その夜俺は、白い和服を着せられた。
よく時代劇で見るような、その……お殿様の閨に呼ばれる時のような、長袖の肌襦袢とでもいうのか、そんな趣の和服だった。浴衣みたいで、昼の服よりはずっと着心地が良い。
寝室も、その日は、昨日とはまた別の部屋で、正面には障子があった。蝋燭が四隅に置いてある。
俺は枕が変わると眠れないというような事は無いのだが、固い筺のような枕を見て、さすがに首が痛くなりそうだなと思った。
――そうして夢を見た。まるで時島の予言が当たったような感覚だった。
大蛇、と呼ぶには大きすぎる蛇が、俺をじっと見ていた。
口を開けると、白い牙が覗いた。唾液が線を引いている。赤い舌は細長く、最初は威嚇されているかのような錯覚に陥った。肌は黄色とも緑ともつかない色彩で、鱗がはっきりと見える。血液の臭気と甘い匂いが混じったような、これまでに嗅いだことのない独特の香りを放っている。
蛇が這い寄ってきた。
俺はその時、昼に見た庭にいた。そこは庭園で、赤い橋が架かっている。
蛇が這い寄る度に土の上には、ねっとりとした粘着質な体液のようなものが垂れ、跡がついていく。蛇の全身は、大王イカのように見えた。本能的な恐怖を覚えた。俺はそこからずっと、大王イカについて考えていた。夢の中だというのに、完全に現実認識を、理解を、俺の体は拒んでいた。ただひたすらに、現実逃避として俺は、大王イカについて考える事にしたのである。蛇が這い寄ってくる度に、一歩ずつ俺は後退った。しかし最初は緩慢だったのものの、次第に動きが速くなり、眼前に蛇が迫ってきた。
思わずきつく目を伏せた。もう頭は真っ白だった。大王イカについて考える余裕は消え去った。一時の暗闇が訪れ、俺は短く吐息する。
――だが。
「ッ、うあ」
次の瞬間、巻き付かれた感触に目を開けた。すると俺は元々眠っていた部屋にいて、夢の中の大蛇に――現実の部屋でも、体をグルグルと捻り上げられていた。体中が軋み、痛みが込み上げてくる。息苦しくなり身を捩るが、蛇としてはあり得ない大きさの化物に、俺は完全に捕らわれていた。
着物の上からギュウギュウと締め付けられ、意識が朦朧としてきた。これも――夢なのだろうか? 無論、それ以外は考えられない。しかし痛い。痛かった。全身が絡め取られているのも、何とも言えない気分の悪さを俺にもたらす。その内に、一つ、二つと、蝋燭が消え始めた。四本全て消えた時、俺は意識を失った。
次に俺が目を覚ましたのは、時島が入ってきた時の事だった。
全身が気怠かったが、無理に肩を抱かれて起こされたのだ。瞬きをする度に蛇の姿が映った気がする。気分は、とても爽快とは言えなかった。
「蛇の夢を見たのか?」
「え、ああ……」
俺が頷くと、時島が舌打ちした。そんな時島を見るのは初めてだった。時島が、乱暴に俺の着物の胸元に手を添え、バッと押し開く。俺は何とはなしに下を見て、そして漸く覚醒した。まるで蛇に締め付けられたような、鱗の跡がそこにあったからだ。
奥歯を噛んでいる様子の時島は、それから部屋の四方の蝋燭に、無言で火を点け直した。
俺はそれをぼんやりと見守る。
「良いか左鳥。火は、昨夜一度も消えなかった。蛇の夢など見なかった――そうだな?」
言動が一致していない時島を眺めつつも、昨晩言われた事を思いだし、俺は小さく頷いた。嘘をつくのがあまり俺は得意ではないが、頑張ろう。
「ああ、何も見ていないよ。俺は何も見てない」
頷いた俺を見て、時島が急に抱きしめてきた。何事だろうかと思いつつも、やはりその温もりは優しい。おずおずとその背に手を回した時、障子が音も無く開いた。
見られてしまった。
いくら友人でも、男同士で抱きしめ合っている所なんて見られるのは恥ずかしい。そう考えていると、時島が息を呑んだ。硬直したのが、腕越しに伝わってきた気がする。やはり時島も見られて気まずいのだろう。
「昴。火を点け直したのね」
「――いいや」
「お父様の部屋の蝋燭が全て消えたわ。他の者には、『お渡り』が無かったんだもの。隠しても無駄よ」
「風で消えたんだろう」
「そんな事があるはずがないでしょう? では霧生君の体を改めても構わないよね」
「その必要は無い。俺が確認した」
「――霧生君、正直に話して?」
姉弟喧嘩には、何故なのか見えなかった。だが、時島の声が、厳しいものだと言う事はよく分かる。
しかし、『体を改められる』なんて美人のお姉さんに言われるのは、なんだか羞恥が募った。時島はと言えば、俺を抱きしめたまま、静かに目を伏せている。
「どうせ今晩には、二度目の『サナブリ』があるのよ。明後日には『ウミコの儀式』が」
「……それは」
「逃れられないの、私達は。分かっているでしょう? 選ばれたのならば逃れる事は出来ない。苦しませたいの? ――『イズカタ様』は、必ず選ばれるのだから。実際にこうして選ばれたでしょう?」
俺には分からない単語ばかりだった。そう言えば実家の方で、サナブリ祭りというのがあったような気がする。それと同じ意味なのだろうか。ウミコとイズカタ様は全く分からない。それにしても、俺は時島や椿さんの反応を見る限り、蛇神様とやらに選ばれてしまったと言う事なのだろうか。その後、扇子を開いてから、椿さんが微笑した。
「これから長い付き合いになると良いわね。よろしくね――左鳥君。皆が広間で貴方を待っているから、支度が出来たらおいでなさい」
それから椿さんは長い廊下を歩き去った。
その後、漸く時島は顔を上げると、何とも切ないような顔で、俺をじっと見た。
「俺のせいだな」
「何が? 所で、あの蛇の夢は何だったんだ? サナブリって? イズカタ様は?」
聞きたい事だらけだ。思わずぼけっとした顔のままで、俺は時島を見上げた。すると時島は腕を放し、今度はギュッと俺の両手を握った。その両手の感覚に、何となく安心した。
「今夜俺が来ても、絶対に戸を開けるな。もしも逆に俺が開けた時は――恨んでくれて良い」
「俺は恨んだりしないけど……さっぱり意味が分からない。どういう状況なんだ? 今は」
「……悪い。そうだよな」
「うん。それと、お腹空いたな」
「お前な……」
俺の言葉に、時島が溜息をついた。それから苦笑するように頬を持ち上げた。この時俺は、本気で何がなんだか分からなかったのだが、時島が一緒なら大丈夫な気がしたのだ。
それから時島に着付けされて、俺はまた和服を着た。時島はこんな事も出来るのかと思いつつも、この家で育ったのなら着慣れているのだろうかと考える。ただ今日は、時島自身はスーツ姿だった。就活用のスーツとは違う。なんとも上質そうな服だった。一緒に朝食を取ってから、俺は使用人さんに連れられて、広間に行く事になった。
「じゃあちょっと行ってくる」
「ああ――本当に悪いな」
短くそんなやりとりをした。それから向かった先で、俺は絶句した。
昨日一緒に楽しく話をしていた人々が、皆俺の前で土下座していたのだ。いや、土下座というか、正確にはきちんと正座をして、頭を下げていたのだ。俺の語彙だと土下座だと言うだけだ。彼女達は、今日もきっちりと和服を着ていらっしゃる。俺は上座に案内された。
「イズカタ様におかれましては、本当におめでとうございます」
昨日俺に、『お見合いだ』と教えてくれた女の人に言われた。
何となくこの人には、質問しても良いような気がしてきて、率直に俺は聞く事にする。
「あの、イズカタ様って、なんですか?」
すると一人頭を上げた彼女は、畳の上に手をついたままで、静かに唇を動かす。
「
何、処、方、という字が頭を過ぎって、俺は不意に思い出した。源氏物語の浮舟に、似たような言葉が出てきた気がする。まぁそれと同一だとは思わないが。他にはウミコの事も聞きたかったが、それは時島が言えないと話していたから止めた。サナブリは俺の中では田植えという事になっていたので、次の質問を考える。
「あの、どうして皆さん頭を下げていらっしゃるんですか?」
必死で、慣れない敬語を捻り出す。するとくすりと女の人が笑った。
「殿方が御伴侶に選ばれる場合、その方の妻帯も許可されます。霧生――佐鳥様もお相手をお選び下さい」
「ええと?」
「皆、良家の子女です。憑き物筋だからこそ」
再び意味が全く分からなくなった所で、一斉に皆が顔を上げて俺を見た。壮観だった。
微笑を湛えた大勢の美女の、昨日よりも熱っぽい眼差しが、一斉に俺へと向けられた。
「必ずや佐鳥様とその御家に幸福を齎す事を、お約束いたします」
――それから宴が始まった。
皆がお茶を注いでくれる。酒も勧められたが、俺は断った。昼間は飲む気にならないのだ。目の前には他にも、これまでとは異なり、豪勢な食事が並び、俺が一口・二口と食べると、お膳は取り替えられた。そうしてまた別の料理が運ばれてくる。いよいよお殿様になった気分だ。どうやら今回は、俺のお見合いらしいと言う事が分かってきた。
結局俺は誰も選ばなかった。その内に、夕方が訪れた。