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第50話 季節

「――左鳥?」

 時島の声で俺は目を覚ました。

 俺は時島の腕の中で、びっしょりと汗を掻き、ただ瞬きを繰り返す。

 息苦しさに体が震えた。俺は今、何を視ていたのだっけ?

「寒いのか?」

「……馬鹿。こんな真夏に」

「左鳥?」

「え?」

「今は冬だぞ」

 その言葉に怖気が走り、俺は勢いよく起き上がろうとして――抱き寄せられた。

 それでも窓の外には、確かにその日珍しく東京で降った霙を目にしたのだったと思う。

 リゾートバイトに出かけてから、三ヶ月が経とうとしていた。

 ――いつか、あの時の話も書こう。

 しかし何故時島が隣にいるのか――それはとても自然な事であるはずだったのに、一時俺には分からなくなった。ただその腕の温もりだけは、真実だった。これは――俺が、思い出しつつ記述して、時系列が混乱したからではない。紛れもなくこの時、『今』、俺はそう思ったのだ。

「なぁ時島……海、行ったんだよな」

「ああ。たった数ヶ月しか経ってないのに、懐かしいな」

「リゾートバイト……どうなったんだっけ?」

「左鳥」

「はは、記憶力が……」

「――左鳥は、ついてたんだ」

「え?」

 帰ってきたのは、いつもの『つかれていた』では無かった。ついていた? 運気か? 良い事など、何かあっただろうか? 時島の腕に抱かれた以外にあった覚えがない。では――憑いていた? 俺が? 俺が生霊にでもなったのか?

「左鳥、大丈夫だから。左鳥のそばには、俺がずっといるから」

 俺はこの時、この『ずっと』なんていう曖昧な言葉を信じた。

 大切な『約束』だと感じていたのだ。

 ただ時島がそばにいてくれるだけで、救われる気がしていた。

 俺は、恐らくとっくに、時島の事を特別視していて――時島の事が好きだった。好きになっていたのだ。

 それに気がついた瞬間だった。何でもない、ある日、不意に気がついたのだ。

 時島の腕に額を預け、目を伏せる。

「時島、俺、その」

「なんだ? クリスマス前に振られるのは凹む」

「そういう俗な事、気にするんだな」

「悪いか?」

 ――時島は、もうずっと長い間、俺の事が好きだと、言ってくれていたではないか。

 そう思えば、胸がじわりと温かくなった。

 だが……『今』になって、思えば――ただ俺は縋っていただけなのかもしれない。「俺は時島の事――」

「嫌いじゃない、か?」

「ううん。好きだと思う」

 目を伏せたまま告げた俺の隣で、時島が息を呑んだ気配がした。

 時島の反応が怖くて、俺は顔を背けようとする。

 けれど頬に手を添えられ、強制的に時島の方を向かせられた。

「本当か?」

「っ、え、あ」

 自分が何を口走ったのか、一拍遅れて、はっきりと自覚した。

「左鳥。俺の、恋人になってくれるか?」

「それ、は」

「俺だけの左鳥でいてくれるか?」

「待ってくれ、時島」

「もう待てないんだ」

 そう言われ、深く唇を貪られた。

 その柔らかい乾いた唇の感触に、俺の体は震えた。多分歓喜で。

 俺の中の蛇の残り香が、騒いで蠢いた気がした。その残り香も恐らく歓喜していた。

 ――その日から、暫くの間、俺には、幸せな一時が待っていた。

 例えば、クリスマスや大晦日、ヴァレンタインなんていう行事を時島と過ごした。紫野もいたのだけれど。けれど俺は、意識的には紫野とも高階さんとも関係を一時期絶った。

 多分俺が覚えている中で、最も幸せな時間だったと思う。

 ――俺は今は、幸せな数々の記録を綴る事が出来ない。

 思い出は甘くて、けれど辛くて、切ない。

 いつの日にか、書こうとは思う。

 そのいつかが来るのか、俺には分からないが。

 何があったのか。

 そう、これは幸せな日々の記録になるはずだった。

 ――例えば、時島と紫野と、クリスマスイブにすき焼きをした。ケーキは申し訳なさそうに、テーブルの端で自己主張をしていたのだっけ。

 ――例えば、クリスマス当日は、時島と二人、抱き合って寝たのだったか。

 ――例えば、バイト先の忘年会に呼ばれて、高階さんと昔みたいに――こういう関係になる前みたいに話をした事もあった。

 ――例えば、紫野と少し早いのに、神社に出かけたようにも思う。そうだ、紫野とは翌年のお正月にも初詣にも行ったはずだ。俺はこの年、一度目はサークルのみんなと、二度目は時島と、そして三度目は一人で、計四回も初詣に出かけたのだったか。四度目が紫野だ。

 ――例えば、七草粥を食べた。例えば、ひな祭りという行事に改めて触れた。節分も。

 ――例えば、ヴァレンタインに、決して得意ではないのに、俺は迷った末にお菓子を作って、時島を照れさせる事に成功した。時島も用意していてくれた。

 そう、これは幸せな卒業までの記録に過ぎなかった。

 その後、俺達の関係は少し変わったものの、大学四年時は、それでも確かに、『恋人』だった。

 恋人だったのだ。

 ――あるいはそれは、俺の思い違いだった。

 春になり、俺達は大学を卒業した。卒業と同時に俺は引っ越して、今度こそ完全に時島の――『名前だけの』恋人になった。時島は実家に戻った。東京に出てくるのは月に二度――それもすぐに一度に変わる。俺が時島の実家に会いに行く事は無かった。

 だから紫野といる時間の方が増えた。

 紫野は誰よりも早く内定を貰っていたくせに、影でこそこそ就職活動を続けていたのか、最後の最後に、大手の製薬会社の営業職の内定を取り付けた。知らなかった寂寞とやりやがったなという賞賛と、色々な思いが浮かんだ。そんな紫野とは不定期だったけれど、二ヶ月の間に五・六回は会っている。高階さんとはもっと不定期だったが、やはり会っていた。

 俺は、時島がいなくなってからというもの、物理的に距離が離れてからというもの、誰かを求めずにはいられなかった。我ながら、最低だと思う。それでも、会いたいのは時島だった。

 その日俺は、卒業後丁度一年を迎える前の週、時島を東京駅で待っていた。

 新幹線に乗る時島を、そこで待つのは、もういつもの事となりつつあった。

 そんな小さな『いつも』の積み重ねが、俺にはかけがえの無いものだった。

 ――その想いは、一年半続いた。

 時折、時島が来ない時はあった。

 連絡が無い時もあった。

 けれどその日は、いつもと違った。時島が来ず、連絡も無いだけではなく……音がした。

 俺は東京駅のホームで待ちながら、はっきりと音を聞いたのだ。

 ――鐘の音だった。

 俺は気づけば、自分のマンションへと引き返し、ただ一人で震えていた。

 夜になっても時島は来なかったし連絡もやはり無かったけれど、多分俺はどこかで、時島の助けを欲していた。だが実際には、一人きりで震えていた。もうその時には、時島の強い腕の感触を、俺は思い出せなくなっていたから、ただ静かに掛け布団を抱きしめていた。

 だが、もう逃れられない事は分かっていた。

 俺は、この日はっきりと、呪われた過去の事を思い出したのだ。

 どこかで夢だと考えようとしていた嫌な記憶だ。

 けれど時島の不在の日々が日常になるにつれ、次第に、俺は嫌な予感に胸を支配され始め、そして、ついに、聞いてしまったのだ。鐘の音を。荷物をまとめる決意をしたのは、それから三ヶ月後の事だった。それは時島と最後に会ってから四ヶ月目の事でもあり、紫野とも同時期から連絡を取っていない。俺は今でも時折高階さんとは仕事のやり取りでメールをするが、直接顔を合わせたのは、やはりこの時期が最後だったと思う。

 そして俺は実家に帰った。実家に帰ってからも、数週間の間は、何もせずに過ごした。

 そんな俺の様子を、家族は心配してくれた。

 そうして、今がある。

 結局俺は、綴る事で、何も昇華など出来はしなかった――と、いう残念な結果も。

「左鳥、目が覚めたのか?」

「え?」

「顔色悪いな」

 泰雅はそう言うと、俺の頬に指先で触れた。いつか時島にも、頬を触られた覚えがある。

 けれどその温度は異なる。泰雅は、時島よりも温かく、紫野よりは冷たい。

 俺はいつの間にか、微睡んでいたらしかった。記憶が繋がらなくて、一人狼狽える。

「――明日、いやもう今日、か。寺に客が来るんだ」

「客? じゃあ、俺は帰るよ」

「いいや、居てくれ」

「どうして?」

「その……東京からの客だから、お前が居た方が話も合うかと思ってな」

「何処に居ても、人は人だよ。東京か田舎か、なんて、関係ない」

 そう、時島は時島だったし、俺は俺だった。紫野だって、紫野だった。

 決定的に何かを変えるのも、また人だ。

 俺はもしかすると、引き返せないほどの悪行でも働いたのかもしれない。

 いいや、働いたのだ。

 ――きっとそれは、高校時代から始まっていたのだけれど、俺はそれを誰にも見せたくなかったし、知られたくもなかった。

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