さて、数日後。
リサイクルショップに、時島と共に俺が出かけたのは、オーブントースターが寿命を迎えたからだ。意外と俺達は、朝にパンを食べる事が多かったから、新しい物を折半して買おうという話になったのだ。ネットも見ているが、より価格が安い物を俺達は探していた。
店は大学のすぐ近く、坂を下りた所にあった。
外には本棚や机などの学用品が並んでいて、軒先には洗濯機がある。
ぼんやりと周囲を一瞥していると、赤ちゃんの泣き声が聞こえた気がして、俺は店内へと顔を向けようとした。しかしその瞬間、時島に後ろから首へと手を回され、引き留められた。
「左鳥、帰ろう」
「え? まだ見てないのに」
「新品を俺が買うから」
「けど、時島……」
それでは悪いではないかと俺が言おうとした時、周囲に、更に大きく、赤ちゃんの泣き声が響き渡った。
反射的に再び視線を向けようとすると、今度は頬を手で挟まれた。だから時島を見上げる。
「あれは、生きていない」
「……え?」
「どこから聞こえるか、よく聞いてみろ」
その言葉に、俺は全神経を集中させた。そして、一つの事実に気がついた。店の正面に置いてある洗濯機が、電源も入っていないというのに振動しているのだ。泣き声はどうやらそこから聞こえてくるようだった。
「どういう事だ?」
「――昔、洗濯機に子供が落ちた事に気づかず、電源を入れて死なせてしまった母親がいたようだな」
「っ、いやけど、そんな事があったら、洗濯機を廃棄処分にするんじゃ?」
「されているみたいだな。問題は場所だ。その洗濯機が嘗てあった場所――事件があったアパートが存在した場所が、このリサイクルショップの位置らしい」
時島には、どうしてそのような事が分かるのか、俺はもう今では聞かない。
別段俺は、完全に信じているわけではない。だが少なくとも、疑っているわけでもない。
「問題は――購入者に憑いていく事だな」
「場所が問題なんじゃないのか?」
「母親の方は、な」
「え?」
「乳児の方は必死に藻掻いて、何処へでも憑いてくる。そして、またこの店へと戻ってくるんだ」
その時、俺は母親の方には気がつかなかった。
ただ後日サークルの後輩から、リサイクルショップで品を買うと、数日間赤ちゃんの泣き声に悩まされるという怖い話を聞かされた時には、ゾクッとした物である。なおその後も、店の前を通りかかる度に洗濯機を確認したが、俺は売却された所は見た事が無かった。無いままで――俺は、その土地とは別れる事となる。
さてその後、俺は時島と二人、マンションへと帰った。
ここまでの間、時島は、紫野と俺の旅行について、深く聞いてくる事は無かった。一緒に行きたかったとすら言わない。それが何故なのか、本当に少しだけ『寂しい』と俺は感じていた。どうしてなんだろう。
家に戻ってからは、時島が料理をしてくれるのを、部屋で見守っていた。
時島は一体何を考えているのだろう?
「左鳥?」
あまりにも俺がじっと見すぎていたからなのか、時島が振り返り首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「べ、別に」
「――別にと言われても、そんな顔をされるとな……」
「え?」
一体俺はどんな顔をしているのだろうかと、息を飲んでから曖昧に笑う。
いやに鼓動の音が耳についた。
「真っ赤だぞ」
「嘘だろ?」
「……具合が悪いんじゃないのか?」
「いや、そんな事、無いよ」
慌てて否定し、まさか己は、時島を見て赤面したんじゃないだろうなと、内心で狼狽える。
すると時島が歩み寄ってきて、俺の額に触れた。
その冷たい温度に、今度は頬が熱くなるのを、はっきりと自覚した。
「熱いな。やっぱり熱がある」
「――え?」
「さっきの『アレ』に、あてられたんだろう。少し横になった方が良い」
時島はそう言うと、体温計を取りに行き、俺に渡した。
まさかと思いながらも素直に計ると、俺は三十九度も熱があった。
結局それから、時島が新たにお粥を作ってくれたので、それを食べてから眠った。
目が覚めた時、俺は髪が汗で額やこめかみに張り付いている事を自覚した。
吐いた吐息は荒かったが、それでも熱は下がっているなと直感的に分かる。
上体を起こして暗い周囲を見渡せば、ベッドに背を預けた時島がこちらを見ていて、視線があった。時島は床に座って、こちらを眺めていたのだ。
「起こしたか?」
「ううん。起きた」
首を振った俺に、時島が机の上にあったミネラルウォーターのペットボトルを渡してくれた。受け取りながら酷く喉が渇いていた事に気づき、蓋を開ける。
ゴクゴクと飲みながら、俺はゆっくりと瞬きをする。
「時島はずっと起きてたの?」
「――ああ」
時刻は午前二時。それなりに規則正しい時島にしては珍しい。
「何してたんだ?」
「左鳥の事を見ていたんだ」
「俺の事?」
「心配した」
時島はそう言うと俺に向かって腕を伸ばした。何とはなしに俺もまた腕を伸ばす。
指先が触れ合ってからすぐに掌を握られ、腕を引かれた。
体勢を崩した俺は、そのまま時島に抱き留められた。
「悪いな、左鳥」
「時島?」
「気を抜くと、俺は嫉妬でおかしくなりそうになるんだ。嫉妬なんてこれまでした事が無いから、この感情の名前が本当に嫉妬というのかも分からない。ただ激情で身動きが出来なくなりそうになる。嫉妬という名前じゃ生温いようにすら思える」
蕩々と言いながら時島は、腕に力を込めた。
そして俺はと言えば、いっそおかしくなってくれれば良いのにだなんて考えていたのだから、まだ熱で朦朧としていたのかも知れない。
「時島はおかしくなると、どうなるんだ?」
「左鳥を俺の腕から放したくなくなる。お前が他の誰かと話している姿を見る事すら許せないほど、ずっと側に置いておきたくなる――恐らくこれが蛇の執着心という物なんだろうな。きっといつかそれに飲まれれば、俺は左鳥を俺だけのものにしようとするかもしれない。左鳥の気持ちも自由も何もかも考えずに、ただ、俺だけのために」
そう言った時島は、苦しそうだった。辛そうだった。
だと言うのに、俺の中の『何か』は、確実に喜んでさえいた。
「左鳥、お前は俺の事をどう思ってるんだ?」
「……時島」
「俺はあと何度、お前に愛していると言う事が許される?」
俺は時島の肩に額を押しつけながら、眉間に皺を刻んだ。
好きだと言ってくれる時島の言葉を、信じず答えない、ずるい人間は俺の方なのに。
俺の方こそあと何回、時島に好きだと言わせる気なのか。
――そうしていつ、愛想を尽かされるのか。それが怖い。怖い事も手伝って、他の誰か、例えば紫野との関係も断ち切れない。そもそもの大問題が、自分自身の気持ちの不明瞭さだ。
俺は、時島の事が好きなのだろうか?
ただ、気づけば勝手に唇が動いていた。
「もっと言ってくれ、沢山、いくらでも」
「左鳥、愛してる」
「うん、うん」
「左鳥、好きだ」
時島の少し低いその声が、どうしようもなく心地良くて、ずっと聞いていたいと感じる。
それから時島の唇が首筋に降ってきた。それから改めて俺を見て、苦笑した。
「もう少し眠った方が良い。早く風邪を治すんだ。そうしたら――」
そうしたら?
俺はその続きを聞こうと思ったのだけれど、そのままぐったりと体から力が抜けていった気がして、同時に意識を闇に飲まれた。そのまま眠ってしまったようだった。