紫野に、温泉に誘われたのは、梅雨になる直前の事だった。
時島の家からほど近い場所にあるのだが、スーパー銭湯といった趣でもない。日中だけ安く入る事が出来る、旅館の温泉だ。
最近は非常に暑い。俺は二つ返事で了承した。汗を流したかったのだ。二人でタオルを持って、旅館に向かう。
……そこは本当に旅館なのかも怪しいくらい寂れていた。同時に、街から少し外れたただけの場所に、こんなにも緑が深い場所があったのかと俺は驚いたりもした。
H市の郊外にあるその旅館に入った瞬間から、俺は不思議と気分が爽快になっていた。
服を脱ぎ、二人で中へと入る。
客は俺達二人だけだった。穴場なのだろう。
「なんか此処、良いなー!」
思わず叫ぶように言って、俺は足を伸ばした。それから両手の指を組み、お湯を閉じ込めて、紫野に水鉄砲をぶつける。
「止めろって」
「ごめんごめんごめん」
「あー、でも左鳥と来て良かった。目の保養」
「確かに窓から見える木が神々しく思えるな」
「いやお前の体」
「ちょっ、馬鹿か、お前」
冗談だと判断して、俺は胸から下をタオルで隠した。女性はきっとこんな感じで隠すのだろう。ホモネタに乗っかったのだ。
そんな事よりも、本当に、大きな窓から見える新緑が、キラキラ輝いている。
お湯は茶色く濁っているから、タオルはその色に染まっていく。
「なんだか気分まで洗われる気がするって言うのは、こういう事を言うんだろうな」
俺がそう口にすると、紫野が唇の片端を持ち上げた。
「最近お前つかれてたから、尚更気分良いだろ」
今度こそ、『憑かれて』という意味では無いだろうと判断し、俺は苦笑した。
「活動は何にもしてないんだけどなぁ。強いて言うなら、パソコン疲れ?」
「ほどほどにしておけよ。だけど、それだけじゃないと思うな」
「だって他に何も無いし」
俺が何気なく答えると、こちらを見た紫野が、神妙な顔をした。
「気力が吸われてるだろ、確実に」
「――え?」
「視えるっていうのは、それだけ『力』を使うだろ」
そう言うと、紫野はタオルで首筋を拭う。
「力ねぇ……」
未だに俺には、そんなものが本当に存在するのか分からない。全然、実感が無い。
「だけど此処に入っていれば、気も休まるだろ? 体も」
「ああ。救われるよな、温泉って」
「違う。此処は霊穴だから、お前の力も補充されてるんだよ」
「え?」
「最近疲れてるみたいだったから、心配してたんだ」
紫野はそう言って微笑んだ。俺は紫野のこういう顔が好きかもしれない。
そして確かに、霊穴なのかはともかく、俺の体は驚くほど軽くなった。
風呂上がりには、紫野が特性ドリンクの瓶を渡してくれた。持参したらしい。
ついつい紫野が先に飲むのを確認してから、俺は蓋を開けた。
さすがに俺でも、紫野の持つ薬物は、オカルト的な意味でとても怪しいと、既によく分かっている。
茶色い瓶に入っていたそれは、緑色の液体で、味は甘くすっきりしていた。市販の栄養ドリンクに似た味だった。心地の良い炭酸が、喉を潤していく。
それから二人でベンチに座り、雑談をした。そこで俺は、紫野は知っているようだったからと、少し考えた末に言う事にした。
「そう言えばさ、時島の実家の話、ちょっと聞いた」
「――話したのか、アイツ……絶対に止めろよ」
「え? 何を?」
「……」
紫野が沈黙した。俺はただ首を傾げるしかない。俺は一体何を止めれば良いと言うのだろうか。
その時紫野が無言のまま、俺の手を握った。お風呂上がりだからなのか、紫野の手は、とても温かい。元々、俺よりも体温が高いのかもしれない。
「ずっと俺が側にいてやるから――違うか、いさせて欲しいから、だから、何て言えば良いんだ、その……とにかく一緒にいよう」
紫野はそう言うと俺の頭に手を回し、己の肩の方に引き寄せた。
紫野の温度に、俺は安心したような気がして、さらに肩の力が抜けていく。
また紫野と一緒に、温泉に来たいと感じた。