その日は、紫野と映画を見に行く事になっていた。ドラマの劇場版だ。俺は昨日、DVDで全て見て、予習をした。紫野は適度に見ていたらしい。何故この映画を見る事になったのかというと、紫野が「どこかに遊びに行こう」と言い出して、行く場所が他にはゲーセンくらいしか思いつかなかったからだ。どこでも良いというわりに、他に挙がった案は、動物園やら水族館やらテーマパークやらで、どれもなんだか面倒くさそうだと俺は思ったのだ。映画ならば座っているだけで良い。俺は生粋のインドア派なのだ。
時島の実家から帰ってきて、大学以外で出かけるのはこれが初めてだった。
チケットは紫野が事前に買っておいてくれた。
随分と準備が良いなと思っていると、コーラまで買ってきてくれた。
映画館は、時間帯が平日と言うこともあるのか、それともこの映画の人気が無いのか――ガラガラだった。それもあって、一番良い席がとれたのかもしれない。真ん中あたりで、正面にはひと気が無かった。
CMが始まった頃――不意に、紫野の隣に人が歩いてきた。
「すみません、そこは私の席なんですが」
その言葉に、『えっ』と思って俺はチケットの座席番号を確認した。
紫野は俺の左隣で間違いないから、おかしい。
だが紫野は何も言わない。ただスクリーンを見ている。どういう事だろうかと思っていると、不意に手を握られた。
「お前、視えすぎ」
「え?」
「それに構い過ぎ。これからは止めて――……その、集中しろよ」
その声に改めて紫野の隣を見れば、立っていたはずの人は消えていた。
ゾクッとしつつも、それから俺は映画を見た。
集中すると作品に入り込むもので、見終わってからはパンフレットが欲しくなった。しかしそんな懐の余裕はない。紫野にチケット代を渡そうと、俺は財布を取り出す。渡すのをすっかり忘れていたからだ。
「いらない。俺が誘ったし」
「は? そりゃそうだけど――」
「俺は、デートする時は、おごる主義なんだよ」
「え」
デート、デート……!? 俺はその言葉にポカンとした。これから適当にファミレスに入って、映画について語ろうと思っていた計画が、全て崩れ去った気がした。
「上のレストラン、予約してあるから」
「どこの成金だよ」
思わず空笑いをしてしまった。しかし紫野は肩を竦めている。
「バイト代も貯まってるからな」
それから本当に、いかにも高級そうなイタリアンのレストランに連れて行かれた。
窓際の席で、夜景が見える。
俺が連れて行く立場になる事はあるかも知れないが――いいや、現実的には一生無いかも知れないが……まさか連れてこられるとは思わなかった。
それぞれ、ワインを注がれる。コースを予約していたらしい。
「え、あの、さ……紫野」
「ん?」
俺は何を喋れば良いのか分からなくなった。だから必死で考えた。
「何のバイトをしてるんだ?」
「楽に逝ける薬売り、なんて言ったらどう思う?」
「嘘だろ、売人て奴か?」
「違法じゃない」
「合法ドラッグだって問題だろ」
「――正確には薬物じゃないからな。安楽死を望む人間って言うのは思いの外多いんだよ」
「え?」
俺は息を呑んだ。てっきりある種の別世界にトリップするクスリを想像していたのだが……安楽死? どういう意味だ?
「なんてな、食事時にはキツイ冗談だったな。それより食べよう」
「あ、ああ」
食事の味なんてしないと思うほどの衝撃だったが――食べ始めてしまえば、俺は美味しく頂いたのだった。俺もこういう所は図太いのかも知れない。
ただ俺は、その後も紫野のバイトの事が気になって仕方が無かった。
いつか時島も、『霊安室』なんて口にしていたし、紫野自身も病院に用があったと言っていた事もある。だがまさか、安楽死させていると言う事は無いだろう。
ぐるぐると考えてみるが、上手くまとまらない。
これは別に――時島に相談しても良い気がした。そこで後日、俺は尋ねた。
「なぁ時島さ、紫野が何のバイトしてるか知ってる?」
「薬売りだろ」
何でもない事のように、パエリアを作りながら時島が言った。俺と紫野が一緒に出かけた日から、何故なのか若干機嫌が悪い。時島も大概インドア派なせいなのか、あの日は誘っても断られた。紫野にも「二人で行くぞ」と念押しされたものである。まさか本当にデートだったのだろうか? いや、まさかな。男同士二人で遊びに行って、何がデートだ。ただの寂しい二人組ではないか。ナンパでもすれば良かったのかもしれない。
「その薬って、どんな?」
「左鳥もたまに貰ってるだろう?」
「ああ、あれ……っていうのは、想像がつくんだけどな……その、だから、誰にどんな効果のものを売ってるか知ってる?」
聞くのが、若干怖かった。紫野の笑顔が頭から離れない。
「――……あいつは、人殺しだ」
ポツリと時島が言った。
「左鳥は、その解答に辿り着いてるだろ?」
「いや、っ、そんなまさか」
「安心しろ。毒殺してるわけじゃない。正確には言えないが、寿命を減らすような霊薬を出してるだけだ。望まれて」
「どういう意味だよ?」
「死神みたいなものだと思えば良い」
それじゃあ全く訳が分からないし、解答になっていない。
その時パエリアが出来上がったようで、時島が料理の最終作業に集中し始めた。それ以上何も答えてくれない気がしたし、これは俺が自分で紫野に聞くべき事であるようにも思う。だから俯いていると、不意に振り返った時島が、俺の腕を引いた。
「紫野の事が気になるか?」
「そりゃ、気になるだろ」
「友人として?」
「まぁ」
「正直、俺は嫉妬してる」
俺は時島に、嫉妬なんて言う感情があったのかと、少しだけ驚いた。ここの所、驚きっぱなしである気もする。実家に着いていってから、時島の人間味が増した気がするのだ。それまではどこか飄々としていて、俺が決して立ち入れない何かがある気がしていたのに、その壁が無くなった感覚だ。そのまま――ごく自然な仕草で、額にキスをされた。唇の感触は温かい。
「どうしたんだよ、急に」
「――食事にしよう」
なんだか時島は、ちょっと変だ。まあ、大学では前々から変人だとは言われていたのだが。
あれだろうか。その……体を重ねて情が移ってしまったとか?
俺はと言えば既に、あの日々の事を、半ば夢だと片づけてしまっていた。何故なのか、自然とそんな気分になっていったのだ。
ただ――一つだけ困る事がある。
夜になると、体が熱くなるのだ。それもあって、俺は最近朝方眠るようになっている。まぁ元々の生活に戻ったと言えばそうなのだが。誠に不可思議な事に、全身が熱くなって、そうして――率直に言えば、ヤりたくなってくるのだ。
しかし二人暮らし、一人でヌく機会も限られている。
その上、だ。嘗ての、強姦被害に怯えていた俺には信じられないほど、体の中の奥深くが疼く。頭の中を、激しく貫かれる妄想が過ぎるのだ。
それでもここ一ヶ月ほど俺は、必死で我慢を続けている。何なのだろう、この衝動は。
それもあって時島に触れられると、少し辛い。気持ちがではなく、熱くなる体が。
しかもこれは時島に限った事ではなくて、デート(?)中に、紫野に手を握られた時も体は若干熱くなった。俺の体はどうかしてしまったらしい。
「左鳥、口に付いてる」
「え、あ」
時島に指で、唇のすぐ側をぬぐわれた。それだけで、ドクンドクンと煩いほど心臓が啼いた。何なのだろう。別に恋をしているだとか、そう言う感覚では無いのだ。
――そしてその日の夜も、俺は体の熱に堪えた。
思えばこれが、俺の堕落の始まりだった。