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第24話 温泉

 紫野に、温泉に誘われたのは、梅雨になる直前の事だった。

 時島の家からほど近い場所にあるのだが、スーパー銭湯といった趣でもない。日中だけ安く入る事が出来る、旅館の温泉だ。

 最近は非常に暑い。俺は二つ返事で了承した。汗を流したかったのだ。二人でタオルを持って、旅館に向かう。

 ……そこは本当に旅館なのかも怪しいくらい寂れていた。同時に、街から少し外れたただけの場所に、こんなにも緑が深い場所があったのかと俺は驚いたりもした。

 H市の郊外にあるその旅館に入った瞬間から、俺は不思議と気分が爽快になっていた。

 服を脱ぎ、二人で中へと入る。

 客は俺達二人だけだった。穴場なのだろう。

「なんか此処、良いなー!」

 思わず叫ぶように言って、俺は足を伸ばした。それから両手の指を組み、お湯を閉じ込めて、紫野に水鉄砲をぶつける。

「止めろって」

「ごめんごめんごめん」

「あー、でも左鳥と来て良かった。目の保養」

「確かに窓から見える木が神々しく思えるな」

「いやお前の体」

「ちょっ、馬鹿か、お前」

 冗談だと判断して、俺は胸から下をタオルで隠した。女性はきっとこんな感じで隠すのだろう。ホモネタに乗っかったのだ。

 そんな事よりも、本当に、大きな窓から見える新緑が、キラキラ輝いている。

 お湯は茶色く濁っているから、タオルはその色に染まっていく。

「なんだか気分まで洗われる気がするって言うのは、こういう事を言うんだろうな」

 俺がそう口にすると、紫野が唇の片端を持ち上げた。

「最近お前つかれてたから、尚更気分良いだろ」

 今度こそ、『憑かれて』という意味では無いだろうと判断し、俺は苦笑した。

「活動は何にもしてないんだけどなぁ。強いて言うなら、パソコン疲れ?」

「ほどほどにしておけよ。だけど、それだけじゃないと思うな」

「だって他に何も無いし」

 俺が何気なく答えると、こちらを見た紫野が、神妙な顔をした。

「気力が吸われてるだろ、確実に」

「――え?」

「視えるっていうのは、それだけ『力』を使うだろ」

 そう言うと、紫野はタオルで首筋を拭う。

「力ねぇ……」

 未だに俺には、そんなものが本当に存在するのか分からない。全然、実感が無い。

「だけど此処に入っていれば、気も休まるだろ? 体も」

「ああ。救われるよな、温泉って」

「違う。此処は霊穴だから、お前の力も補充されてるんだよ」

「え?」

「最近疲れてるみたいだったから、心配してたんだ」

 紫野はそう言って微笑んだ。俺は紫野のこういう顔が好きかもしれない。

 そして確かに、霊穴なのかはともかく、俺の体は驚くほど軽くなった。

 風呂上がりには、紫野が特性ドリンクの瓶を渡してくれた。持参したらしい。

 ついつい紫野が先に飲むのを確認してから、俺は蓋を開けた。

 さすがに俺でも、紫野の持つ薬物は、オカルト的な意味でとても怪しいと、既によく分かっている。

 茶色い瓶に入っていたそれは、緑色の液体で、味は甘くすっきりしていた。市販の栄養ドリンクに似た味だった。心地の良い炭酸が、喉を潤していく。

 それから二人でベンチに座り、雑談をした。そこで俺は、紫野は知っているようだったからと、少し考えた末に言う事にした。

「そう言えばさ、時島の実家の話、ちょっと聞いた」

「――話したのか、アイツ……絶対に止めろよ」

「え? 何を?」

「……」

 紫野が沈黙した。俺はただ首を傾げるしかない。俺は一体何を止めれば良いと言うのだろうか。

 その時紫野が無言のまま、俺の手を握った。お風呂上がりだからなのか、紫野の手は、とても温かい。元々、俺よりも体温が高いのかもしれない。

「ずっと俺が側にいてやるから――違うか、いさせて欲しいから、だから、何て言えば良いんだ、その……とにかく一緒にいよう」

 紫野はそう言うと俺の頭に手を回し、己の肩の方に引き寄せた。

 紫野の温度に、俺は安心したような気がして、さらに肩の力が抜けていく。

 また紫野と一緒に、温泉に来たいと感じた。

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