それから、数日が経った。
あれ以降――時島は、いつもと全く変わらず、普通だった。何事も無かったかのようで、俺は夢を見ていたのかもしれないと、最近では思い始めている。
季節は初夏に差し掛かっていて、日中は半袖でも寒くない。だが夜には、暖房をつけたくなる。そんな日々が続いていた。
そこへ紫野が遊びにやってきた……喪服姿で。
迎え入れた時島は眉間に皺を寄せると、台所から食塩を持ってきた。塩をまくという概念は俺も知っていたが、果たして食塩でも効果はあるのだろうか……?
「長岡先輩が、亡くなったんだよ。俺、サークルの一つで一緒でさ」
ネクタイを解きながら、紫野が定位置と化したコタツのテーブルに座った。
俺はベッドに座りながら、確か同じ学科の先輩が亡くなったという話を、そう言えば大学でも聞いたなと思い出していた。面識は無い。
「交通事故で、峠のロックシェッドを過ぎた所から、落ちて亡くなったんだってさ」
溜息をついた紫野に、時島が麦茶を差し出す。
「正直焦った。丁度一週間前、先輩の車でそこを通ったんだよ。一昨日の亡くなった日も、まさに誘われてたんだ。バイトで断ったんだけどな」
まさに九死に一生だなと考えながら、俺は聞いていた。
「それで、時島に話がある。聞いてくれよ。一週間前にドライブしてた時、例のロックシェッドの所でさ、助手席に急に女が現れたんだ。運転してたのが先輩で、俺は後ろに乗ってた」
時島もまた定位置に座ると、目を細めた。時島に話があるという事は、オカルトな現象なのだろうと、俺は冷静にノートパソコンを起動させた。不謹慎だが、ネタになるかもしれないと考えていた。
「ロックシェッドに入った瞬間、少なくとも見た目は、生身に思える女が、助手席に座ったんだ。俺が呆然としてると先輩が、『カーブだと幻覚を見やすいんだよな』……なんて言い出してさ。先輩にも視えてたんだ」
「それで?」
俺が先を促すと、紫野が俯いた。
「女が言ったんだよ――『一緒に、三瀬川に行きましょう』って」
「三瀬川?」
何処だろうか? 俺が首を傾げていると、時島が心底嫌そうな顔で、紫野を見た。
「俺は怖かったから黙ってた。心の中では、『絶対に行かない』って思ってた。けどな、先輩は――笑いながら、『おう、行く行く。何処にでも連れてってやるよ』ってさ」
「――葬儀の後で不謹慎だけど、先輩は三瀬川に連れて行かれたって事?」
俺がおずおずと聞くと、紫野が曖昧に笑った。
「多分な。ただ、今でも分からないんだ。三瀬川って何処なんだろうな。それに全然関係無いかもしれない。あの辺は実際に、急カーブが多いから、事故も多いし」
すると、それまで黙って話を聞いていた時島が、唇を動かし、ポツリと言った。
「三途の川の事だ」
「「え?」」
「三瀬川は、三途の川の事だ」
俺の体が、底冷えした瞬間だった。
「もし紫野も同意していたら、危なかった」
時島はそう言うと、抽斗から半紙を取り出した。そこに筆ペンで、何事か書いていく。コタツの上の半紙には、俺は『書き初め』や『火の用心』と書く用途でしかお目にかかった事は無い。常備しているのがすごい。時島は書き終わると、紙を小さく折りたたみ、紫野に渡した。
「一週間前は持ち歩け」
「悪い、助かる――じゃ、俺、これからバイトだから帰る」
紫野は朗らかに笑いながら、時島の肩を二度叩くと、あっけらかんとした様子で帰っていった。
寧ろ呆然としてしまったのは、俺の方だ。
「時島……今の何? 前に俺が、肝試しの件で来た時も、お守りみたいなのくれたよな?」
「気休めだ」
絶対に嘘だなと、俺は思った。
俺は昔から神棚を見て育ったせいなのか、何となく神聖だなぁと思うものが分かる気がするのだ。気のせいかもしれないが。ただその直感が、今は、あの紙が『神棚のものっぽい』と訴えていたのだ。何よりホラー話を集めるには(至極不謹慎だが)――オチが欲しい。
「教えてくれよ」
「――今度また、お前が体を乗っ取られたらな」
「え?」
その声に、いつかの夜の事が、夢うつつに脳裏を過ぎった。
俺はここの所、強姦魔の夢では無く、法師姿の時島の夢を見る事が多い。その合間合間に多分実際の記憶なのだろうが――あの夜、時島と性行為に及んだ光景が、断片的に挟まってくる。俺達が体を繋げたのは、間違いないだろう。
「左鳥。前々から、言おうと思っていたんだけどな」
「な、何を?」
「お前は憑かれやすい」
「……そっか」
何となく、そんな気がしないでも無かった。そもそも俺が高校を中退した理由は、怪奇現象に遭遇したからだ。あの一件で多くの友人を失わなかったら、俺は恐らく高校生活を謳歌していただろう。
そしてあれ以来なのだ。個人的にも不可思議な現象に遭遇するようになったのは。それこそ昔から、弟と二人で、不思議な体験をした事もあったが、度を超えるようになったのはあの一件からだと思う。あまり怖くは無いが、俺にとってはオカルトな体験が増えた。
恐らく俺は――呪われている。
ただその事は、強姦された記憶以上に、想起したくない。時島にも、今は話したくなかった。じゃあいつかは話せる日が来るのかと言われても、分からないのだけれど。
「俺はお払いの専門家じゃないから、力にはなれないかもしれない」
「――時島って、何なの?」
「ただ視えて、そして少しだけ、対話が出来て、追い払える。それだけなんだ。精神科に行けと笑ってもらっても良い。幻覚かもしれない。そう考える方がまっとうだ」
「俺にはそれは分からない。ただ――ここに泊めてもらって助かってる」
一対一で居て、恐怖感を抱かない男友達なんて、俺には時島しかいない。
そこで気づいた。
そうか、俺と時島は、友達なのか。
「――守ってやれるとは、俺は言えない。それでもか?」
「うん」
この日。
俺は、はっきりと時島の事を、大切な友人なのだと自覚した。