俺は神社に出かけて、一人境内の階段に腰掛けていた。
泰雅と視線を交わしてから三日が経とうとしている。結局あの後も、一度も連絡を取ってはいない。俺は眠れぬ日々を過ごしている。
目の下を指でなぞったら、自分でも隈ができているのが分かった。
瞬きをする度に、尺八を持った僧侶が歩いていく姿が過ぎる。
鐘の音が高く響きながら、追いかけてくる。
――いつか聞いた。蛇は執念深いのだと。
だが、ここまでは、いくら蛇だって追いかけては来ないだろう。
鐘の方が、ずっと執念深い。
時島が俺の実家について聞いてきた事など無い。それに今になって思えば、時島は俺に興味を持っていたわけでは無い気もする。蛇神の衝動に時島は突き動かされていただけなのではないのだろうか。それが少し寂しい。
そうだ、そう――少しだけ、呪いの話をしよう。
俺が呪われたお話だ。
あの日俺は、幼なじみの晶君をはじめ、高校の友人と五人で廃神社へと肝試しに出かけた。椚原の晶君と俺は、高校で同級生になったのだ。結果――生きて帰ってきたのは、俺だけだ。発見された時俺は、血塗れで立っていたらしい。意識が戻った時には既に、白い病院のベッドの上だった。
端的に言ってしまえば、俺はその時、誰かの――そう友人の、肉を食べ血を啜ったらしい。上手く思い出す事は出来無い。あるいはその事実は夢では無かったのかと何度も考えている。
思い出すのは、事情聴取に訪れた警察官の言葉だ。彼らは、扉の外で話していた。
『まさか、食べたって事は無いだろうな』
『ああ、左手の薬指?』
『右目も、だろ』
――あれらの声が幻聴では無いと言うのは、「気にしなくて良いよ」と右京が言ったから確実だ。
その時の仔細は、またいつか語ろう。自分の中で整理がついた、その時に。
とにかくそれ以降、俺は神社の鐘の音に追いかけられているのだ。何もかもを忘れるようにして東京に進学した頃は大分マシだったというのに――ああ、甦る。『十三年後、今度は喰ろうてやろう』――そんなナニカの声がする。
「ここにいたのか」
いつの間にか両手で顔を覆い、俯いていた俺は、唐突に声をかけられて、驚いた。
顔を上げるとそこには嘆息している泰雅の姿があった。
「いい加減、避けるなよ。傷つくから」
「悪い、別にそう言うつもりじゃ――」
「冗談だ。左鳥は、連絡が取れなくなる事も多いしな」
苦笑した泰雅が、俺の正面にしゃがんだ。真っすぐに視線が合う。
「――鐘、すごい音だな」
「何の話だよ。鐘? 泰雅の気のせいなんじゃないのか」
今更……酷い濁し方だとは思ったが、俺は、空笑いしながらそう答えるのが精一杯だった。
「じゃあどうして、お前は震えてるんだよ?」
「え?」
言われて気がつけば、俺の体はガクガクと震えていた。奥歯が立てている音に唖然としてしまう。思わず両手で唇を覆った。それでも震えは止まらない。全身は驚くほど熱いというのに。勿論外気も暑い。なのに、どうして俺は震えているんだろう。
「抱きしめさせてくれ」
「泰雅……」
「別にこれくらい良いだろ」
そう言った時には、泰雅が俺を正面から抱き竦めていた。
その温もりに何故なのか泣きそうになる。私服姿の泰雅を見るのは久しぶりだなんて言う場違いな感想を抱いた。
「左鳥、こうしてると、少しは楽になるか?」
「……そうかもな」
正直、体がスッと軽くなる気がした。だがそれは、泰雅の事を都合良く抱き枕にするのと同義だなと思い、苦笑が浮かんでくる。
――そもそも俺は呪いなど信じてはいなかった。あの件はただの『事故』だ。けれど、精神的に弱ってしまったから、心に忌々しい鐘の音として、恐怖が刻まれているだけに過ぎない。確かに、そう考えていたはずだ。俺は忌まわしい事件を、鐘の音として記憶しているのだと、勝手に解釈していたのである。公的には、俺が誰かを喰べたという事件記録すら残っていない。俺は生存者として扱われ、周囲にはそれを喜ばれた。
なのに違った。
違うと分かってしまったのは、鐘の音が東京まで追いかけてきたからだ。
「逃げないのか?」
不意に言われて顔を上げる。
「どこに?」
心当たりは、椚原しかない。しかし、そこへと赴き、迷惑をかけるわけにはいかない。
何処に行ったとしても、誰かに迷惑をかけるのであれば……ここまで来たならば、生まれ育った実家で最期を迎えるのが一番であるような、そんな気が俺にはするのだ。少なくともそう覚悟していれば、時島や紫野を巻き込む可能性は格段に減る。
代わりに泰雅を巻き込む事になるかもしれないとは、考えてもいなかった。
やはりこの際、泰雅には全て話してしまおうか。それはともかく、ふと思い出した時島の顔が脳裏から消えなかった。
――蛇は執念深い。
繰り返し思う。
今となっては、時島は時島家を離れる事が出来無いだろう。
時島が元気だと最後に聞いたのは、紫野が薬を売りに行って顔を見たという話を俺にした時だったように思う。
一番長い間東京にいたのは俺だ。
尤も、東京と地元を行ったり来たりしている紫野は別枠なのかもしれない。
ただし時島は、大学を卒業すると同時に、実家を継いだ。
それでも月に一度は、当初俺と時島は会っていた。
紫野とは不定期に顔を合わせていたのだが、紫野との場合は、一度会うと三日ぐらい泊まりがけで出かける事が多かった。そんな追憶に耽っていると、肩を強く押された。
「何を考えてるんだ? 真面目に答えろ」
「……」
泰雅の声で、俺は我に返った。
「心配なんだよ」
力強いその声。いつか似たような声音を聞いた覚えがあって、その時の声の主を回想した。時島だ。
俺は、人に心配されながら生きているらしい。
人に迷惑をかけずに生きていく人間などいないだろうが、人を最低限しか心配させないで生きていく事は可能だろうに、俺にはそれが出来ない。その事実がどうしても辛い。
一体俺は、どうすれば、他害せずに呼吸が出来るのだろう。
もう俺は、楽になってしまいたかった。