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第29話 飛び降り自殺

「また二人で旅行したんだなぁ……」

 都内に帰るとすぐに紫野が遊びにやってきた。そして深々と溜息をつくと、コタツの定位置に座り、乱暴に麦茶のグラスを置いた。

「ごめんって。お土産買ってきたから」

 A県で買ったご当地キーホルダーを俺が渡すと、紫野は大層微妙な顔つきになった。

 時島はパスタを茹でている。俺の希望通りミートソースだ。

「で、なんで紫野は浴衣を着てるの?」

「ああ、バイトの帰り」

「何のバイトだよ?」

「今日のは――秘密。ま、良いだろ。それよりさ、聞いてくれ。遠藤が事故ったんだ」

「え」

 その言葉に、同じ学科の、遠藤梓の顔を思い出して、俺は息を呑んだ。占い師の遠藤だ。以前に紫野が珍しく苦手だと言っていた相手である。

「で、さ。一応見舞いに行ったんだ」

「大丈夫なのか?」

「腕を折っただけみたいだけど、今、頭の具合を調べられてる」

「打ったのか?」

「違うんだよ……それがな、病室に俺が見舞いに行った時に、丁度意識を取り戻したんだけどな……」

 紫野は途中で口ごもると、腕を組んでから、時島を一瞥した。

 時島は塩を持っているが、それが鍋に入れる用なのか、紫野の話に備えて持っているのかは不明だった。何となく後者のような気がする。

「そうしたら、悲鳴を上げてさ。医者が飛んできて、ICU症候群だって言ったんだ――最初は」

「まぁ、いきなり病院で目を覚ましたら、誰だって混乱して騒ぐ事はあるだろうな。良かったな、目が覚めて」

 俺が頷くと、紫野が首を傾げた。

「言うんだよ。蛾が見えるって。病院だぞ、いるわけがない」

「窓は?」

「だからICUにいたんだよ。俺はたまたまその病院に用事あって、その場にいたから、連絡を受けてすぐに遠藤の所に行ったんだ」

 病院に用事というのも、ICUにまで入れるというのも、不思議だなとは思ったが、俺は聞かない事にした。紫野が話を続ける。

「その蛾の腹に、一緒に乗ってて亡くなった同高の奴二人とか、小さい頃に亡くなってる妹とか、大昔に亡くなった親戚のおじさんの顔とかがついてるって騒ぎ出したんだ」

 同じ高校が出身の友人が亡くなったのでは、さぞかしショックだろう。そう考えつつ、俺は空になった紫野のコップに麦茶を注ぐ。

「蛾なんているはずがない……って、俺も思ったんだよ」

「うん」

「そうしたら遠藤が、『足下を見ろ』って小声でボソッと言ったんだよ――……そうしたら、俺の靴のすぐ側に、蛾の羽が落ちてた。実際に」

 時島が塩を持ってコタツまでやって来たのは、その直後の事だった。

 ――なお、時島家での出来事を俺は、未だに紫野に話せないでいる。

 その日紫野は泊まっていく事になった。俺もその方が安心する気がした――時島には悪いが、二人きりに戻るのが若干怖いように思えたのだ。不思議と旅疲れは無い。珈琲を淹れた俺は、チョコレートを食べながら、時島のベッドの上に座っている。時島と紫野はコタツに入っていた。

 ――落ち着く。

 ベッドの上、それも人のベッドの上で、お菓子を食べてはならないのだろうが、何となく小腹が空いたのだ。ちなみに食塩は、今もコタツの上に乗っている。本当にあれには何らかの効果があるのだろうか。俺には疑問である。

 三人でダラダラしながら、久方ぶりに大学の話をした。そうしていたら不意に紫野が、思い出したように顔を上げた。

「そう言えば怖い話、あったんだ」

「何?」

 俺は尋ねてから、珈琲を飲んだ。

「久しぶりにサークル飲みがあって顔出してきたんだけどな、その後、後輩の所に泊めてもらったんだよ――一階に住んでる女の子でな、俺の編み物サークルの方の溜まり場」

 俺はそんなサークルが存在するのを知らなかった。手芸……? 一体紫野はいくつのサークルに入っているのだろう。少なくとも紫野が、活動をしている所なんて一度も見ていないが……料理サークルと、スノボとテニスと草野球サークルには入っている。主に飲み会に顔を出しているのだろう。

「その子がさ――夜さ、風呂に入ると、必ずカーテンの間から二つの目が見ていて、目が合うって言うんだよ」

 それは嫌だなと思いながら、俺はチョコレートを噛む。

 時島と紫野は麦茶を片手に、煎餅を食べていた。

 今夜は飲む雰囲気ではない。何故なのか、やっぱり意識していないだけで、旅行疲れがあるのか……ダラダラしたい気分だったし、紫野も飲もうとは言い出さなかった。

「それでな、俺、風呂に入ったんだよ。わざと」

「勇気あるな」

「男前だろ? で――……ばっちり目があったんだよ」

 紫野の言葉を聞きながら、時島が溜息をついた。何となく時島は、呆れた表情に見えた。俺はと言えばオチを期待しながら、再度珈琲を飲む。

「どこからどう見ても男だったから、俺は後輩二人に、アパートの両側から回り込めって言って、風呂に入り続けた。のぞかれ続けたんだよ……! 結局犯人はのぞきの常習犯で、のぞく事が目的だったらしくて、中なんてよくは見て無かったんだろうけどな、あの気持ちの悪い気分と言ったら無かった」

 紫野には悪いが、俺は思わず吹き出した。急に気分が明るくなった。いや、犯罪行為なのだから、明るい気分になってはいけないのだろうが、のぞかれている紫野を想像したら面白かったのだ。

「左鳥も気をつけろよ」

「は?」

「誰にのぞかれるか分からないからな」

 紫野はそう言うと腕を組んで、一人大きく頷いた。そしてスッと目を細くした。

「例えば――蛇とか、な」

 思わず息を飲んで俺が硬直した時、時島が麦茶の入ったコップを傾けながら、紫野を見た。

「確かにのぞくのは人間ばかりとは限らないからな。紫野、お前最近……霊安室に行っただろう?」

「あー」

「すぐにお得意の薬を飲んだ方が良いんじゃないのか?」

 どこか時島の声が刺々しい。しかし、紫野の方も唇の片端を持ち上げて応戦した。

「暫く飲むの止める事にした。何があるか分からないって事が、よく分かったからな。時島のおかげで」

「そうか。だったらすぐにでもシャワーを浴びてこい。良い入浴剤もあるから」

「お前こそ浴びてきたらどうだ?」

 二人は口論をしているように見えたが、俺には意味が分からなかった。

 ただし時島家での出来事を、紫野が何か察しているのだろうと言う事は分かる。

「じゃあ代わりに俺が浴びてくる」

 だから俺はそう宣言した。なんだか急に恥ずかしくなってきてしまったのだ。この場にいる事自体が。

「……」

「……」

 すると二人がそろって俺を見てから、溜息をついた。

 俺は、この二人の息はぴったり合っていると思う。

 ただこの時は、まさかその後、俺が窓の外にある二つの目を見るとは思わなかった。

 ――ここは、四階だというのに。

 マンションから飛び降り自殺があったと聞いたのは、その数十分後の事だった。

 その日の夜は、警察の人が来たりで、マンションの外は大騒ぎになった。

 だから眠るのも遅い時間だったのだが……俺には午前四時頃、眠気が来た。紫野はとっくに奥の部屋へと行っていたし、時島も眠っていた。俺だけ目が冴えていたのだ、それまでの間は。理由は勿論、二つの目を見てしまったからである。

 まさかシャワーを浴びていて、飛び降り自殺の現場を目撃するとは思わなかった。

 今でも胸がざわついている。

 それだけ人の生死は衝撃的な事なのだなと、改めて思った。特に自分の身近で死の匂いを感じると、人間は敏感になるのかもしれない。

 ――そんな時だった。

『ちょっと、いい加減にしてよ……もう、そんな事言わないで』

『だから無理だって言ってるだろ』

『どういう事なの、だってだってだって、結婚するって』

『お前、重いんだよ、そう言うの』

 時島宅の壁は、特別薄いというわけではない。だが、マンションの外から、ひそひそひそひそ……別れ話が聞こえてきた。何もこんな日に、廊下で別れ話などしなくても良いではないか。俺は眠い体を引きずり、時島を起こさないように布団から出た。

 そして静かにエントランスへと向かい、抗議しようと扉を開けた。

 ――誰もいなかった。

 一気に俺の目は覚めた。そうなのだ、考えてみれば今までに一度も、外から声なんて聞こえてきたことはないではないか。そもそも、ワンフロアにひと部屋しか存在しないし、階段は別の方向だ。で、では、先ほどの別れ話は何だったんだろう?

 嫌な予感がした。

 翌朝、大家さんが各家を回ってきた。一応借り主は時島だが、俺はきちんと不動産屋さんに二人暮らしをすることを報告していたので、対応する事にした。紫野も起きては来ない。結局俺は一睡も出来なかったのだ。だから朝早くでも、扉を開ける事が出来たという理由もある。その場、大家さんに俺は率直に聞いていた。

「その飛び降り……転落死の原因は自殺だったんですよね? 警察の人が話してるのをちらっと昨日聞いたんですけど」

「ええ――事故では無くて、自殺でしょう、と。昨夜ね、婚約者と別れ話をした直後に飛び降りたそうですから」

 俺が泣きたい気分で部屋へと戻ると、紫野が起きてきた。

「なんだ、寝てないのか?」

「眠られるお前らの神経が羨ましいよ」

「この薬やるよ。よく眠れるから」

 紫野はそう言うと、俺に紙で包まれた薬をくれた。なんだか素直に飲んで、寝てしまいたい気分になったので、俺は麦茶でそれを飲み干した。するとすぐに体が弛緩してきたので、有難く布団に入る。ほぼ同時に、時島が起きた様子だった。紫野が俺の額へと口づけた瞬間だった。

「紫野、何やってるんだよ」

「何って? オヤスミのキス」

「ふざけるな」

「時島に怒る権利があるのか?」

 俺は再び口喧嘩に悩まされる事になった。もう限界だった。眠い。

「あーもー、お前ら煩い。キスくらい、いくらでもしてやるから眠らせてくれ」

「……」

「……」

 二人が一瞬で沈黙した。俺は満足して、枕に頭を預けたのだった。

 ――それにしても、紫野の薬は良く効いた。

 あるいは……実は俺は疲れていたのかも知れない。

「左鳥……左鳥! 左鳥!!」

 時島の大声で俺が目を覚ましたのは、丸二日眠った後の事だった。

「紫野は?」

「――帰った。バイトだ。第一声が、紫野の名前か。まぁ……良かった、目が覚めて」

「俺、そんなに寝てたの?」

「もう目を覚まさないかと思って、病院に連れて行こうかと――ああ、もう、本当に良かった」

 明らかに焦燥感が滲む声が響いた。

 何故そこまで時島が動揺しているのかは、日時の確認がまだおぼつかなかったので、俺には分からなかった。とにかく時島は動揺しているようで、起きあがった俺を抱きしめると、涙ぐんだ。

「え」

 あの時島が涙ぐんでいる。俺は、自分の具合が、そんなに悪いのだろうかと焦った。

「蛇神に取り殺されるのかと思った。蛇の夢は見なかったか?」

「見てないし、そんな馬鹿な……」

 あははと、まさに字面の通り笑おうとして――時島家の記憶が鮮明に甦り、俺は笑顔のままで硬直した。蛇神は――取り殺したりする存在なのだろうか……?

 俺は無性に外の空気が吸いたくなって、ベランダへと向かった。時島もついてきた。時島は、フェンスに手をかけながら、じっとビルの上についている赤い光を見ているようだった。冷静さを取り戻したようだ。

「なぁ、時島。蛇神って、取り殺すのか……?」

「そう言う場合もある。俺の母親は、それで亡くなったらしいからな。滅多に無いとは聞いている。ただ特に左鳥の場合は、憑き物筋以外から伴侶が選ばれたのは、二百年ぶりらしいから不安だった」

「俺の家族とかにも何か、関係したりするのか?」

「はっきり言う。分からない。記録が残っていないんだ。憑き物筋が相手の場合は、その家にも蛇神がつく――正確には、最も憑き物の中で力を持つ大神が」

 正直に話してもらったのは嬉しかったのだが――勿論よく分からなかったわけではあるが……俺は腕を組む。

 深々と酸素を吸い込み考える。

 ――何故なんだろう。だけど、俺は大丈夫な気がする。

 そう思っていた時、不意に抱きしめられてキスをされた。

「何をするんだよ」

「……いくらでも、キスしてくれるんだろ?」

 そう言えば、寝る直前にそんな事を口走ってしまったなと考えて、俺は思わず赤面した。

 男相手に何を言っているのだ。自分で自分が恥ずかしい。

「ただのネタだから」

「ネタになんかさせない」

 時島はそう言うと再び俺に唇を近づけ、触れ合うほどの距離で俺を静かに見据えた。

「愛してる」

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