――全ては、懐かしい記憶だ。
「ねぇ、サト」
パソコンのキーボードを打っていると、缶麦酒を持った弟が部屋に入ってきた。
「まだ飲み足りないのか?」
「それもある」
そう言うと弟は、ベッドに座って、缶を一つ俺に渡した。
もうすぐゴールデンウィークが終わるから、弟は都内に帰る。俺は転椅子を軋ませて、体ごとベッドへ向けた。そうして弟を正面から見る。その時、ポツリと右京が言った。
「時島さんとか、元気にしてるの?」
――『とか』に含まれるのは、恐らく紫野だろう。一度二人に、右京を紹介した事がある。以来弟は、俺がいない所でも、あの二人と遊んだりしていたようである。
「連絡してみたら良いだろ?」
何せ連絡先を知っているのだから。そう考えていると、弟が麦酒を口に含んでから、思案するように瞳を揺らした。
「実はさ、『左鳥と連絡が取れない』って言われたんだけど」
弟が言いづらそうに述べた。そうだったのかと、俺は納得した。
俺は……誰にも、実家に引っ越すと告げて来なかったのだ。
事前に伝えたのは、地元で暮らす、寺の――泰雅だけである。
「誰に言われたんだ?」
「紫野さん。実家にいるって言っといたけど」
「あー、その内連絡しようと思って、忘れてたんだよ」
「時島さんにも言ってないんだよね? 紫野さん、多分時島さんにも話してると思うよ」
「まぁな。別に良いよ」
話さなかった事には、特に深い理由があるわけではない。
俺はただ、在宅でのライター業に集中したくて帰ってきただけである。
現在は、どこで暮らしていても、仕事が可能だ。
だから俺の帰郷は、『あの二人』とは、関係が無い。
――少なくとも意識的には、現在はそう考えている。
「まだ、高校の頃の事件、気にしてるの?」
「気にしてないよ」
「嘘」
苦笑した右京を見て、俺は缶のプルタブに指をかけた。右京には、隠し事をしても無駄だ。右京はすごく鋭くて、俺に何かがあるとすぐに察するのだ。
大学時代にも、俺が悩んでいた時などに、見計らったかのように電話がかかってきたものである。本人に聞いても、「虫の知らせだった」としか言わないのだが……いつもタイミングが良い。あるいは、非常に俺にとっては悪い場合もある。優しさは嬉しいが、誰にも触れられたく無い時もあるからだ。
「そろそろ――期限の時だから、戻ってきたんじゃないの?」
右京が言った。
その声が意味するのが、『呪われた刻限』である事は、俺にもよく分かっていた。
あるいは時島達に相談すれば良いのかもしれないが、こればかりは、話す気にはなれない。
「サト、呪いなんて存在しないよ」
右京はオカルト話が好きだが、絶対に信じない。俺だって、多分本当は、信じているわけではない……のかもしれない。ただし、時島達との出来事が、全て幻覚だったとも思わない。
――嗚呼。
刻限が近づいてくる。俺にはここの所、夜になると鐘の音が聞こえる。遠くから響いてくるのだ。自分自身がおかしいのだと、幻聴だと言い聞かせながら、俺は必死でその音を振り払おうとしている。そうして瞼を伏せると、今度は嫌な光景がそこに映る。
「そうだな。無いって思ってるよ。あっても、ほら、俺には時島とか紫野がいるし、こっちには泰雅もいるしな」
「泰雅さんは元気なの? あの人、最近――『視える』って噂で、御祓いの依頼がひっきりなしに来るらしいけど」
地元の連中とは、俺は泰雅以外とは、連絡を取っていない。そんな俺よりも、弟は地元に詳しい。地元に暮らしている俺よりも、遠方にいる弟の方が、こちらの多くの友人とコミュニケーションを取っているのだ。現在の俺は、仕事のやり取り以外は、率先して誰かに連絡しようという気に、あまりならないのである。
弟は俺と違って、友達をきちんと大切にするのだ。俺はといえば、強いて言うなら泰雅しか、遊ぶ相手はいない。ただ右京を心配させたくなかったので、俺は泰雅の名前を挙げる事にした。
「明日にでも、泰雅の所に遊びに行ってくる予定だよ」
「そうなんだ。俺も明日帰るし、その後?」
「そう」
「左鳥は出不精だしね」
そう言ってから、右京が真面目な顔をした。
「泰雅さんに、しっかり話をした方が良いよ」
「ああ」
俺は曖昧に答えながら、きっと話す事は無いだろうなと内心で考えていた。
翌日俺は、弟をT駅まで、車で四十分かけて送っていき、その足で、
座布団に座り、飴色の卓を挟んで向かい合う。
「左鳥さぁ」
暫く飲んだ後で、頬を赤くした泰雅が、猪口を手に俺を見た。
「最近――肩こらないか?」
「仕事でPCに向かいっぱなしだからな」
「……そうか。ただ何かそう言うんじゃなくて、お前さ、アゲマンとか側にいなかったか? 東京にいた時」
「は?」
いきなり下ネタに変わったものだから、俺は日本酒で咽せそうになった。
「どんどん具合が悪くなってるって言うか、そういう風に見えるぞ」
「何だよそれ、どういう意味だ?」
「仕事、不規則なのか? 目の下の隈、真っ赤だし。まさか、泣きはらしてるわけじゃないだろうなぁ?」
「ああ、まぁちょっと、ここの所……あんまり寝てないからだな」
寝ていないのは嘘では無かった。
ただし仕事が理由ではない。悪夢が迫ってくるからだ。
「カノジョと別れてないんなら、東京に戻った方が良いぞ」
「そんなのいないよ」
俺には、『男の恋人はいたが』とは、言わなかった。いくら酔っているからと言っても、急にカミングアウトなんて出来ない。それに既に、自然消滅している。
「じゃあ大親友とか。そいつ、側にいるだけで、お前の事を守ってくれてたぞ。無意識的にしろ――それでもこっちに……地元にいるって言うなら、俺が守ってやるのも吝かではねぇけど、報酬は貰うからな」
「報酬ねぇ、おいくらですか?」
「体」
そういうと、クイと猪口の中身を泰雅が飲み干した。
「馬鹿か、お前。肉体労働でもしろって言うのか? 無理だから。俺はデスクワークが専門なんだよ。動きたくない」
そんな話をしてから、俺はその日は泊まらせてもらった。この夜は悪夢を見なかった。