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第14話 アレ

 紫野と飲んでから帰宅すると、もう午前一時に近かった。

 だが、時島の姿が無い。

 ベッドに寝ているわけでもなく、もう一つの部屋にいるわけでもなく、シャワーに入っている様子も無ければ、キッチンやトイレにもいる気配が無い。

 ――こんな時間に、何処に行ったのだろう?

 首を傾げつつも、思い当たる場所が、俺には一つだけあった。

 紫野は入る事を許されているが、俺には「絶対に入るな」と時島が言う、例の奥の部屋だ。しかもその部屋の中から音がした気がする。だから俺は扉の前まで行き、静かに声をかけてみる事にした。

「時島ー?」

 しかし、返事は無かった。だとすると、中から聞こえた物音は何なのだろう?

 まさか、泥棒?

 最近この辺では被害が多発していると言うから、そうなのかもしれない。

 だが本当に泥棒か分からない以上、いきなり警察に通報する事も躊躇われた。確かめなければならないだろうが……どうしよう。「入るな」と言う時島の声が甦る。

 迷った末、結局俺は和室の扉に手をかけた。恐る恐る中を見る。暗いので、電気をつけようと、俺は壁のスイッチを探した。そして、息を呑んだ。

「っ」

 その瞬間、中から黒い人影が飛び出してきたのだ。

 それは俺の体を通り抜けるように通過した。呆気に取られて反射的に振り返った瞬間、顔も何も無い――ただ黒い『それ』が、両手で俺の首を締めた。形だけは人型だ。

 冷たい手が俺の首に食い込み、鈍い痛みと息苦しさに襲われる。そのまま俺は転倒した。絨毯に後頭部を打ち付ける。手の力はどんどん強まっていく。影は俺に馬乗りになって、動きを封じてきた。必死で俺は首に、己の指を当てる。

 その黒い『ナニカ』も怖かったが、馬乗りになられているという――その体勢にも、恐怖を感じる。タクシー運転手の事を思い出しいた。

 ガクガクと俺は震えた時、肩に噛みつかれた。どうやらその黒い物体には、口があったらしい。噛み切られるような、痛みに身が竦む。

 ――何だよ、コレ。

 恐怖から思考が混乱し始めた時、服の下に冷たい手が入ってきた。

「嫌だ、止めろ!」

 俺は必死に叫んだ。しかしその手は止まらず、俺の体に触れる。いよいよ恐怖が強くなり、俺は動けなくなる。目をきつく伏せ、一所懸命に呼吸しようとするのに、過呼吸でも起こしたかのように酸素が入ってこなくなる。

 その内に――俺の体は、カッと熱くなった。認めたく無かった。俺の吐いた息は、熱い。

「あ、あ……嫌だ、止めてくれ」

 気づけば俺は、泣きながら懇願していた。

「消えろ」

 その瞬間、時島の険しい声がして、パシンと手を叩く音がした。

 ほぼ同時に、俺の体の上にあった重みが消える。

「大丈夫か、左鳥」

「……」

 何も言えないでいると、時島に抱き起こされた。俺は震えたままで、時島の腕に縋り付く。すると恐る恐るというように、時島が俺の背に手をまわした。

「俺の事も怖いか? それなら、離れるから」

「……怖くない、怖くないよ。それよりも、さっきの方が怖かった」

 時島が今度は、更に強く俺を抱きしめてくれた。俺は、時島の温度の優しさに、涙した。

 ――なおこの時、紫野が時島の事を好きらしい事は、すっかり忘れていた。後日悪い事をしてしまったと感じたものである。

 それから俺は、涙で滲む瞳を、時島に向けた。

「アレは、何だったんだ?」

「いつか話す。それよりも体が……辛いんじゃないのか?」

 その言葉に俺は、こんな時だというのに萎えていない自身を認識した。

「ヌいてやるから……その、怖がらせるような事は絶対にしない」

 まだ曖昧模糊としていた思考で、俺はその時頷いてしまった。

 その後俺は、寝てしまったようだった。

 結局あの黒いモノが何だったのかを、俺は今でも明確には聞いていない。

 俺の肩には数日間、ヘビに噛まれたような歯形が残っていたのだった。

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