――泰雅の家のお風呂は、温泉だ。といってもごくごく小さなものだから、せいぜい二人、基本的には一人で入る代物だ。
俺は今、そこに紫野と入っている。
時島は泰雅と先に飲んでいると言っていた。
「それにしても紫野、久しぶりだなぁ」
「それ俺が言っても良いか? みずくさいってやつだろ、いきなり帰るなんて」
「悪い。なんだか、ちょっとな――それより、どうして二人はここに?」
「来ちゃダメだったか?」
「そういうわけじゃないし、そういう意味じゃなくて――なんで泰雅の家に?」
純粋に疑問に思って俺が問うと、紫野が微笑した。
「お前、寺生まれのTさんって知ってる?」
「は?」
「や。緋堂さんもイニシャルTだよな」
「何の話だ?」
「怖い話」
「ああ、右京が好きな、寺生まれの話か」
「右京君に聞いたんだよ。ここにいるって」
「右京に?」
「そ。それで左鳥の顔でも見に行くかっていう話になったんだ」
そういうものなのかと俺は考えた。その時、まじまじと紫野が俺を見た。正確には俺の体だ。
「痩せたな」
「そう?」
「ああ。あー、キスマーク」
「嘘だろ?」
「うん、嘘」
自覚が無かったから、俺は自分の胸の下に触れ、そして驚いた。
肋骨が浮いていた。
元々そう太っていたわけでは無かったが、ここまで痩せていた記憶も無い。
「そろそろ出るぞ、左鳥」
「え、もう?」
「のぼせたら困る。お前、最後に一人で入った時も、のぼせて倒れたんだろ?」
「は?」
「目が離せないって緋堂さんが嘆いてたぞ」
「嘘だよな?」
果たしてそうだっただろうか。確かに記憶を掘り返してみると、最近は泰雅と一緒に風呂に入った記憶しか無かった。その記憶も、昨日や一昨日の事であるはずなのに、何故なのか霞がかかっている。言われてみれば、頬が火照っているような気もした。こんな時には、風呂上がりの麦酒が飲みたい。
上がろうとした時、俺は立ちくらんで、転びそうになった。
視界が明滅する。しかし覚悟したお湯の飛沫は上がらなかった。紫野が俺を支えてくれたから転倒を免れたのだ。
「大丈夫か!?」
「平気だって」
紫野は大げさである。思わず苦笑すると、紫野が肩を落とした。
それから俺は泰雅に借りている服を着た。紫野は、先に風呂に入った時島と同じで、寺から寝巻きの和服を借りている。俺も最初の頃は借りていたなと思った。泰雅の服を着るようになったのは、いつからだったのだろう。ところで、俺はいつから寺にいるのだったか。思い出せない。
それにしても……俺にとっては、時島や紫野も、泰雅も、等しく『友人』だ。
――時島はちょっと特別かもしれないが。俺は一時期、自分達が恋人同士だと信じていた。しかし今はもう、自然消滅してしまっている。
そんな時島や紫野の口から『緋堂さん』という名前が出ると、少し違和感があるのだ。
「あがったのか。思ったより長かったな」
「いつもよりは早い」
座敷に戻ると、日本酒の猪口を持った時島が振り返り、その正面では一升瓶を持った泰雅が笑っていた。
「――いつも?」
「いつも一緒だったからな。それが何か?」
「緋堂さん、左鳥は――」
「左鳥の事を、今一番よく知っているのは俺だ」
どこか喧嘩腰の時島と泰雅の姿に首を傾げながら、俺は二人の間に座った。
紫野はといえば、時島の隣、俺と時島の中間に座った。
長方形の机の上には、様々な来客用の料理が並んでいる。
食欲をそそる。思わず手を合わせてから箸を取ると、紫野に苦笑された。
「食欲はあるのか」
「何言ってんだよ紫野。まるで人をさっきから病人みたいに」
――忘れていた鐘の音が響いてきたのは、その時の事だった。
「!」
直後に停電した。
ああ、やめてくれ、もうやめてくれ、東京の友人達には――時島と紫野には……頼むから……時島にだけは知られたくない。知られたくなかった。
俺は両手で耳を覆いながら、この場から逃げ出したくなった。その思いに素直に立ち上がり、部屋の襖に手をかける。
俺はここにいてはいけない。
時島を巻き込んではいけない。
勿論紫野なら良いわけでは無かった。そもそも本来であれば、泰雅の優しさに甘える事もいけなかった事なのだ。そう考える間も高い鐘の音が響き続ける。俺の頭を侵食し、何も考えられなくさせていく。だから無我夢中で戸を開け、外へと出ようとした。その時だった。
「左鳥」
誰か――だなんて、分かりきっていた、俺はその温度を知っていた。時島が、俺を抱きしめた。なだめるように、あやすように、耳元で名を呼ばれた。その声は決して大きいものでは無かったが、俺にはそれ以外の音の何もかもが消えて無くなったように感じた。勿論錯覚だ。ああ、ああ、鐘の音がする。鐘の音だ。鐘だ。鐘が追いかけてくる。追いかけてくるのだ。逃げなければ、逃げられない、ああ、嗚呼。
「左鳥、落ち着け」
時島の声がする。
「時島さん離すな」
「言われなくてもな」
「時島、緋堂さん。喧嘩してる場合じゃないだろう」
暗闇で、そんなやり取りを聞いた。俺が開けかけていた襖を閉めたのは、紫野だった。
泰雅が蝋燭に火を灯す。念珠の音がした。
その炎を見た瞬間、俺の中で緊張の糸が途切れ、俺は時島の腕に体を預ける。
いつの間にあったのか、部屋の四方にも蝋燭が置かれていて、それが同時に点った。
驚いて視線を彷徨わせていると、不意に泰雅が手にしていた燭台の火を吹き消した。
するとそれまでは明かりに気を取られて見えなかった廊下の外の影が、一気に見えるようになった。俺はその時、視覚に捉えた。並ぶ六人の修行僧と――それらを口を開けて、正面から待つ大蛇。このままでは、喰い殺される。え、あれ、誰が? そうだ、あれは、六人の――六人? 止めろ、止めてくれ、もう追いかけてこないでくれ、え? なぜ笑ってるんだ、そうだ、そんな俺を見て、お前はいつも笑っているんだ。俺を見ているお前は誰だ? 何故俺を、祝福しながら笑っているんだ。『自分の代わりになってくれて有難う』――笑う、嗤う、八人目。それは誰だ? 嗚呼、俺だ。それはもう俺なのだ。あの場にいたのは、六人では無かった。俺を入れて七人だ。では、俺を見ている八人目は? いいや、そんなことよりも、確かなことが一つだけある。彼らは――……
「やめろ、止めてくれ、それ、は」
それは、俺の友人だ。
俺が殺して喰った友人なのだ。
蛇に喰われて終わらせてしまって良い相手じゃない。
俺が、終わらせなければならない。
――早く、終わらせなければ。何もかも。
「左鳥!!」
その時叫んだのは、一体誰だったのだろう。