なおこの時の事は、後になってもまとめる事は決して出来無い。何故ならもう俺は、何も書く必要が無くなったからでもあったし――三人が決して俺に話してくれないという理由もある。不思議なものだ。書く事が存在証明だとあれほど思っていたはずなのに、憑き物が落ちたかのように俺は書かなくなった。
時島達が来てから、もう三日が経過していたらしかった。
俺はその間、眠っていたのだと繰り返された。
寺の誰に聞いてもそれしか話してはくれなかった。けれど俺は、鎌の生々しい感触を覚えている。
五日目――時島と紫野が帰る日になった。
そこには、右京の姿があった。
「帰ろう、左鳥」
「ああ……」
「紫野さん、それで良いですよね?」
「まぁ、俺としては良いってわけでもないけどな。東京にはいつ戻ってくるんだ?」
「未定です」
どうして右京は、紫野に確認を求めているんだろうか。そう考えていると、右京が続いて泰雅を見た。
「泰雅さん、お世話になりました」
「俺は良いとは言ってないぞ?」
「それじゃあお寺に監禁されているって噂立てちゃいますよ。警察沙汰だ」
「やめろ」
三人が冗談めかしたそんなやり取りをしている所から、少し離れた場所に、俺は立っていた。
俺の隣には時島がいる。
その時、人目があるにも関わらず、時島が俺の手を静かに握った。
狼狽えて、手と、時島の顔を交互に見る。
「これからは、ずっと俺が左鳥を守る」
「ずっとって……」
俺はそんな曖昧な言葉は、もう信じたくはない。それに縋って生きる事は辛すぎた。
「そばに居させて欲しいんだ」
「いられないだろ。実家、大変なんだろ?」
「――出てきた」
「え?」
「しばらくは姉さんに頼んである。確かにいつかは戻らなければならないのかもしれない。ただな、俺は、俺だから。左鳥に会いたくて、触れていたくて――ああ、遅いな、どうして今まで言えなかったんだろう。頼む左鳥、そばに居させてくれ。俺についてきてほしいとは言わない。俺の方が、左鳥が何処に行こうともついていくから。今度こそ、ずっと一緒にいる。もう手を離したりしない。だから、一緒にいてくれ」
「時島、何言って――」
俺は人目を気にした。その結果耳に入った、『一緒にいたい』以外の部分が、すっぽりと頭から抜け落ちて、時島が何を言いたいのか、分からなくなった。
「……――何が言いたいんだ?」
「好きだ、左鳥。愛してる」
そのたった一言に、俺の体は動きを止めた。今度は、時島の声しか聞こえなくなる。
「お前な――……あのな、そんなの……だから、その」
「左鳥、好きだ」
「時島、だから」
「好きなんだよ」
「時島」
「左鳥」
顔を上げて俺は、真剣な表情の時島を見た。
そして気づけば、唇を動かしていた。後ほど、弟には、空気に呑まれたのだと説明する事になるのだが、この時は、俺と時島、二人だけがこの世界に存在するような、そんな感覚だったのだ。
「俺も好きだよ。来てくれて、有難う」
それが俺と時島の再会で、再開だった。
それから時島は、近所の温泉に宿を取っていると言って、初めの日に乗り付けた車でそちらへ向かった。紫野の事も送っていくと言っていた。
以降、二週間ほど時島は俺の実家のそばにいた。俺は近くの温泉に時島を連れて行ったり、椚原に時島を連れて行ったり――正確には、時島に車で連れて行ってもらったのだが、とにかく出かけ回った。出かける度に、酷く息切れがして、俺は相当体力が落ちているのだと気づいた。何だろう、歳だろうか?
――ちなみに椚原では、祖父が家に入れてくれなかった。しかし、庵に立ち寄れたので良かったという事にしておく。
そんな時島が、二週間目に言った。
「左鳥、戻ろうかと思うんだ」
「実家に? 東京に?」
「……取り敢えず、東京に」
「良いんじゃないか?」
「一緒に来て欲しい」
「え、それは……そのほら、俺は家も引き払っちゃったし……」
「嫌なら、はっきりと言ってくれ」
「そういうわけじゃないんだけど……」
「その場合は、こちらに新しく家を借りないとならないからな」
「え?」
「なんだ?」
「帰らなくて良いのか?」
「――俺の帰る場所は、左鳥の隣だ。左鳥の帰る場所も、俺の隣であって欲しい」
「時島、何言ってるんだよ。お酒も入ってないのに」
「本気だからな」
「本気って……」
「嫌か?」
「……」
俺は、嫌じゃない。嫌だと思わない自分に、少しだけ悲しくなった。
そして、時島がそばにいてくれるだけで満たされる自分に気がついていた。
「もう目の届かない所に左鳥を置きたくない」
「それって蛇の執着?」
「蛇なんて関係ない。俺の嫉妬だ」
「嫉妬……っ……」
「寂しい思いをさせたんなら――もし俺の不在を寂しいと思ってくれたのであれば、謝る」
「あたりまえだろ。寂しいに決まって……そんなの。連絡も無いし、会いにも来ないし……」
「ごめんな」
「時島……」
「これからは左鳥に寂しい思いをさせないから。お前のためなら、俺はなんでもする、したい、その事に、今更気づいた。左鳥が好きだ」
「だから、俺も――」
「お前の事が好きだ。好きなんだ。だから今度こそ、俺だけの左鳥になってくれ」
「――時島、俺は、その、さ。時島が思ってるほど純粋でも綺麗でも無いと思うよ。言ったら嫌われると思う事が沢山あるんだ」
「それがなんだ?」
「なんだって……」
「全部含めて、お前はお前だ。俺はそれで良いと思う。そんな左鳥が大好きなんだ。俺は何も知らないのかもしれない。それでもな、これだけは分かるんだ。お前の事を愛してる」
重ねられる愛の言葉に、胸が苦しくなった。
とっくに答えなんて、俺の中では決まっていた。
「俺も、時島の事を、愛してる」
俺の言葉に、時島が驚いたような顔をした。まるで気づいていなかったというような顔だったから、思わず笑ってしまいそうになった。
それからの俺達の行先は、白紙だった。真っ白だ。何せそれが、『今』だからである。
これから、俺達は何処に行くのだろう?
その答えを、俺達自身もまだ知らない。ただし二人でゆっくりと考えていこうと思う。それで良いような気がした。だから俺は、『今』は、ただ――こうやって時島の腕の中にいる。その温度に絡め取られながら、幸せだと感じている。もう――鐘の音は、俺を追いかけては来ない。
だから、このイメージは、ただの俺の妄想だ。俺は、時島の首を刎ねて、その血肉を食べたりはしていない。
「先生、次の患者さんは――……」
―― 完 ――