山神地区は、東京から車で三時間ほど行ったG県にあった。今回は運転を時島がしてくれる事になり、俺は助手席で地図を眺めていた。途中からGPSが狂ってしまったのか、ナビにノイズが入って使えなくなってしまったので、レンタカーに積んであった地図雑誌を捲っていたのである。携帯電話の電波も入らなかった。
何とか無事に目的地にはついた。そこで俺達は、時島が予約しておいてくれた、民宿に泊まる事になった。
俺はあまりよく知らない場所に来るとお腹が痛くなるタイプなので、恥ずかしながら浣腸を持参した。それですっきりした後、幸い客室にもシャワーがあったので、体の中までしっかりと洗った。お腹の調子が悪いと、旅行を楽しめない。
「長かったな。料理がきてるぞ」
時島の前に、浴衣姿で俺は座った。並んでいたのは郷土料理と天ぷら、すき焼きなどで実に食欲をそそる。時島は、俺の前にシャワーを浴びていた。
二人で麦酒を飲みながら、食事を楽しむ。以前高階さんに、「麦酒ばっかりだと、その内、腹だけ太るぞ」と言われた事を思い出したが、気にしない事にした。
それにしても、俺には一つだけ不思議に思う事があった。
即に言う『既視感』は、脳の錯覚だと講義で習っていたのだが……どうしてもこの場所に来た事がある気がしてならなかったのだ。例えば、『曲がり角には地蔵があるはずだ』なんて思ったら実際にあったりした。
――有髪の破戒僧と、紀想という名の青年の姿もまた頭を過ぎった。
「あのさ、時島――……今日は、離れて寝た方が良いと思う。ガラガラだし、もうひと部屋取った方が良いかも……」
「何故?」
「前に……お前の事を俺、襲っちゃったんだろう? やっぱり」
「……夢だと言っただろう?」
ならば、あの時の破れたコンドームは何だったのかと言おうとして止めた。時島がカノジョもいないのにゴムを常備しているのは、まぁ何というか見栄なのだろうと思って、そこだけは時島の男味と言うか人間らしさを感じる。
「その夢の感覚がするんだよ」
「――……そうか。だろうな」
「え?」
――だろうな? どういう意味かと悩んで、首を傾げると、不意に脳裏を、別の記憶に埋め尽くされた。俺はそこで、時島にそっくりの顔をした法師を見て泣いていた。
「いかないで下さい……」
今度は俺は、浴衣を着たまま時島の隣に座り直し、その袖に抱きついていた。
自分の体が何をしているのか分からないままで、一歩後ろからそれを見ているような感覚がする。
前と違うのは、時島もまた、法師の格好なんかしていなくて、普通に浴衣を着ている点だ。時島は、一体この状況をどう思っているのだろう。ドキドキと俺の胸が騒ぐ。何故、ドキドキなどしているのだ。しかも俺は、泣いていた。何故なのか胸がいっぱいで、涙が溢れてくるのだ。時島のそばにいられるのが、嬉しくて仕方がない。
「愛しています……」
「その言葉が、聞きたかったんだ」
時島は、俺の体を抱きしめると、耳元で囁いた。え? ええと、これはどういう状況なのだろう? 時島の体も誰かに取り憑かれてしまったと言う事なのだろうか?
「聞こえているだろう、左鳥」
俺は大きく頷いたが、それはあくまでも『つもり』であり、体はただ泣きながら時島に抱きついているだけだった。実際には、俺の体は動かなかった。
「ここは、俺にそっくりの優雅という名の破戒僧と、紀想というお前に取り憑いているモノが出会って一夜を過ごした場所なんだよ。寺の跡地に建てられた民宿だ。場所を探すのに手間取った」
そうだったのかと、変に俺は納得した。きっと来た事があると感じたのは、紀想の記憶が俺に混じったのだろう。ん? だから時島も、同情して、俺を抱きしめているのだろうか? わざわざ探したというのは、紀想のためなのだろうか?
「俺は臆病者なんだよ、左鳥」
そんな事は無いと思う。もし一人だったならば、俺は今頃、発狂しているだろう。しかし時島は、怪奇現象に遭遇しても、いつも平静を保っているのだ。臆病者ではない。
「だから――……こんな形でしか、お前に言えない。紫野が羨ましい」
「……優雅様」
俺は時島の名前を呼んだつもりだったのだが、口から出てきたのは法師の名前だった。
「浅ましいけどな、紫野にお前を盗られたくない。もうお前に対する想いは、友情なんかじゃないんだ」
……?
俺は時島を友達だと信じていた。それが違ったと言う事なのだろうか。
抱きしめられる力が、さらに強くなる。
「愛してる。もう友人としては見られない」
時島が俺の体の耳元で、苦しそうな声で続けた。
ぐるぐると、その言葉が頭の中を回っていく。俺の理性と体は、完全に乖離していた。
「これが終わったら、家から出て行っても良い――だから、最後に一度だけ」
俺の体は時島に押し倒されていた。
浴衣の合わせ目から、体温の低い手が忍び込んでくる。
怖くはない。それは現在、俺の体に、紀想が取り憑いているせいなのかもしれない。無性に愛を感じて心が切なくなっていた。
それから死枯死して、俺の乖離していた意識が体に戻り始めた。
「時島っ……」
「感覚が戻ったか――……だからなんだ? どこがだ? 悪い、もう止められない」
「ッ、時島……」
だが俺の体は、統制権が戻った頃には既に、熱かった。熱かったのだ。紫野に言われた言葉を思い出す。『気持ちが良いのは自然な事だ』――じゃあ、今のこの体の状況は?
「もっと」
思わず俺は、震える声を上げた。だが多分これは、俺の中の見知らぬ紀想の記憶からの言葉では無くて、俺自身の願いだった。
「怖いか?」
――正直、怖い。だけど共にいる相手が時島なら、時島ならば、良いと思えた。
――俺は別に、時島の事が好きなわけじゃない。そのはずだ。なのに、この時は時島の事が愛おしすぎて、嬉し泣きをしていた。
「もっと、声を聞かせてくれ、左鳥」
「時島……なんで……っう」
「愛してるって言っただろう?」
それから唇が降ってきた。時島が深く俺の唇を貪る。
それ以降の記憶は、俺の中では曖昧に変わってしまい、ぼんやりとしか思い出せない。
――翌朝、俺は浴衣をしっかりと着て、布団の上で眠っていた。
隣には時島が寝ていて、俺は腕枕をされていた。
「時島……昨日……」
起きていた様子だったので、恐る恐る呟いてみる。
「――夢」
「え?」
「夢には、しないで欲しい。俺が最低なのは分かっている。だけど、本心なんだ」
時島はそう言うと、俺の髪を撫でた。
「愛してる。一緒に過ごす内に、左鳥の事が好きになっていたんだ。いいや、親しくなる前から、気になってはいたんだ。最初は、消しゴムを貰った時だ。その後、憑かれやすい姿を見かけて、心配になって……一緒に住み始めたら、もうお前の事しか考えられなくなっていたんだ」
「時島……」
「伝えたかっただけだ。返事は欲しいけどな……今は言わないでくれ。聞きたくない」
「……」
「朝食にしよう。そろそろ届くはずだ」
その後は――朝食の席でも、帰宅する車の中でも、普通に雑談をした。
――引っ越す事も無かった。
ただ俺は……未だに、時島のあの時の告白には、何も答えてはいない。