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第55話 幸せ

 なおこの時の事は、後になってもまとめる事は決して出来無い。何故ならもう俺は、何も書く必要が無くなったからでもあったし――三人が決して俺に話してくれないという理由もある。不思議なものだ。書く事が存在証明だとあれほど思っていたはずなのに、憑き物が落ちたかのように俺は書かなくなった。

 時島達が来てから、もう三日が経過していたらしかった。

 俺はその間、眠っていたのだと繰り返された。

 寺の誰に聞いてもそれしか話してはくれなかった。けれど俺は、鎌の生々しい感触を覚えている。

 五日目――時島と紫野が帰る日になった。

 そこには、右京の姿があった。

「帰ろう、左鳥」

「ああ……」

「紫野さん、それで良いですよね?」

「まぁ、俺としては良いってわけでもないけどな。東京にはいつ戻ってくるんだ?」

「未定です」

 どうして右京は、紫野に確認を求めているんだろうか。そう考えていると、右京が続いて泰雅を見た。

「泰雅さん、お世話になりました」

「俺は良いとは言ってないぞ?」

「それじゃあお寺に監禁されているって噂立てちゃいますよ。警察沙汰だ」

「やめろ」

 三人が冗談めかしたそんなやり取りをしている所から、少し離れた場所に、俺は立っていた。

 俺の隣には時島がいる。

 その時、人目があるにも関わらず、時島が俺の手を静かに握った。

 狼狽えて、手と、時島の顔を交互に見る。

「これからは、ずっと俺が左鳥を守る」

「ずっとって……」

 俺はそんな曖昧な言葉は、もう信じたくはない。それに縋って生きる事は辛すぎた。

「そばに居させて欲しいんだ」

「いられないだろ。実家、大変なんだろ?」

「――出てきた」

「え?」

「しばらくは姉さんに頼んである。確かにいつかは戻らなければならないのかもしれない。ただな、俺は、俺だから。左鳥に会いたくて、触れていたくて――ああ、遅いな、どうして今まで言えなかったんだろう。頼む左鳥、そばに居させてくれ。俺についてきてほしいとは言わない。俺の方が、左鳥が何処に行こうともついていくから。今度こそ、ずっと一緒にいる。もう手を離したりしない。だから、一緒にいてくれ」

「時島、何言って――」

 俺は人目を気にした。その結果耳に入った、『一緒にいたい』以外の部分が、すっぽりと頭から抜け落ちて、時島が何を言いたいのか、分からなくなった。

「……――何が言いたいんだ?」

「好きだ、左鳥。愛してる」

 そのたった一言に、俺の体は動きを止めた。今度は、時島の声しか聞こえなくなる。

「お前な――……あのな、そんなの……だから、その」

「左鳥、好きだ」

「時島、だから」

「好きなんだよ」

「時島」

「左鳥」

 顔を上げて俺は、真剣な表情の時島を見た。

 そして気づけば、唇を動かしていた。後ほど、弟には、空気に呑まれたのだと説明する事になるのだが、この時は、俺と時島、二人だけがこの世界に存在するような、そんな感覚だったのだ。

「俺も好きだよ。来てくれて、有難う」

 それが俺と時島の再会で、再開だった。

 それから時島は、近所の温泉に宿を取っていると言って、初めの日に乗り付けた車でそちらへ向かった。紫野の事も送っていくと言っていた。

 以降、二週間ほど時島は俺の実家のそばにいた。俺は近くの温泉に時島を連れて行ったり、椚原に時島を連れて行ったり――正確には、時島に車で連れて行ってもらったのだが、とにかく出かけ回った。出かける度に、酷く息切れがして、俺は相当体力が落ちているのだと気づいた。何だろう、歳だろうか?

 ――ちなみに椚原では、祖父が家に入れてくれなかった。しかし、庵に立ち寄れたので良かったという事にしておく。

 そんな時島が、二週間目に言った。

「左鳥、戻ろうかと思うんだ」

「実家に? 東京に?」

「……取り敢えず、東京に」

「良いんじゃないか?」

「一緒に来て欲しい」

「え、それは……そのほら、俺は家も引き払っちゃったし……」

「嫌なら、はっきりと言ってくれ」

「そういうわけじゃないんだけど……」

「その場合は、こちらに新しく家を借りないとならないからな」

「え?」

「なんだ?」

「帰らなくて良いのか?」

「――俺の帰る場所は、左鳥の隣だ。左鳥の帰る場所も、俺の隣であって欲しい」

「時島、何言ってるんだよ。お酒も入ってないのに」

「本気だからな」

「本気って……」

「嫌か?」

「……」

 俺は、嫌じゃない。嫌だと思わない自分に、少しだけ悲しくなった。

 そして、時島がそばにいてくれるだけで満たされる自分に気がついていた。

「もう目の届かない所に左鳥を置きたくない」

「それって蛇の執着?」

「蛇なんて関係ない。俺の嫉妬だ」

「嫉妬……っ……」

「寂しい思いをさせたんなら――もし俺の不在を寂しいと思ってくれたのであれば、謝る」

「あたりまえだろ。寂しいに決まって……そんなの。連絡も無いし、会いにも来ないし……」

「ごめんな」

「時島……」

「これからは左鳥に寂しい思いをさせないから。お前のためなら、俺はなんでもする、したい、その事に、今更気づいた。左鳥が好きだ」

「だから、俺も――」

「お前の事が好きだ。好きなんだ。だから今度こそ、俺だけの左鳥になってくれ」

「――時島、俺は、その、さ。時島が思ってるほど純粋でも綺麗でも無いと思うよ。言ったら嫌われると思う事が沢山あるんだ」

「それがなんだ?」

「なんだって……」

「全部含めて、お前はお前だ。俺はそれで良いと思う。そんな左鳥が大好きなんだ。俺は何も知らないのかもしれない。それでもな、これだけは分かるんだ。お前の事を愛してる」

 重ねられる愛の言葉に、胸が苦しくなった。

 とっくに答えなんて、俺の中では決まっていた。

「俺も、時島の事を、愛してる」

 俺の言葉に、時島が驚いたような顔をした。まるで気づいていなかったというような顔だったから、思わず笑ってしまいそうになった。

 それからの俺達の行先は、白紙だった。真っ白だ。何せそれが、『今』だからである。

 これから、俺達は何処に行くのだろう?

 その答えを、俺達自身もまだ知らない。ただし二人でゆっくりと考えていこうと思う。それで良いような気がした。だから俺は、『今』は、ただ――こうやって時島の腕の中にいる。その温度に絡め取られながら、幸せだと感じている。もう――鐘の音は、俺を追いかけては来ない。

 だから、このイメージは、ただの俺の妄想だ。俺は、時島の首を刎ねて、その血肉を食べたりはしていない。

「先生、次の患者さんは――……」

 ――  完 ――

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