうことじゃないんです。……実は私、住んでいるのは東京で……今日は電車で初めてここに来て……」
ここは、埼玉だ。埼玉は東京と隣り合わせであるけれど、当たり前だが景色もそこにいる人も違う。確かに見知らぬ地に来たのであれば不安だろう。しかも、彼女が足を踏み入れたのは国内で一つしかない実験都市、『水怜』なのだ。
もしや、彼女が助けを求めたのは道案内だったのだろうか、という考えが過ぎったが、それは違うと断言できた。ならば、自分の名前を名乗る必要などないからだ。互いに名を交換するということは、長期での関わりを持つということ。私は確信する。彼女は、水怜に来なければならなかった用事があるのだ。それも、何か大きな。
「駅から人を探してたんです。私を助けてくれそうな人を……。家にいるときは誰でも良いやって思っていたんですけど……私、馬鹿ですよね、こんな時間に。駅から出てくる人は家に帰る為に心を捨てて歩いていて、駅に吸い込まれていく人は仕事をきっちりやり遂げようとするので精一杯。一回だけ、優しそうな女の方に声をかけたんですけど……やっぱり声は返ってこなくて。もっと簡単に行くと思ってたんです。それで、どうしようもなくて駅から外れて裏通りに入ったら――」
「君は私と出会ったわけか」
「……はい。忙しそうに歩く人の中で、高倉さんだけが生きているように見えて。どうしてなのかは分からないんですけど」
「私が生きている?」
「えっ、あ、いえ、唯の表現で」
人の道を外れた私が、人として生きていると。純粋な彼女にはそう見えたと。
これは素晴らしい皮肉ではないか。
私はいつの間にか歯をうっすらと見せ、口角を吊り上げていることに気がついた。というのも、目の前の彼女の視線があっちにこっちに逃げ惑っていたから分かったことである。急いで口元を手で隠すが彼女はまだ何か言いたげであり、それが何か考えていると、これが答えだとばかりに肩に衝撃がきた。
「タカクラぁ」
答えとは――私の肩を叩いた手を上げ、眼鏡のレンズの奥で笑うスーツの男。
「何だ何だぁ? 最近の女子高生は彼氏が浮気してたからとかの理由で殺しちゃうのかい?」
「えっ、あ、あのぅ……?」
男はニヤニヤしながら私達と隣の席に腰を下ろした。左鷺玲はおろおろと私を男の顔を交互に見た。私はため息をつく。厄介な奴と遭遇してしまった。
「サイトー」
私がそう男に声をかけると、男は眼鏡を上に押し上げた。
「彼女は依頼人じゃない。一般人だ。妙なことを吹き込むのはやめてくれよ」
「一般人? ……ふぅん、そう」
サイトーはそう言うと、ふてくされた様にそっぽを向いた。
そして間も無く、ウェイターがコーヒーとミルクティーを運んできた。ことりとソーサーごとカップが置かれる。引き立ての豆の上品な香りが、暖かい湯気と共に立ち昇る。私は少し目を閉じてその香りを堪能する。コロンビアをベースに、エリア指定のブラジルとマンデリン。どんなにその日の仕事で疲れていても、私はこのコーヒーを服すること望む。あの「最初の日」、私はそうゆう風に組み込まれたのだ。そう、コーヒーはこうでなければいけない。視線を送ると、左鷺玲もまた、目の前に置かれたミルクティーの繊細な世界を感じている様だった。
「――しかし、だとすればいわくつきだな」
この一時に割りこむのは、サイトーらしいと言えばらしい。以前にそうゆうことは何度もあったのだし、会話中にコーヒーに現を抜かしている私の方がマナー違反といえばそうなのだ。そして、真面目なことを言った次にいつものつり上がった口でウェイターに注文を頼むのも、サイトーらしいと言えばらしいのだった。
「クリームソーダとはまた、甘ったるいものを」
「甘ったるい? クリームソーダ如きで甘ったるいとか言っていたら、ろくに和菓子も食えないだろうよ。――それより、否定しないってことはそこの小娘ちゃんは本当にいわくつきだってことなのか?」
「馬鹿」
コーヒーを口まで持って行き、私は一言そう言った。
サイトーはぴくりと眉を動かし、怪訝な顔になる。
「馬鹿と言った。お前が突然やって来てしゃべり出すから彼女が困っているだろ。『彼女と』話したいから彼女をここに連れてきたんだ。『お前と』じゃなく、な。こっちの会話を遮るのはやめてくれ。――それと、」
「それと?」
「彼女がいわくつきかどうかは、本人の彼女に聞いてくれ」
サイトーの視線が左鷺玲に注がれるのが分かる。当の左鷺玲はというと、必死に私の方に視線のSOSを送っていた。私はそれに首を左右に振って答える。
その必要は、ないのだ。
クリームソーダになります、と。
細長いソーダグラスがサイトーの席に運ばれてきたからである。
「ふう。小娘ちゃんは運が良いな。――どうぞ、お二人でゆっくりおしゃべりしてな」
サイトーはソーダスプーンを手に取ると、左鷺玲に向けていた視線を目の前のソーダグラスに注ぎこんだ。そう、サイトーも私と同じ。クリームソーダは奴にとって一種の催眠術みたいなものだった。サイトーはそれを食らうのに、仕事で使うのと同じ集中力で対応する。だから、サイトーがクリームソーダを口に運んでるときにそれを邪魔すれば、背広のどこかに隠された拳銃で一瞬の判決が下される。
「え、えと――高倉さんの……お知り合いなんですか?」
ミルクティーのカップを両手で持っている左鷺玲が口を開いた。
「ああ。私の仕事仲間だ。しかも唯一の同期でな」
彼女は少々生真面目すぎるのではないだろうか。クリームソーダを解体していくサイトーに、すかさず自己紹介をしようとするので手で制した。
「それで、結局のところ、私は君に何をしたらいいのかい」
私がそう問うと、彼女は「あ、はい」と受け答えしてミルクティーに視線を落としたっきり黙りこんでしまった。
これは困ったな、と思った。もしかして、それは私が判断しなければいけなかったことなのだろうか。初対面の他人に無茶なことを頼めないから、と困っているのだろうか。私は隣席のソーダグラスの緑色が段々下降していくものだから気が気ではなかった。私の方から何か切り上げるべきかと、一つ咳払いをした所で――
「あの、大変不躾がましいんですがっ……――私を、……」
「――匿って頂けないでしょうかっ!」
左鷺玲が声を上げた。と、一歩遅れて鳴り響くゴング。それは、ソーダスプーンが置かれるかちりという音だった。頭の中でサイトーが『いわくつき――』とささやく。
「匿う……?」
「は、はいっ! 私は先も言った通りに手持ちがなく――出来たら高倉さんの家に泊まらせていただけたら」
「はあ」
サイトーが横でクスクス笑っているのが分かる。
「あっいえ、その、今晩だけでも、いや、そうではなくて――」
「ちょっと待て」
「……はい?」
「今、匿う……と、言ったのか?」
「そ、そうです」
匿うとは、追われている人物を隠すことではないか。――追われている?
私は背筋が凍るかのようだった。
「一つ聞いて良いか? ――……君はどうしてここに来たんだ?」
私はコーヒーカップをゆっくり置いた。窓の外で少し橙がかっていた空は、とっくに夜の色になっていた。店の傍に佇む街灯がぼんやりと光っている。
私の目の前に腰かけている左鷺玲は、紺碧の瞳をこちらに向けて深刻な事態を告げた。
「あのまま家にいたら……私……――父に、殺されてしまう所だったんです」