――その日の夜、俺は夢を見た。
夢の中では――桜色の着物姿の、髪をまとめた美女が、幼子の手を繋いでいた。
その女性が亡くなっていると、俺は直感した。
俺はそこにいた子供に……時島の面影を見て、「ああ。この女の人は、時島のお母さんだ」と、夢の中で理解していた。
時島は池の方へと走っていく。
池には、錦鯉が泳いでいる。
幼い時島は、池のそばにしゃがむと、鯉を楽しそうに眺めた。
母親は穏やかな顔でそれを見ていた。だが、少ししてから、不意に俺の方へと顔を向けた。俺は完全なる第三者として、その場面とは乖離した感覚で夢を見ている――と、思っていたのに、しっかりと視線が合った。すると……優しく微笑された。そして手を差し伸べられた。
「昴と仲良くしてあげてね」
「はい」
俺はおずおずと頷きながら、手を握り返そうとした。しかし指先が触れあう直前で、その人は桜の花びらになって消えてしまったのだった。
不思議な夢だなと思いながら目を覚まし、俺は息を飲んだ。
仮面姿の着物の女性が、真横に正座していたからだ。心臓が止まるかと思った。
「お目覚めですか?」
「は、はい」
「お着替えをお持ち致しました」
「え、あ、有難うございます……」
見れば使用人の女性の脇には、金縁の黒長い箱があって、そこには和服が入っていた。
着る方法が、俺には分からない。温泉の浴衣とは違って、きちんとした和服だったのだ。
どうしよう。
そう考えていると、仮面の女の人が立ち上がった。
「お手伝いさせて頂きます」
そのまま俺は下着以外を脱ぐように言われ、和服を着付けられた。若干照れたが有難かった。だが正直……時島の私服でも貸してもらえた方が良かったし、俺も一応、予備のTシャツ程度は持ってきていたのだが……言い出せる雰囲気では無かった。
それから朝食が運ばれてきた。
今回は魚がメインで、昨夜の精進料理じみた夕食よりも、ボリュームがあった。ガッツリと食べてしまった。
その後、俺は使用人さんに促されて、立ち上がった。
何処に連れて行かれるのだろうかと考えながら、周囲を見て、首を捻る。
「あの、時島は?」
朝になったのだから、顔くらい見たいし、その後の容態や状況だって聞きたい。
「昴様でしたら、夕方にはお会いできます」
「え?」 夕方って……何故それまで会えないのだろうか。俺はこれでも一応、不安がっている時島のそばにいるために、ここに来たのだと思うのだが……。
そのまま連れて行かれた場所は、庭がよく見えるお座敷だった。外には紅い花が咲いている。俺が分かる花は、真っ赤な立葵だけだった。
中には――十数人の、和服姿の女性がいた。
使用人達とは異なり、皆、色鮮やかで上品な着物を纏い、正座をしていた。
髪をまとめている人もいれば、のばしている人もいる。全員が、ポカンとしてしまうほどの美人だった。様々な傾向の美人が揃っていた。
なんだここは? 大奥か?
そんな言葉が過ぎった時、俺は座るように促された。そして一カ所空けられていた席に、腰を下ろすよう指示された。
手前には、いかにも茶道で用いそうな茶碗がある。部屋の奥には、生け花と掛け軸があった。掛け軸には大蛇と牡丹が描かれていた。
その場では皆が笑顔で、雑談がなされていた。いかにも当然だというように、俺もその輪に組み込まれた。訳が分からない。どういう事なのだろうか、一体。
「どちらからいらしたの?」
「あっ、と、H市からです」
「あら、東京の方なのね」
「それは素敵ですのね」
「お名前は何と仰るの?」
――俗に言うハーレムのような気がしないでもない。
席を移動する事は無く、皆が上品にお茶を飲んでいる。だが、飲み方が分からない俺は、喉が渇いて仕方が無かったし、目の前の茶菓子も食べてみたかったが、その食べ方も分からない。
そして悩んだ挙句、このお
「あの……皆様は、どうしてこちらに?」
その瞬間、場が静まりかえった。
……聞かなければ良かったなと、俺の顔は引きつった。
「蛇神様に選ばれる事を、聞いていらっしゃらないの?」
「え?」
しかし予想外の言葉が返ってきた。
「今の大神様は、蛇憑きの時島様でいらっしゃるから、大変名誉なことですの」
「我が家は猫憑きよ」
「わたくしは、犬神憑き。わたくしこそが、昴様にはふさわしいわ」
「まぁなにを仰ってるいるの? 狐憑きの私の家の方が歴史は古いわ」
俺は呆然とするしかなかった。全く意味が分からなかったからだ。すると、奥に座っていた、それまでただ一人だけ沈黙を貫き通していた女性が、静かに俺を一瞥した。二十代後半くらいに見える。洗練された美を誇っていた。
「貴方に分かりやすいように言えば、お見合いなの、これは」
「え」
「霧生様と言ったかしら。お名前を聞いた事は無いけれど、貴方だって、候補に選ばれたのだから、『ただ人』では、ないのでしょう?」
「いや、あの俺は……時島のただの大学の同級生で、それで――」
すると場がざわついた。
「昴様を、時島家のお方を呼び捨てにするだなんて……!」
「それほどまでに仲がよろしいご友人なの?」
「ぜひ昴様のことを教えて下さいな」
何がなんだか分からないが、先ほどまでとは異なる混乱が発生した。何故お見合いの場に俺がいるというのだ。しかもだ。亡くなりそうな方がいるのに、お見合いなんてするものなのだろうか? その上、俺の耳が確かなら、猫憑きだの犬神憑きだの狐憑きだのと聞いた気がした。一番分からないのは、『大神様』だ。狼だろうか?
それにしても皆、争っているようではあるが、それすらもどこか冗談めかしたやりとりで、本当に上品だった。多く喋る人もいれば、物静かな人もいるが、皆、和やかだった。
そのようにして、昼食も彼女達と共にし、俺は夕方までそのお座敷にいたのだった。
トイレはすぐ側にあったのだが、着物の直し方が分からないから、正直限界まで我慢した。だが、行く度にトイレの前まで使用人さんがついてきて、出る度に直してくれたので、恥ずかしかったが問題は起きなかった。
やっと時島に会えたのは、夕食の時である。
俺は和服を着たまま、箸を手に取った。
漆塗りの椀で、お膳の上には、本日も精進料理のようなものが並んでいる。もうとっくに季節を過ぎ去っているだろうが、コゴミやゼンマイなどの山菜もあった。どうでも良いが俺は、山菜にマヨネーズと醤油をかけて食べるのが好きだ。よく、「普通醤油だけだよ」と、弟に嫌な顔をされたものである。
「それで、時島。お父さんは、本当に大丈夫なのか?」
会って早々聞くのも何だったが、やはり肝要なのは容態である。
何せ、今日は一日中、時島がいなかったのだ。何か変かがあったのかもしれない。
時島は驚くほどの無表情で、茶碗を置いた。仏頂面はよく見るが、無表情というのはあまり見た事が無かった――と、この時初めて気がついた。
「ああ、もう大丈夫だ。先が長くない事は、ずっと前から分かっていたしな」
「お母さんも亡くなってるんだろ? それじゃあお姉さんと二人きりになるのか?」
使用人さん達がいたとしても、それでは寂しかろうと思う。不安にもなるだろう。
「――何故知っているんだ? 母の事を、誰に聞いた?」
「え?」
はたとそこで、俺は、ただの夢だったと思い出した。
気まずい思いで俺は、豆腐に箸を伸ばす。
「夢を見たんだよ。小さい頃のお前の」
「……母は離縁して実家に帰った事になっている」
「は?」
まず、『なっている』という言葉に引っかかった。離縁なんて古めかしい言葉に引っかかっている場合では無かった。しかしそれ以上は……時島が何も言いたくなさそうだったので、俺は聞かずに、話を変える事にした。どうしても聞いてみたい事が、他にあったのだ。
「時島さ、そう言えば、お見合いをするのか?」
「……俺がするわけじゃない」
「でもみんな、『昴様・昴様・昴様』って言ってたぞ。しかも何であの場に、俺が行かなきゃならないんだよ。不自然すぎて気まずかった。まぁお前の話で盛り上がって、楽しかったけど。綺麗な人ばっかりだったし」
実際に今思えば楽しかった。
俺は庭の花々も綺麗だったなと考えながら笑った。夢の中で見た桜の木の、実物もあった気がしたのだ。だが、笑っている俺とは対照的に、時島は無表情のままだった。どうしたのだろう?
「蛇神が伴侶を選ぶんだ」
「え?」
「あそこにいたのは、お前も含めて候補者だ」
「ちょっと待って、何で俺が?」
「左鳥は……左鳥の事は、俺が愛しているから――だから、どこにいても蛇神が選びに来る可能性がある。それが怖かったんだ。なのに、お前が選ばれて欲しいと思う俺もいる。最低だな」
時島の声は細くて、いつもの力強さが無い。時島は、普段はどこか芯の通った響きの声をしている。それが、心地良いと感じる事が多い。ただ、今は違う。理由は何だろうかと考えていたら、『蛇神憑き』という語が頭に浮かんだ。
憑き物筋というだけでも、何か気落ちする事があるのかもしれない。
もしそうならば――元気を出して欲しい。そう思って、俺は精一杯明るい声を出す事に決める。
「最低なんかじゃないって。時島は良い奴だと思うよ。ちなみに選ばれると、どうなるんだ?」
「ウミコになる。今はそれしか言えない。詳細は、当主とその一族、ウミコ本人にしか知らせられない決まりなんだ」
「ふぅん。歴史ある家柄だと大変なんだな。この家、相当古そうだし。豪華だけど」
「左鳥、真面目に聞いて欲しい事がある」
「ん?」
「今夜もし、蛇の夢を見たら、その事は誰にも言うな。絶対に、だ」
「あ、ああ。蛇の夢、な。分かった」
俺は軽い気持ちで答えたのだが、時島は俺の言葉に漸く肩の力を抜いたようだった。